2015年9月14日月曜日

林房雄著「大東亜戦争肯定論」 番町書房刊 pp.72-77より抜粋

「さて、ここまで書いてきた時、「朝日新聞」(38年9月1日付)に作家榊山潤氏が面白い歴史随筆を発表しているのが目にとまった。曰く、「明治維新の変革は、英国の対日謀略だという説がある。
もちろん戦後の新説だが、それによると、その中心人物は長崎にいた大砲商人グラバーであった。英国公使パークスがその後ろだてであったのはいうまでもない。グラバーは薩摩の有力者小松帯刀を抱き込み、その手を通じて土佐の坂本竜馬を抱きこんだ。
以来、竜馬は日本側の工作要員として、目ざましい活躍をした。
・・・彼の奔走によってまとまった薩長の盟約も、背後にあるグラバーの力であった。
グラバーはさらに、岩倉具視を抱き込み、宮廷工作をした。鳥羽伏見の戦いによって、グラバーの役目は終わった。
この戦に、負けるはずのない幕府軍が敗れたのは、薩長方に英国の巧妙な協力があったからである。」
私もおどろいたが、正直榊山氏はもっとおどろいたに違いない。榊山氏が目をまるくしている顔が目に見えるようだ。
かの坂本竜馬は英国謀略機関の工作要員、スパイであったというのだから、まさにおどろくに足る「新説」である。
「こういう説を、頭から信用するわけにもゆくまいが、といって、採るに足りない珍説として笑い捨てることもできない。明治維新は複雑怪奇である」と榊山氏はつけ加えている。「仏公使ロッシュが、土台のくさりかけた幕府の補強策にやっきとなったのは、衆知の事実である。これと張合った英国が、薩長支援にけんめいであったのも、かくれない事実である。英国は古い銘柄を捨て、薩長の成長株を買った感じだが、右の新説によると、強引に薩長を成長株に育て上げたということになる。・・・英の謀略では、岩倉はもちろん、西郷大久保木戸もグラバーのヒモつきだったといっている。そうして、小松帯刀が江戸開城を機に晴れの舞台から退き、その数ヵ月前に坂本竜馬が暗殺されていたことに、不審の目を向けている。そう言えば、作家石原慎太郎も坂本竜馬を扱った戯曲で、竜馬の暗殺者は会津見廻組ではなく、薩摩藩士であったと書いていたように記憶する、この「新説」は榊山氏よりも前に石原氏の耳にも入っていたかもしれぬ。榊山氏は「グラバー機関の工作文書」のコピーが実在していて、それが割と安い値段で手に入るかもしれぬと言っている。誰かが「新説」を安く売り歩いているのだ。私はそんな売り手を信用しないが、推理歴史小説の材料としてなら、材料払底の作家諸氏には興味があるかもしれない。
とんだ「昭和研究会事件」である。尾崎秀実ならぬ坂本竜馬が優秀な国際スパイであり、犬飼健ならぬ御曹司小松帯刀が巻き込まれ、近衛公ならぬ岩倉具視をあやつった。西郷、大久保、木戸の「維新の功臣」にも「グラバー機関」のヒモがついていたというのだから、まさに大珍説である。こんな貴重な材料を安く売ったり買ったりしたのでは、歴史の神様に相済まない。グラバーという武器商人が維新の「舞台裏」で活躍していたことは衆知の事実だ。彼は大量の武器を、初めは幕府に、後には佐賀や土佐、特に薩摩と長州に売り込んだ。薩長両藩に対しては汽船の秘密購入やイギリスへの留学生密航の世話もしている。グラバーは日本に関する限り、パークス公使の先輩であった楫西光雄氏「政商」の中のグラバー伝によれば、オールコック公使に代わって着任したパークスはキング提督とともに長崎のグラバー邸を訪問し、酒宴の後、二人きりで夜を徹して密談した。その時、パークスはまだ幕府援助論者であったが、グラバーは日本の政治的実権は薩長両藩に移っている事を主張してゆずらなかった。パークスもまたゆずらず、議論の途中で夜があけてしまった。その後パークスは自ら薩摩に赴き、島津久光や西郷隆盛に会い、帰途再び長崎に立寄って、グラバーの肩をたたいて、「おれは愚かであった。今までお前のことばを信じなかったが、始めて目が覚めた」と言ったという。「ハリー・パークスと薩長の間に立って、壁をこわしたのが自分のした一番の手柄であった」とグラバーは述懐している。「私は世間からして金儲け主義だと思われていたかもしれぬけれども、私の気性はお前も知っている。それは金儲けという事もあったけれども単純にそれのみじゃなかった。一番最初日本の主権は天皇にあって、それが徳川に移った。それからまた廻って天皇に移るということが自分にはわかった。それが所謂薩長に力を添える考えを起こした多少の動機になっている。・・・徳川政府の叛逆人の中では、自分が最も大きな叛逆人だと思った。」(「政商」)グラバーとはそんな商人であったようだ。ちょっとしたアラビアのローレンス型だが、果たして「グラバー機関」なるものが存在したか。私はイギリス・ブラック・チェムバーの歴史には、そこまで詳しくない。「グラバー機関存在説」の究明は榊山潤氏にまかせ、スパイ扱いにされた坂本竜馬に名誉回復は「竜馬がゆく」の著者司馬遼太郎氏にお願いして、先に進むことにしよう。ただ、私がここでこの「珍説」を取上げた理由は二つある。それだけ申し上げておく。一つは、この「珍説」は明らかに左翼の維新研究の畸形の落し子だということだ。戦前派たると戦後派たるを問わず、左翼学者たちが書いた維新史を読んでいると、私は歴史の壁画館の中で赤いクレヨンをふりまわしている悪童の群れを思い出す。彼等は競争して壁画の上に赤絵具をぬりたくる。最も醜怪にぬり上げた者が勝だ。悪童どもは維新の人物と事件をできるだけ醜悪に描き出すことが「真実の探求」だと心得ているかのように見える。彼等は日本にはまだソ連流または中共流の「人民革命」が必要であり、必然であると信じている。日本に革命を起こすためには、日本の歴史を、できるだけ野蛮に、できるだけ醜怪に、不正と愚行ろ暴行にみちた無価値無意義なものとして描き出す必要がある。彼等は「共産革命」という政治目的のために、日本人の歴史に泥をぬることが「学問の使命」だと思い込んでいるのだ。坂本竜馬スパイ説、岩倉、西郷、大久保、木戸ヒモツキ説もここから生まれた。さすがに学者と名のつく諸家はこんな「怪写真」を公然と売り歩くことはしない。しかし、エロ写真売りとトップ屋は左翼くずれの中にもいる。彼等の売込みに、榊山潤氏のような無邪気な小説家がひっかかる。私は革命はきらいではない。革命を恐怖しなければならぬどんな理由も持ち合わせていない。日本の現状にも決して満足していない。だから、明治維新史を読むたびに心がおどるのであるが、「輸入された革命」即ち外国の指令による革命などというものは存在し得ないことを知っている。もし存在したら、それは単なる外国の武力による侵略と征服にすぎない。
日本の革命は日本人の歴史の醜化からは生まれない。
明治維新を「理想化」することがいやなら、せめて「あるがままに見る」がよい。維新の志士・革命家の肖像さえ正しく描き得ない孫悟空学者諸氏の学説が日本人の精神を再建し、来るべき「日本革命」の原動力に成り得るはずはない。
その二は「グラバー機関」の存在如何にかかわらず、この「珍説」を生み出すほど十分に深く、パークスは薩長の内部に、ロッシュは幕府の内部に食い入っていたということだ。「パークス路線」に乗っても、「ロッシュ路線」に乗っても、日本は植民地化される。「薩長人」も「幕人」もこの日本の危機を本能的に、したがって正確に見抜いていた。
西郷も勝もそれを見抜き、徳川慶喜山内容堂もそれを見抜いていた。彼等はそれぞれの立場から、英仏の謀略に抵抗したのだ。岩倉具視と坂本竜馬を、西郷隆盛と勝海舟を「謀略家」であったというのは少しも彼等の不名誉にはならない。彼等は英仏の謀略に抵抗するためには、時に自ら謀略家にならざるを得なかったのだ。」
大東亜戦争肯定論
林房雄
大東亜戦争肯定論 (中公文庫)
ISBN-10: 4122060400
ISBN-13: 978-4122060401
 

