2015年9月15日火曜日

井筒俊彦著「意識と本質 精神的東洋を索めて」岩波書店刊pp.90-95より抜粋 其の2

其の1からのつづきです。
「脱然貫通」という言葉で表現される意識のこの突然の飛躍転換がいかに激烈な実存的体験であったかは、その決定的瞬間の実感を描く朱子の文章に生々と写されている。
「突如、真夜中の静寂(しじま)を劈く烈しい雷鳴(表層意識のかたく閉ざされた闇の厚みを、耳を聾するばかりの凄まじい雷鳴が貫通する)。と、見る間に、数かぎりない扉が一斉に開く(突然、深層意識が発動し、それに呼応して太極の扉が四方八方に向って開かれて、この意識と存在の原点から無数の事物が発生してくる光景を目撃する)」と。そして、この異常な体験を通じて、「無心(未発達の至極における深層意識)そのものの中にあらゆる経験的事物(已発の状態における現象界のすべて)が内含されていることを悟ったなら、その時、その人は、まさに「易」の創始者その人と面々相対して立つ(太極そのものと完全に一化している)と言っていいだろう」と朱子はこの文を結ぶ(「朱子文集」三十八。原文は詩。ここには大意を取る)。
こんな烈しい実存体験にまで人を導くはずの「窮理」の道。経験界に存在する事物について、一つ一つの「理」を探る、というが、果たして文字通りすべての物の「理」を窮め尽さなくてはならないのだろうか。程子の門下でも朱子の門下でも、それは大きな問題だった。竹一つ、椅子一つにしても、その「理」を窮めるにどれほどの時日を要するのか見当もつかない。もし本当に、ありとあらゆる事物の「理」を一つ残らず把握してはじめて「貫通」するものであれば、生命がいくつあっても足りないだろう。
ある人が伊川に問うた、「格物(窮理)を実践するためには、あらゆる物について、それぞれのその理を窮め尽さなくてはならないのでしょうか。それとも、ただ一つの物だけ取り上げて、その理を完全に窮めてしまえば、あとはそのまま万理に貫通することができるのでしょうか」。
伊川は答える、「たった一つの物の理を把握しただけで、どうして一時に万理に貫通することができよう」。だが、と彼は付け加える、そうかといってまた、天下にあるかぎりの一切の理を窮め尽せというわけではない、と。先に引用した一文(「遺書」十八)がこれに続く。曰く、「今日は一物の理を窮め、明日はまた別の一物の理を窮めるというふうに、段々に積習していくべきであって、こうして窮め終った理が多く積ると、突然、自らにして貫通体験が起こるのだ」と。つまり、あらゆる事物のあらゆる「理」を窮めなくとも、習熟の度が或るところまで来ると、突然、次元転換が起こる、というのである。
ということは、しかし、「窮理」の最終的目的からすれば、事物の「理」、すなわち一物一物の「本質」そのものがそれ自体として問題なのではない、いやそれも問題であり重要であるにしても、むしろそれより、こうした修練を通じて、事物をそういう形で、そういう次元で、見ることの出来る意識のあり方を現成させることの方が、はるかに重要なのだということである。そのような意識の次元が拓かれて、全存在世界の原点である「太極」そのものを捉えてしまえば、ひるがえってその立場から、経験的世界の個々の事物に分殊して内在する個別的「太極」を窮め尽すことなど、いともたやすいことなのである。
意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
意識と本質
井筒俊彦

