ISBN-13 : 978-4385162232
初期の近代哲学は、しばしば二つの学派に区分されるものとして提示される。合理主義学派(こちらには、ルネ・デカルト、ベネディクトゥス・スピノザ、イマヌエル・カントらが含まれる)と、経験主義学派(こちらには、ジョン・ロック、ジョージ・バークリーそしてディヴィッド・ヒュームらがふくまれる)だ。
実際には、それぞれに異なる哲学者たちを二つのはっきりしたグループに分けることなど簡単にできる話ではない。なにしろ、このグループの本質的なちがいは、認識論的なものであった。
つまりそれは、私たちはなにを知りうるか、自分たちが知っているということをどうやって私たちは知っているのかといった点にかんするちがいであった。簡単に言うなら、経験主義者たちは知識は経験に由来すると述べ、合理主義者たちは知識は理性的反省によってのみ獲得されうると主張するのであった。
ライプニッツは合理主義者であったが、理性の真理と事実の真理のあいだにライプニッツが設けた区分は、合理主義と経験主義との論争に興味深いひねりをくわえるものであった。ライプニッツが主著「モナドロジー」で述べるところによるなら、原理的にあらゆる知識は合理的反省によって到達可能だ。だが、私たちの合理的能力につきまとう欠点のせいで、知識を獲得する手段として経験にも依拠せざるをえない。
心のなかの宇宙
ライプニッツがどのようにしてこの結論にいたりついたかを見るには、彼の形而上学、つまりライプニッツが宇宙はどのように構成されていると考えたかを、わずかでも理解しておく必要がある。
ライプニッツによるなら、世界のあらゆる部分、あらゆる個々の物は、ある明瞭な概念ないし「観念」をともなっており、その観念のおのおのには、それ自身が本当のところなんであるのか、さらにはほかのものとどう関連しているのかにかかわるいっさいが内包されている。
宇宙のなかのありとあらゆるものが連結しあっていればこそ、あらゆる観念がほかのすべての観念と連結していることになるのだし、さらにこの連結をたどって宇宙全体の真理を発見することも、原理的には理性的反省の力だけで可能になるとライプニッツは主張する。こうした意味での反省が、ライプニッツの「理性の真理」という考えへつうじてゆく。だが、人間精神には、そうした真理のうちのごく少数のもの(たとえば幾何学の真理のような)しか把握できない。そのため経験にも頼らざるをえず、そこから「事実の真理」が生れる。
こうして、たとえば雨が降っていると知ることから、地球上のどこかほかの場所では明日なにが起こるかを知ることへと推論を進めることが可能となる。ライプニッツの考えでは、その答えは、宇宙が「モナド(単子)」と呼ばれる個別的で単純な実体から構成されているという事実に潜んでいる。おのおののモナドはほかのモナドから分離されていて、それぞれが過去・現在・未来のあらゆる状態における全宇宙の完全な表象をふくんでいる。この表象がすべてのモナドのあいだで同調(シンクロナイズ)すると、あらゆるモナドが同じ内容をもつことになる。神が事物を創造したのはこのようにしてだとライプニッツは語る。つまり、あらゆる事物は、「前もって確立されている調和状態」にあるのだ。
ライプニッツは、すべての人間精神がそれぞれ一個のモナドであり、したがって宇宙についての完全な表象をふくむと主張する。だから私たちには、原理的に言って、この世界およびそれを越えたものについて知りうるすべてを、ただ自分自身の精神を探索するだけで知ることができる。たとえば、ベテルギウス星について私がもつ観念を分析するだけで、ついには、いま現在のベテルギウス星の表面温度を決めることすらできるだろう。だが実際には、私が絶望的なまでにーライプニッツの用語で言うなら、「無限に」-複雑なために、またそれぞれを私が網羅することができないために、ベテルギウス星の温度は、理性の真理なのかそれとも事実の真理なのか。その答えを見つけるには経験的な手法に訴えかけるのが筋なのかもしれないが、私の理性的反省によってそれを発見できたほうがよかっただろう。だから、それがどちらの真理であるかは、私がどのようにしてその答えにいたりついたかに左右される。だが、これがライプニッツの言いたいことなのだろうか。