林房雄著「大東亜戦争肯定論」番町書房刊pp.172-176より抜粋

私の試論に対する反論がだいぶ方々に現れてきた。
私はまじめにそれらを読んでいる。
教えられた部分は虚心に受け入れるつもりである。
ただ、それらは現在のところ、「日支事変」と「太平洋戦争」に関するものが多い。
私の試論はまだそこまでは進んでいない。その時が来たらお答えするであろうが、ここで一言だけふれておきたいのは、明治以後に日本が行った諸戦争の前半は民族独立戦争であり解放戦争であっても、後半は帝国主義的侵略戦争であったという折衷意見である。この分析は右派にも左派にもある。そんなに簡明に分析できたら話しは簡単であるが、それでは最近の百年間の歴史は説明できず、何の実りももたらし得ないことがわかったので、私は「東亜百年戦争」という仮説を立てたのだ。
右のような折衷意見は解剖学者が解剖に専心して生きた人間を見失ったのとよく似ている。
歴史は生きた人間がつくったものだ。あらゆる人間的なもの―大矛盾と小矛盾、過失と行きすぎ、善意に発した悪業、誤算と愚行、目的と手段との逆倒、予想できなかった障害による挫折と脇道、その他、ありとあらゆる人間的弱点を含みつつ進行する。
歴史家はまず人間学者でなければならないのだ。