井筒俊彦著「意識と本質 精神的東洋を索めて」岩波書店刊pp.90-95より抜粋 其の1

但し、人間の意識は、その表層的能力だけをもってしては、経験界の事物全体を、一つの壮麗な「本質」として見通すことはできないし、また事物の一々をこういう「本質」秩序の一環として捉えることもできない。それを可能にするためには、宋儒の立場からすれば、どうしても「静坐」による意識の深層能力の開発が必要だし、またそれを通じて、その観点から、表層意識の認識機能にも新しい意義付けをすることが必要になってくる。そして、このようにして開発された表層、深層両方にわたる全意識の認識能力を挙げて、表層から深層に及ぶ存在界の真相を探求する。それが「格物窮理」である。なお、ここで存在界の真相とは、言うまでもなく、事物の「本質」構造を意味する。
このように「窮理」が、意識の表層から始めて、次第に深層に向う道であるかぎりは。そしてまた上述のとおり、意識の深層領域が意識のゼロ・ポイント(意識の無の極点であって同時に意識の有の始点)に究極するものであるかぎりは、「窮理」の道程は、意識即存在の根本原則に従って、その極限において、存在のゼロ・ポイント(存在の絶対無であって同時に有の始原、「無極にして太極」)に到達するものでなくてはならない。この全過程をみごとに素描した朱子の文章を思い出す。曰く、「致知在格物(知を致すは物に格(いた)るに在り)と経文にある、その意味するところは、もし我々は己れの知を完全無欠にしようと望むならば、経験界に存在する一々の物について、それぞれの理(本質)を窮め尽くそうとする努力が必要だ、という。思うに、人は誰でも、その霊妙な心のうちに必ず知(事物の本質認知の能力)を備えており、他方、天下に存在する事物、一つとして本来的に理を備えていないものはない。ただ(心の表層能力だけしか働いていない普通の状態においては)事物の理を窮めるということができない。つまり、せっかく人間の心に備わる知もその本来の機能を充分に果たすことができないというわけだ。
されば、儒教伝統における高等教育においては、必ずまず何よりも真っ先に、学人たちに、自分が既に理解しているかぎりの事物の理を本として、およそ天下に存在するすべての事物の理を次々に窮め、ついにその至極に到達することを要求する。こうして努力を続けること久しきに及べば、ある時点に至って突如、豁然として貫通するものだ。そうなれば、一切の事物の表も裏も、精も粗も、あますところなくそっくりそのまま開顕し、同時にその心の広大無辺の働きが残りなく明らかになる」(「大学章句」五章補伝)。
ここに語られている「豁然貫通」―「本質」直観に関わるこの決定的実存体験を指して、「脱然貫通」またはそれに類する表現もよく使われる、例えば、程伊川、「今日、一件に格(いた)り(一物の理を窮め)、明日また一件に格(いた)る。積習するところ既に多く然して後、脱然として自ら貫通するところあり」(「遺書」十八)。また張横渠、「こいねがわくは心を遊ばせて浸熟し、一日、脱然として大寐の醒むるを得るがごとくならんのみ」(「張子全書」十四)。

岩波理化学辞典 第5版 岩波書店刊pp.767-768より抜粋

相転移
相変化(phase change)ともいう。温度、圧力、外部磁場、成分比などの変数の変化によって物質が異なる相に移る現象。
原子、分子などミクロの構成要素の相互作用による協力現象である。
相転移には第1種相転移と第2種相転移がある。
固体の融解、同素変態(→変態)、液体の気化などは第1種相転移に属し、鉄などの強磁性体がある転移点(キューリー温度)で常磁性に変るのは第2種相転移の例である。

1)      1種相転移(phase transition of the first kind). 熱平衡状態として2相の化学ポテンシャルμ1μ2が等しいという条件で定まり、温度T圧力Pによるそれらの1導関数は不連続となるので、1次相転移(first order transition)ともよぶ。この場合、エントロピーや比体積は不連続であり、転移熱(潜熱ともいう。それぞれの場合、融解熱、蒸発熱などという)が伴い、PT面における2相共存線についてクラウジウス―クラペイロン式が成立する。相1から相2への転移には新しい相2の核の生成が必要なので、準安定な過熱あるいは過冷却として相1が転移点を越えてある限界まで存続し続けることがある。

2)      2種相転移(phase transition of the second kind). 化学ポテンシャルの1次導関数が転移点で連続で、転移熱(潜熱)はなく、また比体積の不連続もない。
2次導関数は不連続で、比熱や磁化率などが転移点で不連続となるので、2次相転移(second order transition)と呼ばれる(3次以上の導関数の連続性を論じることによって、より高次の相転移を定義することもできる)。比熱が転移温度の上下でギリシャ文字のラムダのように発散する場合が多いが、それをλ転移という。このタイプの2次相転移は臨界現象と呼ばれ、一般にある秩序変数に関する秩序―無秩序転移であって、合金結晶中の原子配列規則化、磁性体における種々の磁気的秩序の生成(磁気転移)、常伝導状態から超伝導状態への転移、液体ヘリウムの超流動状態への転移など、重要かつ興味ある多くの例がある。
2次相転移の理論は非常に進歩し、臨界点付近の異常性について深い理解が得られている。→臨界指数。
 
 
  • ISBN-10: 4000800906
  • ISBN-13: 978-4000800907

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    エルンスト・ユンガー著 「労働者・支配と形態」 月曜社刊 pp.149-151より抜粋 

    「同時代人が技術について為しうる証言は、貧弱なものでしかない。特に人目を引くことは、技術者自身が、人生をその広がり全体において把握する一つの形象の中に自らの使命を描きこむことができない、ということである。
     
    その理由は、技術者が、なるほど個別的労働性格を代表するにせよ、全体的労働性格との直接的関係を全く持たない、という点にある。この関係を欠く場合には、いくらその個別的性能が優れていても、結合力のある、内的に矛盾のない秩序について語ることは到底できない。全体性の欠如は、自らの特殊な問題設定を決定的な地位にまで持ち上げようとする無規律な専門家主義の台頭に見て取れる。しかし、たとえ世界が技術者によって完全に設計され尽くしたとしても、重要な問題のどれ一つとして決着を見ることはできないであろう。
     
