日高川は、紀伊半島中央部に位置し、紀伊山地に属する護摩壇山を水源とし、山々を縫うように西へ流れ、和歌山県御坊市にて紀伊水道へ注ぐ。上流には険しい山地が広がり、中流には河岸段丘や扇状地、そして下流には沖積平野と海岸段丘が展開する流域一帯は、多様な自然環境と豊富な資源に恵まれ、縄文時代から現代に至るまで、流域に住む人々の暮らしの基盤となってきた。
縄文時代の流域では、早くから人々の活動が為され、狩猟・採集・漁労を中心とした生活が山間部から沿海部に至るまで広く展開されていた。時代が下るにつれて、定住化が進展していった。特に縄文後期以降は、河川周辺や河岸段丘などに集落が多く営まれるようになり、そして生活空間は広がっていった。
弥生時代に入ると、水稲耕作の普及により定住化はさらに進み、集落の規模や構造にも変化が認められるようになる。そして、水稲耕作の進化により生産が増加する一方で、集落間での交流や競合も次第に活発となり、社会構造の複雑化や高地性集落といった防御の要素が地域に現れ始めるようになる。この時期の流域は、周辺地域との結びつきが強まり、また広域な文化圏にも組み込まれるようになった。
古墳時代になると、特に下流域には多くの古墳が造営されるようになり、こうした古墳の分布から、流域を拠点とした政治・経済的中心の存在があったことが認められる。また、それら古墳の造営様式や副葬品などの文化的要素は、周辺地域との技術的・文化的交流により形成されたものであり、当流域が広域な文化ネットワークに属していたことが理解出来る。
奈良時代には、律令国家の体制が地方へと及び、流域も行政区画に組み込まれていく。郡制の整備により、役所や官人の存在が地域に定着し、条里制による土地支配や神社祭祀の制度化も進展した。この時代、仏教も浸透し、寺院や火葬墓が営まれるようになり、政治と信仰が結びついた社会の枠組みが構築されていく。
平安時代には、荘園制の展開とともに、流域の土地は貴族や寺社の支配下に置かれ、農業生産が経済の中核を占めるようになる。川と海を結ぶ地理的条件を活かして、物資の集積や輸送の要地として港町が形成され、日高川は内陸と外海を結ぶ重要な経済動脈としての役割を担うようになる。このように、地域社会は単なる農村にとどまらず、交易や流通、信仰を包摂した多機能な構造へと変容していった。
鎌倉・室町時代には、武士階級の台頭により、地域支配のあり方が大きく変化する。土着の武士(国人)たちは、山間部や流域に拠点を築き、自立的な政治勢力を形成していく。一方、地域の寺院や城館は権力の象徴となった。こうして地域社会は、政治や信仰が融合した独自の秩序を形成していった。この間も川と港を基盤とした物資の流通は衰えることなく、地域の内と外をつなぐ重要な経路として存続していた。
戦国時代には、流域も紀伊国をめぐる争乱の波に巻き込まれることになるが、そうした不安定な状況の中でも、地域の農業技術や治水の知恵は培われ、安定した生産基盤が維持された。流域での川港などの拠点は、軍事・経済的にも利用され、再び戦略的な要衝としてその存在感を示すようになる。
江戸時代には、紀州藩による統治のもとで流域にも安定がもたらされ、農業とともに林業・海運がさらに発展する。山間部では木材生産が盛んになり、伐採された材は川を利用して筏として下流へと運ばれた。川と連携する港町では商業が発展して物流の要所として藩内外との経済的つながりを深めていった。
明治以降の近代化のなかで、流域も行政制度や交通網の整備が進められた。こうして、従来の水運・海運に加えて陸路が加わることで、流域の中心地は新たな交通・経済の拠点としての性格を強めるようになる。やがて、戦後の高度経済成長期以降は、都市への人口流出や産業構造の変化により、地域は過疎化や経済的停滞といった現在にも続く課題を抱えるようになる。一方、近年では自然環境や歴史的資源を活かした地域振興や文化財保全への取り組みも進められ、持続可能な地域社会のあり方が模索されている。
