2024年4月1日月曜日

20240331 株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻 pp.22‐25より抜粋

株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻
pp.22‐25より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560094888
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560094884

クリミア戦争は、また、最新の工業技術が動員されたという意味でも、まさに近代戦の最初の例だった。新型のライフル銃、蒸気船、鉄道、近代的な兵站、電報をはじめとする新しい通信技術、革命的な軍事医学などが動員された総力戦だった。戦闘の現場に戦争報道記者と戦争写真家が登場したのも初めてだった。しかし、同時にクリミア戦争は古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争でもあった。戦闘の最中に敵味方の話合いがもたれ、戦場から負傷者と死体を収容するための一時的な休戦が頻繁に実現した。有名な「軽騎兵旅団の突撃」の舞台となったアリマ川の戦いやバラクラヴァの戦いなど、クリミア戦争の初期段階の戦闘はナポレオン時代の戦争の様相を色濃く残していた。しかし、最も長く、また最も決定的な局面となったセヴァストポリ攻防戦の段階に入ると、工業力を背景として戦われた第一次大戦(一九一四~一八年)を先取りする塹壕戦の特徴が明らかとなる。十一ヶ月半に及んだ攻防戦の間、ロシア軍、英国軍、フランス軍が掘り進めた塹壕の延長距離は一二〇キロに及び、攻撃軍と防衛軍の双方が交わした銃弾は一億五〇〇〇万発、砲弾は各種口径を合わせて五〇〇万発に達した。
 クリミア戦争という名称を使うこと自体が、そもそも、この戦争の世界的な規模を表現するには十分ではなかった。戦争の深刻な影響は、西ヨーロッパとロシアだけでなく、バルカン半島からエルサレムまで、また、コンスタンチノープル(イスタンブール)からカフカスに至るまでの広大な地域に及んだ。これらは、当時、東方問題と呼ばれていた問題の紛争地域である。東方問題はオスマン帝国の崩壊を目前にして発生した重大な国際問題だった。少なくとも東方問題との関連を明示するという意味では、ロシアが採用した「東方戦争」(ヴァストーチナヤ・ヴァイナー)の方が実態にふさわしい名称だったかもしれない。また、トルコ側が使った「トルコ・ロシア戦争」も、数世紀に及ぶロシアとオスマン帝国との抗争という歴史的な意味合いを表現するには適切かもしれない。しかし、「トルコ・ロシア戦争」という名称からは、この戦争に西欧諸国が介入したという決定的な要素が抜け落ちてしまう。
 戦争はオスマン帝国とロシア帝国の軍事衝突として一八五三年に始まった。衝突が始まった地域は現在のルーマニアにあたるドナウ川下流域のモルダヴィア公国とワラキア公国だったが、戦場はすぐにカフカス地方に拡大する。カフカスでは、トルコと英国がイスラム教徒諸部隊を支援して反ロシアの抵抗闘争を奨励していた。戦争はカフカスからさらに黒海沿岸地域全域に拡大する。一八五四年に入って、英国とフランスがトルコに味方して参戦し、さらに、オーストリアが反露連合に参加する動きを見せると。ロシア皇帝はドナウ両公国から軍隊を撤退させ、その結果、主戦場はクリミア半島に移る。しかし、一八五四~五五年にかけて、戦争はその他のいくつかの地域でも戦われることになる。たとえば、英国海軍はバルト海に進出してロシアの首都サンクトペテルブルグへの攻撃を計画し、白海では実際にソロヴェツキー修道院を砲撃している。一八五四年七月のことだった。ロシアへの攻撃はシベリアの太平洋岸でも実行された。(一八五四年、英仏連合艦隊はカムチャッカ半島のペトロパヴロフスク・カムチャツキーを砲撃した。同市の湾内には英仏艦隊を撃退した記念碑が今も残っている)
 クリミア戦争は世界規模で戦われた戦争だったが、その事実はこの戦争に関わった人々の多様性にも反映されている。本書に登場する関係者の顔ぶれを見れば、期待(または懸念)に反して軍人が少なく、むしろ軍人以外の人々、たとえば、国王や女王、貴族諸侯、廷臣、外交官、宗教指導者、ポーランドやハンガリーの革命家、医師、看護婦、ジャーナリスト、画家や写真家、パンフレット作者や作家が多数登場することに気づくであろう。たとえば、クリミア戦争についてのロシア側の見方を最も雄弁に語っているのは他ならぬ文豪レフ・トルストイである。トルストイはロシア軍の青年士官としてクリミア戦争の三つの戦線(カフカス、ドナウ、クリミア)を体験している。読者は、また、英国軍兵士の「トミー」や、フランス軍アルジェリア歩兵連隊のズアーヴ兵や、ロシア軍の農奴兵など、この戦争で戦った一般兵士と士官の生の声を彼らの手紙や回想記を通じて知ることになるであろう。
 クリミア戦争については、英語で読むことのできる書物だけでも数多く出版されている。しかし、英国の立場からでなく、ロシア、フランス、オスマン帝国の立場からの資料を幅広く利用して、これらの大国がこの戦争に関与するに至る経緯を当時の地政学的、文化的、宗教的背景を含めて解明しようとする試みは、言語の如何を問わず、本書が初めてだろう。歴史的文脈を重視するという本書の特徴からして、戦闘場面の描写を期待する読者にとっては、最初の数章は退屈かもしれない(したがって、そこは飛ばして読むという手もある)、ただし、私がこれらの章で言いたかったのは、歴史の巨大な転換点としてのクリミア戦争の再評価である。クリミア戦争はヨーロッパ、ロシア、中東地域の歴史にとって重大な転換点であり、その影響は現在に及んでいる。ところで、これまで英国には「クリミア戦争は無意味で不必要な戦争だった」という根強い固定観念があった。軍事作戦上の不手際と芳しくない戦果についての当時の国民の落胆から生まれたこの固定観念は、長い間、英国の歴史界に陰を落としてきた。その間、歴史学者たちはクリミア戦争を等閑視し、まともなテーマとして取り上げてこなかった。そのため、英国では、クリミア戦争はもっぱら戦史物語として扱われてきた。戦史物語の熱心な語り手たちの多くは歴史学者としてはアマチュアであり、いつも繰り返されるテーマは、たとえば、「軽騎兵旅団の突撃」、英国軍司令部の失態、フローレンス・ナイチンゲールの活躍などの同じ話だった。この戦争のきっかけとなった宗教的背景、「東方問題」に含まれる複雑な国際政治、黒海地域におけるキリスト教とイスラム教の競合関係、ヨーロッパに蔓延していた反ロシア主義などについての本格的な議論はほとんど皆無だった。しかし、これらの問題を抜きにしては、クリミア戦争の本質とその重要性を理解することは難しいのである。