    技術と本当の関係を保つためには、技術者以上の者になることが必要である。人生と技術との関係を考察しようとする場合に、否定的な結論に至るか、肯定的な結論に至るかに関わりなく、常に計算を合わせなくさせる誤りは、実は同一である。この根本的誤謬は、人間を技術の創造者と見るか、それらの犠牲者と見るか、いずれにせよ、人間を技術と直接的に関係付けしてしまう点にある。この場合、人間は自分が制御できない力を呼び出してしまった魔法使いの弟子として現れるか、あるいは人工の楽園への道を突き進む絶え間ない進歩の創造者として現れるか、いずれかになる。
     
    しかしながら、人間が技術と直接的でなく間接的に結び付けられていることを認識するならば、ひとは、これと全く異なる判断に到達する。つまり技術とは、労働者の形態が世界を動員する方法なのである。人間が決定的に技術との関係を取り結ぶ程度、人間が技術によって破壊されるのではなく支援される程度は、労働空間において通用する言語に熟達することにほかならない。この言語は、文法のみならず形而上学をも有するがゆえに、他のどんな言語よりも重要で深遠である。この関連において、機械は、人間同様、二次的な役割を演じる。機械は、この言語が語られる発声器官の一つにすぎないのである。
     
    さて、技術を、労働者の形態が世界を動員する方法として理解すべきであるとするならば、まず、技術がこの形態の代表者、すなわち労働者に特に適合しており、その意のままになる、ということが証明されなければならない。しかし次に、労働空間の外部にある絆の代表者たち、たとえば市民やキリスト教徒や国民主義者はいずれも、技術とこうした適合関係に立たない、ということが示されなければならない。むしろ技術には、そのような絆に対するあからさまな攻撃や秘められた攻撃が含まれているにちがいない。
     
     これらは実際にともに事実であり、我々は以下において幾つかの事例を手掛かりにそれを確認することにしよう。曖昧さ、とくに、技術に関する発言のほとんどが帯びるロマン主義的曖昧さは、確固たる視点の欠如に起因する。ひとが非常に多様な出来事の不動の中心として労働者の形態を認識するやいなや、曖昧さはすぐに消滅する。この形態は、総動員を促進する一方で、この動員に抵抗するもの全てを破壊する。それゆえ技術的な変化という表面的出来事の背後に、包括的な破壊と世界の別種の構成とが生じていることが証明されなければならない。これら二つのいずれにも全く特定の方向性が存在する。」

    労働者―支配と形態

    労働者・支配と形態



    


    エルンスト・ユンガー著 川合全弘訳「労働者 支配と形態」月曜社刊pp.50-51より抜粋

    形態を見ることは、ある存在をその生の全体的で統一的な充溢において認識することである限り、革命的な行為である。


    道徳的美的評価も学問的評価も超えたところで起こるという点に、この出来事の大いなる優越性が存在する。


    このような領域でまず重要なことは、あるものが善か悪か、美か醜か、誤か正かということでなく、それがいかなる形態に属するのかということである。

    これとともに、十九世紀に正義という語の下に理解されていたもの全てと全く相容れないような仕方で、責任の範囲が拡大する。

    すなわち個々人がどの形態に属するのかということが、彼の身分証明となったり、また罪となったりするのである。


    このことが認識され承認される瞬間に、非常に人工的となった生が自らを保護するために設けた、あの恐ろしく複雑な装置は崩壊する。

    なぜなら、我々がこの研究の冒頭で野生の無垢と名づけたあの態度は、もはやそれを必要としないからである。

    これは存在による生の修正であり、生の新たないっそう大きな可能性を認識する者は、徹底的に遂行されるこの修正を歓迎する。


    新たないっそう大胆な生を準備するための手段の一つは、解き放たれて独断的となった精神の価値基準を否定すること、市民時代に人間に対して行われてきた教育作業を破壊することにある

    このことが根本から遂行されるためには、そしてこのことが世界を百五十年ほど前に逆戻りさせる一種の反動として遂行されないようにするためには、この学校を最後まで通過してしまうことが必要である。

    いまや重要なことは、次のような捨て身の確信を持つ類いの人間を教育することである。

    すなわち抽象的な正義や自由な研究や芸術家的良心などの主張は、市民的自由の世界内部で一般に認められうる審級よりももっと高い審級の法廷で自らを証明しなければならない、という確信がそれである。


    このことがまず思考において行われるとするならば、それは、敵とは敵の得意分野で戦うべきである、という理由からである。

    生に対する精神の反逆への最善の応答は、精神に対する精神の反逆である。

    我々の時代を高度かつ残酷に享受するためには、この爆破作業に参加することが不可欠である。
    ISBN-10: 4865030050
    ISBN-13: 978-4865030051

    エルンスト・ユンガー