2022年10月18日火曜日

20221018 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「歴史を動かすもの」pp.113-115より抜粋

中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「歴史を動かすもの」pp.113-115より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122021030
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122021037

私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである。江戸体制の惰力がすっかり消え、明治国家の重さが消滅し、昭和軍閥のデモーニッシュなイデオロギーも去り、可憐な日本人たちは数百年の深海生活から浅海に浮き上がってきた小魚のむれのように一時は水圧の変化に適応できずとまどいはしたが(あるいは、なおもとまどっているともいえるが)とにかく、有史以来、日本人がやっと自由になる、しかも近年にいたって日本人が有史以来、はじめて食える社会を持った(この食えて自由であるという事実を直視しなければならない。この事実に虚構のフィルターをかぶせることだけはやめてもらわねばならない)。

 活動家の学生諸子は権力ということばをつかいたがるが、過去との比較において、こんにちのこの国に「権力」らしい権力が存在すると考えることじたい、幻想である。政治はせいぜい調整的機能を果たしているにすぎず、今後、権力どころか政治そのものまでがその分野を小さくしてゆき、ついにはゲームになるかもしれず、あるいはいますでになりつつある。機動隊と学生活動家との間の表面的もしくは本質的光景がその一例であろう。

 しかしこまったことに、権力というこの魔神的な存在をめぐらなければ、酩酊的体質の人間は酩酊できないということである。虚構を実在たらしめるには大権力の存在が必要であり、ときには権力が敵方のものであっても、それが大きければ大きいほど、それを攻撃する側の虚構はいきいきとした現実感をもち、酩酊の度は深くなる。学生が、たかが調整機能でしかないいまの政府に対し「権力、権力」とお題目のようにさわぎたてるという心理の深層のなかに権力の大成長をのぞむ願望が当然秘められており、また政府を支援する重国家願望の酩酊体質者たちもまた学生さわぎを誇大に幻想し、重国家の到来を願望している。いずれにしてもひどい目にあうのは、普通のひとー非酩酊体質である。非酩酊体質としてはもうええかげんにせい、と叫びたいが、残念ながら叫ぶには酩酊を必要とする。酔ってもおらぬのに馬鹿元気を出して叫ぶわけにもゆかず、なんとなくテレビの騒動ニュースをみてむっつりしている。

 こういう非酩酊体質はカトリックでも日本の古念仏でも、古来地獄にも極楽にもゆけないとされておどされてきたが、しかし人間のうちの大部分を占めるこの種の人間どもを救ったのが、イデオロギーが支配権をうしなった近代的市民社会であった。日本史でいえば戦後二十数年の社会であったであろう。ただしここに、タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている。どうかそういう国が二度と日本にやってこないよう、タダの人間としては空念仏でもとなえているしか仕方がないようでもある。

 歴史はときに酩酊者に勝利を得さしめるが、ながい目でみれば歴史はこの空念仏群の強靭さの前に屈しつづけてきたようである。歴史を動かし社会に黙々と衣食を供給してきたのはこの層であるとむしろ自信をもって思ってやりたいが、どういうものであろう。