pp.91-94より抜粋
ISBN-10 : 410105049X
ISBN-13 : 978-4101050492
松枝家の大ぜいの使用人のなかで、こうも無礼なあからさまな飢渇を、目に湛えているのは飯沼一人であった。来客の一人がこの目を見て、
「失礼だが、あの書生さんは、社会主義者ではありませんかね」
と尋ねたとき、侯爵夫人は声を立てて笑った。彼の生い立ちと、日頃の言動と、毎日「お宮様」に参詣を欠かさないことを、よく知っていたからである。
対話の道を絶たれたこの青年は、毎朝早く必ず「お宮様」に詣でて、ついにこの世で会うことのなかった偉大な先代に、心の中で語りかけるのを常としていた。
むかしは端的な怒りの訴えであったのが、年を経るにつれて、自分でも限度のわからない厖大な不満、この世をおおいつくすほどの不満の訴えになった。
朝は誰よりも早く起きる。顔を洗い、口をすすぐ。紺絣の着物と小倉の袴で、お宮様へ向かうのである。
母屋の裏の女中部屋の前をとおって、檜林の間の道をゆく。霜柱が地面をふくらませ、下駄の朴歯がこれを踏みしだくと、霜のきらめく貞潔な断面があらわれた。檜の茶いろの古葉のまじる乾いた緑の葉のあいだから、冬の朝日が紗のように布かれ、飯沼は吐く息の白さにも、浄化された自分の内部を感じた。小鳥の囀りは希薄な青い朝空から休みなく落ちた。胸もとの素肌を、発止と打ってくる凛烈な寒さのうちに、心をひどく昂らせるものがあって、彼は「どうして若様を伴って来られないのか」と悲しんだ。
こういう男らしい爽やかな感情をただの一度も清顕に教えることができなかったのは、半ば飯沼の越度であり、清顕をむりやりこの朝の散歩へ連れ出すような力を持つことができなかったのも、半ば飯沼の科であった。6年間のあいだに、彼が清顕につけた「良い習慣」は一つもなかった。
平らな丘の上にのぼると、林は尽きて、ひろい枯芝と、その中央の玉砂利の参道のはてに、お宮様の祠、石灯籠、御影石の鳥居、石段の下の左右の一対の大砲の弾丸などが、朝日を浴びて整然と見える。早朝のこのあたりには、松枝家の母屋や洋館をめぐる奢侈の匂いとはまったくちがった、簡浄の気があふれている。新しい白木の桝のなかに入ったような心地がする。飯沼が子供のころから美しいもの善いものと教えられたものは、この邸うちでは死の周辺にしかないのである。
石段をのぼって社前にたったとき、榊の葉の光りを乱して、赤黒い旨を隠見させている小鳥を見た。鳥は柝を打つような声を立てて眼前に翔った。鶲らしかった。
『御先代様』と飯沼はいつものように、合掌しながら、心の中で語りかけた。「何故時代は下って今のようになってしまったのでしょう。何故力と若さと野心と素朴が衰え、このような情けない世になったのでしょう。あなたは人を斬り、人に斬られかけ、あらゆる危険をのりこえて、新しい日本を創り上げ、創成の英雄にふさわしい位にのぼり、あらゆる権力を握った末に、大往生を遂げられました。あなたの生きられたような時代は、どうしたら蘇えるのでしょう。この軟弱な、情けない時代はいつまで続くのでしょう。いや、今はじまったばかりなのでしょうか?人々は金銭と女のことしか考えません。男は男の道を忘れてしまいました。清らかな偉大な英雄と神の時代は、もう二度と来ないのでありましょうか?
