2016年7月26日火曜日

20160725 文語と口語との関係について、語り得ぬものとは・・

本日は若干帰宅が遅くなり、既に366記事は作成したので、ブログ記事作成は止めて早めに寝ようかと思いましたが、日常性もしくは慣れというものはなかなか恐ろしいものであり、こうして本日分ブログ記事の作成を始めていました・・(苦笑)。

ともあれ、こうして記事を作成していますと「さて、では次の目標は400記事にしてみようか・・。」と考える私が他方におります・・(笑)。

そうしますと「ここでブログ記事を作成している私とは、日常生活を送っている私とは、また別の相にいるのではないか?」と不図考えてしまいます・・(笑)。

これを異言しますと、文章を書く相の私と、日常生活を送る私とは、その基層の部分においては同一であるものの、その表層(?)においては分離しており、あるいは分離しているように見え、このことは、さきに抜粋引用したエルンスト・ユンガーの記した文章と何かしら関連があるのではないかとも考えさせられます・・。

また、この主題ににこだわっているようにも見受けられるかもしれませんが、それは、こうした文章を記す私がはじめて経験していることであるからと云えます。

また、こうした経験とは、通常文章を記す際において書き著すことがないのが通常であるのかもしれません・・。

いや、あるいは、こうした経験とは、特に普遍性を持つものではなく、私自身がそうした経験をしているように他者に対して見せるために記しているだけという可能性も否定できません・・(苦笑)。

そして、こうした、いわゆる精神内部の動態、状況をできるだけ精確に書き記そうという行為とは、そもそもが徒労に終わることの方が多いのかもしれません・・。

それ故、様々な宗教および宗派が併存しながらも、その平和的な相互理解があまり進まず、それとは逆にそれらの間での観念上の対立が実際の闘争にまで至るのではないでしょうか?

まあ、こうした意見とは比較的陳腐なものではあるのですが・・(苦笑)。

ともあれ、「では、そうした精神内部の動態、状況の精確な記述を妨げているものは一体何であろうか?」と考えた場合、おそらくそれはコトバでいうと割合簡単であり「自己欺瞞」といったものではなかろうかと思います・・。

もちろん自身を含め、我々とは、この自己欺瞞を日常的に行っているのではないでしょうか?

そしてそれは、様々な事物に対して自己欺瞞を思考のなかに置かないようにする学問が再現可能性・普遍性を重視する理系学問分野一般の特徴ではないでしょうか?

それ故、理系的な哲学の著作ともいえるヴィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」の最終章、結語において「人は語り得ないものについては沈黙するほかない。」という結論にたどり着いたのかもしれません・・。

とはいえ、後年著者は自身で、この結論を含め、この著作での主張を撤回しております。

それはつまり、新たな創造・思索を行うために我々人間とは、語り得ない対象についてもコトバを用いて認識あるいは認識の共有を試みなければならならないという現実が、沈黙することよりも有効であるという考えに達したからであると思われます・・(我々日本人はこの認識がイマイチ苦手であるのではないだろうか?)。

また、たとえ、認識の共有が図られず、逆に対立に終わったとしても、まだそちらの方が持続可能性・発展持続性があると考えたのかもしれません・・。

そして、このように記していると「日常生活における自身と文章を書く自身の相が少なくとも表層においては分離しているのではないか?」といったさきの意見も、たとえ、それが無意識的な自己欺瞞によるものであるとしても、少なくとも、故意にその現象を歪めようとする意図に基づかないという意味においては、まあ、許容されても良いのではないかと思われましたが如何でしょうか?

ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

そして、さる四月の熊本における大地震によって被災された地域の今後の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。