現在、野上弥栄子著の「迷路」を再読しておりますが、読みながら、その登場人物について色々と考えてみるのも小説を読む際の大きな楽しみの一つではないかと思います。
その点において、この著作の登場人物の多くは、そのモデルとなっている実在の人物、もしくは、この作品の登場人物がモデルとなっている後の時代の小説、映画のキャラクターなどが想起されます。
そして、そうした要素が多く見出され、またオリジナルに近い古い時代に書かれた始原ともいえる作品とは、やはり名作といっても良いのではないかと思います。
そうしますと、この「迷路」とは、少なくとも書かれた当時においては他にあまり類例を見ないタイプの長編小説であったのではないかと思います。
また「迷路」の少し後の時代を舞台とした長編小説として大西巨人著の「神聖喜劇」が挙げられますが、この作品の文体とは「迷路」と大きく異なります。
両作品ともに著者が北部九州出身であることは、私にとってはなかなか面白い発見であり、また、双方の文体における相異には、否応なく両著者の性差に、その主な原因を見つけようとしてしまいます・・(笑)。
とはいえ「神聖喜劇」の文体そして、その書かれている内容とは、極めて男性的であり、また同時に当時の普通、一般的な通念、世論が隠されも、誤魔化されもせずに堂々と書かれております。
それ故、この著作を一度精読してみて、過去の戦争において為された非道とされる行いについて考えてみますと、随分視野が広がるか、あるいは多少考えも変わるのではないかと思います・・。
そして、まさしくその意味において、この作品とは問題作であるのではないかと思われます。
また、そのように考えますと、この「迷路」も少なくとも上巻においては、前記と同様(問題作)ではないかと思います。
しかし、一般的にこうした長編の問題作といわれるものは、概ね子供の時分に読んでも、意味が分からないことから、あまり意味はなく、またそれとは逆に、年齢を重ねた後に読むと、今度は目が疲れ、さらに真剣に内容を読めなくなることから、同様にあまり意味がないように思われます。
無論そうでない方々も少なからずいるとは思いますが・・。
とはいえ、やはりこうした問題作といわれるような作品とは、若いうちに、真剣に読めるうちに読んでおいた方が良いのではないかと思いますが、如何でしょうか?
ここまで興味を持って読んでいただいた方々、どうもありがとうございます。