そこかしこにカフエーというものが店開きをして客を呼んでいるこの時代、電車の中で男女学生間の風儀が乱れるので、婦人専用車が出来たというこの時代、人々はもう、全力をつくし全身でぶつかる熱情を失ってしまいました。葉末のような神経をそよがすだけ、婦人のような細い指先を動かすだけです。
何故でしょう。何故こんな世の中が来たのでしょう。清いものが悉く汚れる世が来たのでしょう。私が仕えている御令孫は、正にこういう弱々しい時代の申し子になられ、私の力も今は及びません。この上は死して私の責を果すべきでしょうか?それとも御先代様は深い御神慮により、ことさらこうなりゆくように、お計らいになっておられるのでしょうか?』
しかし、寒さも忘れてこの心の対話に熱してきた飯沼の胸もとには、紺絣の襟から胸毛の生えた男くさい胸がのぞき、自分には清らかな心に照応する肉体が与えられていないことを彼は悲しんだ。そして一方、あのような清麗な白い清い肉体の持主の清顕には、男らしいすがすがしい素朴な心が欠けていた。
飯沼はそういう真剣な祈りの最中に、体が熱してくるにつれて、凛とした朝風をはらむ袴のなかで、急に股間が勃然とするのを感じることがあった。彼は社の床下から箒をとり出し、狂気のようにそこらを掃いて廻った。
ISBN-13 : 978-4101050492
松枝家の大ぜいの使用人のなかで、こうも無礼なあからさまな飢渇を、目に湛えているのは飯沼一人であった。来客の一人がこの目を見て、
「失礼だが、あの書生さんは、社会主義者ではありませんかね」
と尋ねたとき、侯爵夫人は声を立てて笑った。彼の生い立ちと、日頃の言動と、毎日「お宮様」に参詣を欠かさないことを、よく知っていたからである。
対話の道を絶たれたこの青年は、毎朝早く必ず「お宮様」に詣でて、ついにこの世で会うことのなかった偉大な先代に、心の中で語りかけるのを常としていた。
むかしは端的な怒りの訴えであったのが、年を経るにつれて、自分でも限度のわからない厖大な不満、この世をおおいつくすほどの不満の訴えになった。
朝は誰よりも早く起きる。顔を洗い、口をすすぐ。紺絣の着物と小倉の袴で、お宮様へ向かうのである。
母屋の裏の女中部屋の前をとおって、檜林の間の道をゆく。霜柱が地面をふくらませ、下駄の朴歯がこれを踏みしだくと、霜のきらめく貞潔な断面があらわれた。檜の茶いろの古葉のまじる乾いた緑の葉のあいだから、冬の朝日が紗のように布かれ、飯沼は吐く息の白さにも、浄化された自分の内部を感じた。小鳥の囀りは希薄な青い朝空から休みなく落ちた。胸もとの素肌を、発止と打ってくる凛烈な寒さのうちに、心をひどく昂らせるものがあって、彼は「どうして若様を伴って来られないのか」と悲しんだ。
こういう男らしい爽やかな感情をただの一度も清顕に教えることができなかったのは、半ば飯沼の越度であり、清顕をむりやりこの朝の散歩へ連れ出すような力を持つことができなかったのも、半ば飯沼の科であった。6年間のあいだに、彼が清顕につけた「良い習慣」は一つもなかった。
平らな丘の上にのぼると、林は尽きて、ひろい枯芝と、その中央の玉砂利の参道のはてに、お宮様の祠、石灯籠、御影石の鳥居、石段の下の左右の一対の大砲の弾丸などが、朝日を浴びて整然と見える。早朝のこのあたりには、松枝家の母屋や洋館をめぐる奢侈の匂いとはまったくちがった、簡浄の気があふれている。新しい白木の桝のなかに入ったような心地がする。飯沼が子供のころから美しいもの善いものと教えられたものは、この邸うちでは死の周辺にしかないのである。
石段をのぼって社前にたったとき、榊の葉の光りを乱して、赤黒い旨を隠見させている小鳥を見た。鳥は柝を打つような声を立てて眼前に翔った。鶲らしかった。
『御先代様』と飯沼はいつものように、合掌しながら、心の中で語りかけた。「何故時代は下って今のようになってしまったのでしょう。何故力と若さと野心と素朴が衰え、このような情けない世になったのでしょう。あなたは人を斬り、人に斬られかけ、あらゆる危険をのりこえて、新しい日本を創り上げ、創成の英雄にふさわしい位にのぼり、あらゆる権力を握った末に、大往生を遂げられました。あなたの生きられたような時代は、どうしたら蘇えるのでしょう。この軟弱な、情けない時代はいつまで続くのでしょう。いや、今はじまったばかりなのでしょうか?人々は金銭と女のことしか考えません。男は男の道を忘れてしまいました。清らかな偉大な英雄と神の時代は、もう二度と来ないのでありましょうか?
そこかしこにカフエーというものが店開きをして客を呼んでいるこの時代、電車の中で男女学生間の風儀が乱れるので、婦人専用車が出来たというこの時代、人々はもう、全力をつくし全身でぶつかる熱情を失ってしまいました。葉末のような神経をそよがすだけ、婦人のような細い指先を動かすだけです。
何故でしょう。何故こんな世の中が来たのでしょう。清いものが悉く汚れる世が来たのでしょう。私が仕えている御令孫は、正にこういう弱々しい時代の申し子になられ、私の力も今は及びません。この上は死して私の責を果すべきでしょうか?それとも御先代様は深い御神慮により、ことさらこうなりゆくように、お計らいになっておられるのでしょうか?』
しかし、寒さも忘れてこの心の対話に熱してきた飯沼の胸もとには、紺絣の襟から胸毛の生えた男くさい胸がのぞき、自分には清らかな心に照応する肉体が与えられていないことを彼は悲しんだ。そして一方、あのような清麗な白い清い肉体の持主の清顕には、男らしいすがすがしい素朴な心が欠けていた。
飯沼はそういう真剣な祈りの最中に、体が熱してくるにつれて、凛とした朝風をはらむ袴のなかで、急に股間が勃然とするのを感じることがあった。彼は社の床下から箒をとり出し、狂気のようにそこらを掃いて廻った。