このように、日高川流域もまた、自然環境と人間活動が絶えず相互に影響し合いつつ、縄文時代から現代にいたるまでの歴史を紡いできた。河川と海の接点にあるという地理的特性のもとで、多様な文化が交錯し展開してきたこの地域は、今なお、その豊かな歴史文化を現代に伝えている。
【縄文時代】
日高川流域における縄文時代の遺跡群は、当時の自然環境や人々の暮らしを考察するうえで重要な手がかりとなる。特に下流域・沿海部に位置する川辺町や御坊市には、縄文時代当時、深い入り江(潟湖)が形成されていたと推測され、その地形に沿って複数の縄文遺跡が分布している。
上流域では、田辺市龍神村に所在する湯ノ又遺跡がある。これは日高川左岸(北岸)の河岸段丘上での宅地造成中に発見されたもので、縄文時代中期から後期にかけての土器片や、粘板岩製および砂岩製の磨製石斧などの石器類が出土している。
中流域の日高川町では、三十木地区の下流に位置し、日高川が大きく蛇行する佐井地区の北側河岸段丘上に大芝遺跡が所在する。当遺跡は、1953年(昭和28年)の紀州大水害後の復旧作業中に石器や土器が発見されたことにより明らかとなり、その後発掘調査が実施された。これまでの調査により確認された主な遺構・遺物には、縄文時代後期(約4,400年前)の竪穴式住居跡、石斧・石鏃などの石器類、深鉢や浅鉢などの土器が含まれる。特筆すべきは、竪穴式住居が13棟確認されており、これは和歌山県内で発掘調査された縄文遺跡としては最多棟数である。また、住居跡については今後の調査によってさらに増加する可能性も指摘されている。加えて、食料や道具の廃棄に用いられたとみられるゴミ捨て穴や、木の実などを貯蔵していたと考えられる貯蔵穴も確認されている。出土した土器の中には、東海地方や関東地方に広く分布する型式のものも含まれており、広域的な文化交流を示唆する重要な資料と評価されている。
下流域の川辺町には、三百瀬・松瀬・入野・和佐・石浦などの縄文遺跡が所在し、対岸の御坊市には上野口遺跡が存在する。これらの遺跡は河岸段丘上に立地していたが、1953年(昭和28年)の大水害によって破壊され、多くの遺物が流出したことで、遺跡の存在が明らかとなった。松瀬遺跡は標高約25メートルの段丘上に位置し、縄文前期末から晩期末にかけての多様な土器が出土している。石器類は主にグレーチャート製で、石鏃・石匙・石錘・石斧などが確認されている。和佐遺跡は標高約18メートルに位置し、勾玉をはじめとする装身具や、石器類・土器片が多数出土している。そのほか、美浜町田井地区の斉津呂遺跡からは磨製石斧や石鏃が、塩屋町北塩屋の東大人遺跡ではナイフ形石器が、また、名田町の野島・壁川崎・馬地遺跡からは多種の石器類が出土しており、これらも含めて日高川流域における縄文時代の人々の営みの広がりを物語っている。
まとめとして、こうした多様な遺跡の存在は、縄文時代においてすでに日高川流域が人々の移動や他地域との交易・交流の拠点として機能していたことを示唆している。換言すれば、中山間地域から沿海部に至るまで、変化に富んだ自然環境を有する日高川流域は、縄文の人々に多様な生活資源と舞台を提供していたと云えよう。その意味で、流域に点在する縄文遺跡とその出土物は、紀伊半島における縄文文化の地域的特性と、列島規模で展開された文化的ネットワークの両側面を考察するうえでの重要な資料であると云える。
【弥生時代】