分析と解剖に終始して綜合をわすれることも禁物である。
分析しただけで綜合できない者は死体を切り刻む解剖屋にはなれても歴史家にはなれない。
わずか百年間の日本歴史を綜合的に解釈できなくて、何が歴史家であるか!
何度お繰り返したように、私の「東亜百年戦争説」は一つの仮説である。
これは卑下した意味ではない。仮説とは決して思いつきやデタラメのことではなく、学問のための、真理発見のための設定だ。英語ではTheory,日本語では「理論」とも訳されていることは御存知のとおりである。
私は専門の歴史家ではないが、若い頃から日本の歴史に非常な興味と関心を持った。持たざるを得なかった。
というのは、私はちょうど日本のナショナリズムの最盛期であり、同時に最初の崩壊の徴候を示し始めた明治40年代に少年として育ち、社会主義思想の最初の開花期である大正末年に高等学校と大学の学生であった。
私の思想経歴は例えば河上肇博士がたどったような激しい国家主義から「無我の愛」を経て社会主義に至るという自然なコースとは逆に、いきなり河上肇博士の「貧乏物語」と「社会問題研究」を読むことから始まった。
続いて、発生したばかりの日本共産党の学生部隊となり、「資本論」も完読せず、レーニントロツキースターリンのパンフレットを読むことだけで「実際運動」の中を右往左往した。日本の歴史については何も知らなかった。しかも、確信的な天皇制打倒論者であり、インタナショナリストのつもりでいた。
この確信がゆらぎはじめたのは、入獄によって日本歴史と日本人の伝記を読む機会を与えられた時からである。
これはおかしいぞと思い始め、母と妻にたのみ、手に入るかぎりの歴史書を集めて差し入れてもらった。
私の「転向」が始まった。「転向」の原因を弾圧のみに帰するのはまちがっている。
刑務所というものは―私の知っているのは日本のそれだけだが―外の人が想像しているほど恐ろしいものでも陰惨な場所でもない。刑務所だけでは思想犯は転向しない。
出獄して、私は「青年」を書き、再入獄して、また歴史書を読み、「壮年」を書いた。共に三十代の作品である。三十半ばから戦後にかけて「西郷隆盛」十二巻を書いた。
これも歴史の勉強になった。
私は思想遍歴または思想成熟の経過は別にくわしく書く時があろう。ここで言っておきたいことは、「東亜百年戦争」という仮説は、かれらの私なりの勉強中の中から生まれたもので、例えば当代野次馬精神の親玉、大宅壮一氏が茶化したような「ひろげ得るかぎりひろげた大風呂敷」などというものではない。
マルクスの唯物史観も一つの有力な仮説である。それは在来の史観では発見できなかった多くの歴史的真実を発見させてくれた。
しかし、マルクスの天才をもたぬ日本の「マルクス主義者」諸氏は日本歴史に対するその適応をあやまったようだ。
彼等の適応方法は唯物史観をただの内在史観(一つの民族と国家の発展と崩壊の原因をその内部にのみ求めようとする史観)に終わらせてしまった。例えば井上清教授の「天皇制」を読むと、日本の太古には、輝かしく人民的な原始共産制があったというマルクス・エンゲルスの「楽園神話」が何の論証もなしに書き込まれている。
その他の「マルクス主義者」の著書もまた、古代の天皇制は奴隷制であり、明治天皇制は封建主義からブルジョア共和制の過渡期に出現する「絶対主義」だと規定しているのが多い。
彼等の「学説」によると、日本歴史もまた絶対に階級分裂と階級闘争によって「内在的」に発展しなければならぬ。
そのために、封建制の内部における資本主義の萌芽としてのマニュファクチュアに関する実りのない大論争が起こったり、大ナショナリストで君主制論者の福沢諭吉がアメリカ風の民主主義にされてしまったり、自由民権運動がソ連式の人民的反天皇制革命闘争だとこじつけられたり、全くテンヤワンヤである。
特に日支事変と「太平洋戦争」に関しては、ただひたすらに略奪的侵略的非人道的反文明的闘争であり、すべての戦争がそうだというのならまだわかるが、日本人だけが史上空前の戦争犯罪者扱いにされているので、そんな赤っ面の大悪党が私たちのあいだに住んでいたのかと、思わずまわりを見まわしたくなるほどだ。
私の「百年戦争説」は日本の歴史と日本人の歩みの真実の姿に近づくための仮説である。「内在史観」に対してはむしろ「外在史観」(民族、国家の発展の動機をそれ自身の内部だけではなく、外部からの圧力に対する抵抗に求める。例えばトインビーの「挑戦と応戦の理論」)だが、必ずしも民族のみを重んじて階級を無視しているわけではない。左翼も右翼もない。真実だけが真実なのだ。まだ先は長い。道草が多すぎると思われる読者もあることだろうが、私としては精いっぱい慎重に歩いているつもりである。結論より批判と論証に力を入れねばならぬ。

林房雄
大東亜戦争肯定論
大東亜戦争肯定論 (中公文庫)
ISBN-10: 4122060400
ISBN-13: 978-4122060401