そしてまた、この「精度が上がった「認識の型」」としての「予言力」は、これまた過日に投稿した引用記事内にある「歴史意識」を培地として成長、発展していくのではないかと思われます。
その意味において、我が国が古来より歴史意識が乏しく、そしてまた近代以降も柳田が述べた通り「予言力」が落第ものであったならば、どのようにすれば、それらを改善することが出来るのかと自然、考えが至るわけですが、その解決策は、深く根本から改善しようとすると、かなり大掛かりに社会制度に変更を加える必要があるため難しいと思われますが、同時にそれを卑近なものとして表現しますと「ある程度の精度がある歴史意識を備えた人物の数が、社会にて多くなれば良い」ということになります。あるいは、もっと端的には「さまざまな故事や歴史などについて能動的な興味を持つ人々が増えれば良い」ということになりますが、しかし、このあたりの「・・・が良い」といった段階までは、おそらく我が国は、他国と比べて相対的に同質性が高いことから、スムーズに集団内での同意を得ることが出来るのでしょうが、しかしそれ故に、その後に生じる集団内部での競争が激しいものとなり、かえって文化の発展などが阻害されてしまうことは、現在に至るまで、少なからず生じているのではないかと思われるのです。(優等生病・一番病・カニバケツ)
あるいは、これをもう少し詳説しますと、こうした云わば「ある権威を持つとされる見解や考え、そして、それらを背景とする組織、集団に対する凝集性」は、我が国では古来より、その傾向が強いと云えますが、これは集団の中で凝集性を惹起させる起点となる、一応は全体を見廻しつつ、自らの集団にとって(都合の)良い意見や方策を述べることが出来る人々が居ることから機能していたのだと云えますが、そうした方々が少なくなってきますと、それまでの歴史的文脈を逸脱や無視したような存在の方々が現れて、短期間のうちに社会を席捲することもあるのかもしれませんが、しかし、歴史の中にあっては、実はこうした流れや存在もまたトリック・スター的な存在として、その「認識の型」が存在するのだと云えます。そして、これら多様な「認識の型」のうちの何れが、眼前にある現象に対する理解として適切であるのか、あるいはまた、これら複数の「認識の型」を組み合わせることにより、現象への理解が深まり、そして新たな視点などを見出すことも出来るのではないかと思われるのですが、しかし、さきの凝集性を惹起させるような、深慮があり、有徳な年を重ねた方々も少なくなり、それに代わり、テレビやインターネットなどを舞台として、幾つかの見解を軸とした凝集的な動きが生じるのでしょうが、それらの中で強くなりがちであるのは、やはりまた、さきに述べたような「歴史的文脈を逸脱や無視したような方々による見解の軸」であるように思われます。そして、こうした軸への凝集が強まり、そしてあるところにまで達すると、我が国の場合であれば、どうも変な方向へ行ってしまうのではないかと思われるのです・・。
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祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
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