縄文時代においては、上・中・下各流域にて集落が営まれていた日高川流域であるが、縄文後期からは定住化が進み、やがて弥生時代に至り水稲耕作を基盤とした社会が普及して主流になると、集落は下流域に集中するようになる。こうした時代の流れを象徴するのが1999年に発掘された御坊市湯川町財部に所在する堅田遺跡であると云える。当遺跡は、弥生時代前期にはじまる環濠集落であり、我が国最古級とされる青銅器「ヤリガンナ」の鋳型や、鋳造するための溶炉遺構が出土したことで注目を集めた。鋳型は砂岩製であり、鋳造時の高温の溶湯による黒変が認められる。溶炉は楕円形に掘られた基礎上にカマド状の炉を築いた構造であり、当時としては高度な技術が用いられていた。これらの発見から、堅田遺跡が単に水稲耕作を基盤とした集落ではなく、鋳銅による金属器の生産拠点でもあったことがわかる。従来、我が国の金属文化の伝播は、朝鮮半島から九州北部に齎され、そこを起点として山陽・山陰方面へと伝播・展開していったと考えられていたが、堅田遺跡での鋳銅遺構の発見はこの定説に再考を迫るものと云える。他の鋳銅遺構が発見されたものとして佐賀県神埼郡の吉野ケ里遺跡が挙げられるが、当遺跡は伝播元である朝鮮半島からも近く、遺跡内の鋳銅遺構については、およそ紀元前100年と考えられているが、堅田遺跡のそれは紀元前200年ほどとされており、現在までに発見された鋳銅遺跡としては最古段階のものと云える。くわえて、当遺跡から紀北、大和、和泉、伊勢、三河西部など各地から齎されたと考えられる土器、土器片なども複数出土しており、そこから当時、列島東西にわたる広域な交易ネットワークの存在が示唆され、また、そのなかで堅田遺跡は鋳銅遺構の存在から、重要な位置を占めていたと推察される。また、こうした広域なネットワークは、同時代の墓制にも影響を与えたと考えられ、日高川下流域では弥生時代前期には海岸砂丘上の土壙墓が多かったが、中期以降からは、家族墓的な傾向が強い方形周溝墓が造営された。具体例として、美浜町の吉原遺跡からは、こうした弥生時代の墓制の変遷が土壙墓や周溝墓の分布や構造などから認められる。また、御坊市塩屋町の海に突き出た半島状に位置する尾ノ崎遺跡では、方形周溝墓が18基確認されており、その中には前方後方形のものが含まれる。これは古墳時代に特徴的な前方後円墳への発展の様相を考えさせるものであり、墓制の変遷とともに、被葬者の階層分化・明確化が示唆される。そして、吉原・尾ノ崎両遺跡に共通して見られるのは墓壙内への土器の副葬である。壷や甕が墓壙の壁際に配置される形式が主流であり、大型墓壙では、破砕された土器片が埋土に混在する例も見られる。こうした副葬品の存在は葬送儀礼への意識の変化・深化を示すものと考えられる。ともあれ、以上のことから、弥生時代当時の日高川下流域は、列島において先進的な地域であったとは云える。
【銅鐸について】
弥生時代の日高川流域での遺跡は下流域に集中しており、特に御坊市域では、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての土器片が法徳寺遺跡および東郷遺跡から出土している。
また、日高川水系の斉川中流域、すなわちJR紀勢線御坊駅周辺に広がる標高約6メートルの沖積平野一帯には、複数の遺跡が所在しており、これらは弥生時代から古墳時代、さらに奈良時代にかけて継続して営まれていたと推定される。特に、亀山の東南斜面(標高約70メートル前後)では、土地の開墾に伴い、弥生式土器が広範囲に散布して出土している。この斜面の尾根北側からは、銅鐸3口が破砕された状態で出土しており、これらは「朝日谷銅鐸」と呼ばれている。出土は、1937(昭和12)年2月、亀山山頂から北東に延びる尾根の開墾作業中に3口の銅鐸は重なり合った状態で発見された。いずれも高さ20センチに満たず、装飾性に乏しい小型の素朴な様式を呈しており、「聞く銅鐸」に分類される。これは、紀伊半島西部における銅鐸出土例としては最も古い部類に含まれる。