2025年9月24日水曜日

20250923 三島由紀夫と小野田寛郎から見る忠誠について および地域性について

 三島由紀夫と小野田寛郎。彼ら二人の人生から、戦後日本人にとっての「忠誠」という概念について考えさせられます。両名はいずれも国家、そして天皇に対して深い敬意と忠誠心を抱きながら、その表現の仕方は著しく異なっていました。三島由紀夫は戦後社会において天皇への忠誠心が失われていくことを憂い、自らの思想に殉じて劇的な死を遂げました。それに対して小野田寛郎は、敗戦後も遠くフィリピンのルバング島で30年近く残置諜者として任務を続け、生き抜くことによって忠誠を示しました。

 三島(平岡公威)は1925(大正14)年、東京の高級官吏の家庭に生まれました。旧制学習院で学び、高等科卒業の際には主席として昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受しています。その後、東京帝国大学法学部に進学し、敗戦を挟んで1947(昭和22)年に東京大学を卒業しました。卒業後、一時期、大蔵省に勤務しましたが、文学への情熱を抑えきれず作家へと転じました。『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』などで文壇に登場し、文学的評価と経済的成功を両立させましたが、その特異性は作品以上に、むしろ、さまざまな行為を通じて示されたと云えます。肉体改造、居合や格闘技の稽古、自衛隊への体験入隊、さらに民間防衛組織「楯の会」の設立など、彼は自己の思想と美学を身体を用いて表現しようとしました。

 1970(昭和45)年11月25日、三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地で決起し、自衛隊員に呼びかけを行いましたが、支持は得られず、割腹自決に至りました。この行為は単なる自決ではなく、美学と政治思想を身体を通じて表現する試みでした。明治天皇崩御の際に乃木希典夫妻が遂げた静かな殉死とは異なり、三島は事前に報道機関へ告知し、多くの視線を集めました。忠誠とは内面的な信念に留まらず、社会全体に突きつけるべき抗議であるという考えが、彼をある種の「演出された殉教」へと導いたのだと考えます。そして、その死は当時の我が国社会に大きな衝撃を与えました。

 一方、小野田寛郎は1922(大正11)年、和歌山県海草郡(現海南市)に生まれました。旧制海南中学校を卒業後、会社勤務を経て徴兵され、陸軍予備士官学校を経て、陸軍中野学校で遊撃戦を学び、フィリピンのルバング島に派遣されました。そして敗戦後も降伏を信じず、仲間の死や飢餓、病に耐えながら三十年近く潜伏を続けました。やがて、1974(昭和49)年、元上官からの正式な任務解除を受けて、ようやく投降しました。その忠誠には演出性はなく、ただ「命令だから」という一点に支えられていたと云えます。いわば、栄誉や喝采を伴わない、寡黙で持続的な行為でした。

 帰国後、小野田は昭和天皇との謁見を辞退し、「陛下に謝られるのが嫌だった」と語りました。ここには、自らの忠誠を他者の評価に委ねない、反骨精神に近い強い自律性 が表れています。とはいえ、戦後の我が国社会は、彼にとって居心地の良い場所ではなく、やがてブラジルに渡り、開拓、牧場経営に従事しました。また、晩年には再来日し、青少年育成に尽力しましたが、その歩みもまた、派手さはない「忠誠のその後」であったと云えます。帰国時、我が国の社会は彼を英雄視しつつも、同時に約30年という隔絶に戸惑いを抱きました。小野田にとっての忠誠とは、土俗的なものであり、そして長い年月を生き抜いて示されたものでした。

 両者を比較しますと、「思想に殉じた三島」と「命令に殉じた小野田」という構図が看取され得ます。三島は都市的で衆目を集めると云う意味で演劇的な手法を用いて命を賭して忠誠を示し、他方の小野田は、長期にわたる潜伏生活を通じてその忠誠を示しました。そして、その姿には、我が国の古い記録とも通底するものがあります。

 『続日本紀』神護景雲三年(769)の条に、陸奥国牡鹿郡の俘囚、大伴部押人による願い出が記されています。押人は「祖先は紀伊国名草郡片岡里の出であり、かつて蝦夷討伐に従った大伴部直が陸奥に至って住み着いた。しかし子孫は蝦夷に捕らえられ、代々俘囚の身となった」と述べました。やがて朝廷の威徳により当地の平定が進み、良民となったため「俘囚の名を解き、調庸民として扱ってほしい」と願い出て、許可されています。そこには「異郷に長く留め置かれて、やがて帰還を果たす」という経験が記されています。

 紀州を出自とする者が、異郷にて俘囚として生き、世代を経て帰還したと云うこの記録は、ルバング島に30年近く留め置かれた末に帰国を果たした小野田の姿とも重なります。さらに、いずれも紀州北部を出自として、異郷にて不自由を強いられ帰還に至ったという点で共通します。

 さらに、注目すべきは、紀州に残る名草戸畔の伝承です。『日本書紀』によれば、神武東征の際、当地の女酋長・名草戸畔は神武軍に抗して討たれ、遺体は三つに分けて祀られました。その首を祀るのが海南市の宇賀部神社、通称「おこべさん」であり、小野田家の本家は代々この神社の神職を務めてきました。小野田自身、自らの「負けじ魂」の源流を名草戸畔に見ており、紀州人の反骨精神を受け継いでいると語っています。彼の密林での潜伏やブラジルでの開拓は、この精神の発露でもあったのだと云えます。

 このように見ますと、忠誠とは思想であるのか、行為であるのか、あるいは生か死か、といった問いが浮かびます。三島と小野田は、この問いに対してそれぞれ異なる答えを示したと云えます。そして両者の忠誠の対比に加え、さきの歴史記録を通して浮かび上がるのは、時代を超えて受け継がれる当地の「反骨精神」です。ともあれ、こうしたことから、忠誠の様相は一様なものではなく、その多様な姿は、よくよく見ますと、我々日本人の歴史的経験に、それなりに深く刻まれているのではないかと思われましたが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。
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