2015年9月15日火曜日

井筒俊彦著「意識と本質 精神的東洋を索めて」岩波書店刊pp.90-95より抜粋 其の1

但し、人間の意識は、その表層的能力だけをもってしては、経験界の事物全体を、一つの壮麗な「本質」として見通すことはできないし、また事物の一々をこういう「本質」秩序の一環として捉えることもできない。それを可能にするためには、宋儒の立場からすれば、どうしても「静坐」による意識の深層能力の開発が必要だし、またそれを通じて、その観点から、表層意識の認識機能にも新しい意義付けをすることが必要になってくる。そして、このようにして開発された表層、深層両方にわたる全意識の認識能力を挙げて、表層から深層に及ぶ存在界の真相を探求する。それが「格物窮理」である。なお、ここで存在界の真相とは、言うまでもなく、事物の「本質」構造を意味する。
このように「窮理」が、意識の表層から始めて、次第に深層に向う道であるかぎりは。そしてまた上述のとおり、意識の深層領域が意識のゼロ・ポイント(意識の無の極点であって同時に意識の有の始点)に究極するものであるかぎりは、「窮理」の道程は、意識即存在の根本原則に従って、その極限において、存在のゼロ・ポイント(存在の絶対無であって同時に有の始原、「無極にして太極」)に到達するものでなくてはならない。この全過程をみごとに素描した朱子の文章を思い出す。曰く、「致知在格物(知を致すは物に格(いた)るに在り)と経文にある、その意味するところは、もし我々は己れの知を完全無欠にしようと望むならば、経験界に存在する一々の物について、それぞれの理(本質)を窮め尽くそうとする努力が必要だ、という。思うに、人は誰でも、その霊妙な心のうちに必ず知(事物の本質認知の能力)を備えており、他方、天下に存在する事物、一つとして本来的に理を備えていないものはない。ただ(心の表層能力だけしか働いていない普通の状態においては)事物の理を窮めるということができない。つまり、せっかく人間の心に備わる知もその本来の機能を充分に果たすことができないというわけだ。
されば、儒教伝統における高等教育においては、必ずまず何よりも真っ先に、学人たちに、自分が既に理解しているかぎりの事物の理を本として、およそ天下に存在するすべての事物の理を次々に窮め、ついにその至極に到達することを要求する。こうして努力を続けること久しきに及べば、ある時点に至って突如、豁然として貫通するものだ。そうなれば、一切の事物の表も裏も、精も粗も、あますところなくそっくりそのまま開顕し、同時にその心の広大無辺の働きが残りなく明らかになる」(「大学章句」五章補伝)。
ここに語られている「豁然貫通」―「本質」直観に関わるこの決定的実存体験を指して、「脱然貫通」またはそれに類する表現もよく使われる、例えば、程伊川、「今日、一件に格(いた)り(一物の理を窮め)、明日また一件に格(いた)る。積習するところ既に多く然して後、脱然として自ら貫通するところあり」(「遺書」十八)。また張横渠、「こいねがわくは心を遊ばせて浸熟し、一日、脱然として大寐の醒むるを得るがごとくならんのみ」(「張子全書」十四)。

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