また、当銅鐸出土地周辺からは壺型・甕型の弥生土器が多数出土しており、これらの様相から、当該地は弥生中期から後期にかけての高地性集落の存在を裏付ける根拠となる。加えて、サヌカイト製の有柄石鏃や柱状片刃石斧などの出土もあり、当時の生活文化の様相が示唆される。しかしまた、当地域における銅鐸出土例はこれにとどまらず、1939(昭和14)年、御坊駅と道成寺の間にある小溝から小銅鐸が発見されている。これは上部を欠損した状態であったが、これも高さ20センチほどの小型のものであり、先述、3口の朝日谷銅鐸と同様、古段階のものと云える。 また、日高川町鐘巻の名刹・道成寺に伝来する「鐘巻銅鐸」は、1762(宝暦12)年に道成寺の三重塔建設工事中に出土したとされるものである。この銅鐸は高さ100センチを超え、近畿式に分類される「見る銅鐸」の代表例であり、和歌山県内出土の銅鐸としては最大級のものである。さらに、日高町荊木の里山北斜面(標高約40メートル)の地中約1メートル地点からも、2口の銅鐸が並置された状態で出土している。これらは「荊木銅鐸」と称され、いずれも高さ約80センチの大型銅鐸であり、近畿式「見る銅鐸」に分類される。注目すべきは、この斜面の上方約30メートル地点から、弥生中期から後期にかけての土器片および石器も発見されていることである。これらの事例は、亀山と同様に、荊木にも弥生時代の高地性集落が存在していた可能性を強く示唆している。特筆すべきは、これらの銅鐸出土と高地集落遺構の併存が、紀伊地方における弥生時代後期の政治的・宗教的動態、さらには葬送・祭祀のあり方を考察するうえで重要な資料を提供している点である。特に小型で装飾性に乏しい「聞く銅鐸」と、大型で装飾を伴う「見る銅鐸」の混在は、銅鐸祭祀の地域的変遷の様相について考えさせられる。
縄文時代においては、上・中・下各流域にて集落が営まれていた日高川流域であるが、縄文後期からは定住化が進み、やがて弥生時代に至り水稲耕作を基盤とした社会が普及して主流になると、集落は下流域に集中するようになる。こうした時代の流れを象徴するのが1999年に発掘された御坊市湯川町財部に所在する堅田遺跡であると云える。当遺跡は、弥生時代前期にはじまる環濠集落であり、我が国最古級とされる青銅器「ヤリガンナ」の鋳型や、鋳造するための溶炉遺構が出土したことで注目を集めた。鋳型は砂岩製であり、鋳造時の高温の溶湯による黒変が認められる。溶炉は楕円形に掘られた基礎上にカマド状の炉を築いた構造であり、当時としては高度な技術が用いられていた。これらの発見から、堅田遺跡が単に水稲耕作を基盤とした集落ではなく、鋳銅による金属器の生産拠点でもあったことがわかる。従来、我が国の金属文化の伝播は、朝鮮半島から九州北部に齎され、そこを起点として山陽・山陰方面へと伝播・展開していったと考えられていたが、堅田遺跡での鋳銅遺構の発見はこの定説に再考を迫るものと云える。他の鋳銅遺構が発見されたものとして佐賀県神埼郡の吉野ケ里遺跡が挙げられるが、当遺跡は伝播元である朝鮮半島からも近く、遺跡内の鋳銅遺構については、およそ紀元前100年と考えられているが、堅田遺跡のそれは紀元前200年ほどとされており、現在までに発見された鋳銅遺跡としては最古段階のものと云える。くわえて、当遺跡から紀北、大和、和泉、伊勢、三河西部など各地から齎されたと考えられる土器、土器片なども複数出土しており、そこから当時、列島東西にわたる広域な交易ネットワークの存在が示唆され、また、そのなかで堅田遺跡は鋳銅遺構の存在から、重要な位置を占めていたと推察される。また、こうした広域なネットワークは、同時代の墓制にも影響を与えたと考えられ、日高川下流域では弥生時代前期には海岸砂丘上の土壙墓が多かったが、中期以降からは、家族墓的な傾向が強い方形周溝墓が造営された。具体例として、美浜町の吉原遺跡からは、こうした弥生時代の墓制の変遷が土壙墓や周溝墓の分布や構造などから認められる。また、御坊市塩屋町の海に突き出た半島状に位置する尾ノ崎遺跡では、方形周溝墓が18基確認されており、その中には前方後方形のものが含まれる。これは古墳時代に特徴的な前方後円墳への発展の様相を考えさせるものであり、墓制の変遷とともに、被葬者の階層分化・明確化が示唆される。そして、吉原・尾ノ崎両遺跡に共通して見られるのは墓壙内への土器の副葬である。壷や甕が墓壙の壁際に配置される形式が主流であり、大型墓壙では、破砕された土器片が埋土に混在する例も見られる。こうした副葬品の存在は葬送儀礼への意識の変化・深化を示すものと考えられる。ともあれ、以上のことから、弥生時代当時の日高川下流域は、列島において先進的な地域であったとは云える。
【銅鐸について】
弥生時代の日高川流域での遺跡は下流域に集中しており、特に御坊市域では、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての土器片が法徳寺遺跡および東郷遺跡から出土している。
また、日高川水系の斉川中流域、すなわちJR紀勢線御坊駅周辺に広がる標高約6メートルの沖積平野一帯には、複数の遺跡が所在しており、これらは弥生時代から古墳時代、さらに奈良時代にかけて継続して営まれていたと推定される。特に、亀山の東南斜面(標高約70メートル前後)では、土地の開墾に伴い、弥生式土器が広範囲に散布して出土している。この斜面の尾根北側からは、銅鐸3口が破砕された状態で出土しており、これらは「朝日谷銅鐸」と呼ばれている。出土は、1937(昭和12)年2月、亀山山頂から北東に延びる尾根の開墾作業中に3口の銅鐸は重なり合った状態で発見された。いずれも高さ20センチに満たず、装飾性に乏しい小型の素朴な様式を呈しており、「聞く銅鐸」に分類される。これは、紀伊半島西部における銅鐸出土例としては最も古い部類に含まれる。また、当銅鐸出土地周辺からは壺型・甕型の弥生土器が多数出土しており、これらの様相から、当該地は弥生中期から後期にかけての高地性集落の存在を裏付ける根拠となる。加えて、サヌカイト製の有柄石鏃や柱状片刃石斧などの出土もあり、当時の生活文化の様相が示唆される。しかしまた、当地域における銅鐸出土例はこれにとどまらず、1939(昭和14)年、御坊駅と道成寺の間にある小溝から小銅鐸が発見されている。これは上部を欠損した状態であったが、これも高さ20センチほどの小型のものであり、先述、3口の朝日谷銅鐸と同様、古段階のものと云える。 また、日高川町鐘巻の名刹・道成寺に伝来する「鐘巻銅鐸」は、1762(宝暦12)年に道成寺の三重塔建設工事中に出土したとされるものである。この銅鐸は高さ100センチを超え、近畿式に分類される「見る銅鐸」の代表例であり、和歌山県内出土の銅鐸としては最大級のものである。さらに、日高町荊木の里山北斜面(標高約40メートル)の地中約1メートル地点からも、2口の銅鐸が並置された状態で出土している。これらは「荊木銅鐸」と称され、いずれも高さ約80センチの大型銅鐸であり、近畿式「見る銅鐸」に分類される。注目すべきは、この斜面の上方約30メートル地点から、弥生中期から後期にかけての土器片および石器も発見されていることである。これらの事例は、亀山と同様に、荊木にも弥生時代の高地性集落が存在していた可能性を強く示唆している。特筆すべきは、これらの銅鐸出土と高地集落遺構の併存が、紀伊地方における弥生時代後期の政治的・宗教的動態、さらには葬送・祭祀のあり方を考察するうえで重要な資料を提供している点である。特に小型で装飾性に乏しい「聞く銅鐸」と、大型で装飾を伴う「見る銅鐸」の混在は、銅鐸祭祀の地域的変遷の様相について考えさせられる。