2026年6月30日火曜日

20260629 インプットとアウトプットとブログ開始に至る契機について

 当記事の投稿により、当面の目標としている総投稿記事数2500まで、あと5記事の投稿となります。後日、首尾良く到達することが出来ましたら、一旦、当ブログおよびSNSから離れようと考えています。そうしますと、到達までは、あまり余計なことを考えない方が良いのかもしれませんが、どうしたわけか、ここ最近は、2500記事に近づくにつれ、これまでにない、ある種のプレッシャーのようなものが感じられます…。そのためであるのか、あまり自らの文章による記事を書きたいとは思いません。むしろ、作成時にあまり逡巡することのない引用記事を量産し、まずは目標である2500記事に速やかに到達して、改めて自らの文章を書けば良いのではないかとも考えています…。しかしながら、その一方で、時には、こうして自らによる文章を作成しないと落ち着かない自分もいます…。こうした最近の状況から、かつてほぼ毎日、自らの文章でブログ記事を作成していた時期を振り返ってみますと、我が事ながら、よく継続することができたものだと思われ、また、それがなければ、現在の状況もなかったことから、やはり、総投稿記事数や周囲を意識せずに没頭する時期は必要であるとも思われます。そこから、当ブログでの記事作成と並行しているエックス(旧ツイッター)を始める以前の、概ね当ブログの作成のみであった5年弱の期間(2015年6月~2020年1月)は、現在と比べ、自分の文章(ブログ記事)が読まれているという緊張感は乏しく、その分、ブログ記事の作成に没頭することができていたのだといえます。とはいえ、本来、ブログとは、不特定多数の方々に向けて文章を公表するものであることから、やはり、一定の緊張を伴うのですが、その緊張の程度は、エックス(旧ツイッター)などのSNSほど強くはなく、むしろ、以前に行っていた文章の公表に伴う緊張感を忘れないために、当ブログを2015年に始めたのだともいえます。そして、当時、私にブログを勧めてくださった方々も、おそらくは、そのことを伝えたかったのではないかとも思われます。また、文章を作成して公表することを、ある程度の期間、継続することは、そこまで簡単なことではなく、その継続のためには、私見とはなりますが、ある種のパラノイア的ともいえる、常軌を逸したこだわり、思い込みのようなものが必要ではないかと考えます…(苦笑)。しかし、私自身、元来、おそらく、そうした傾向が特に強かったわけではありません…。それが変化したのは、これまでにも何度か当ブログで述べてきましたが、鹿児島在住での期間でした。この期間に、さまざまな実験を通じて自らの見解を組み立て、それを公表・発表する機会が度々あり、そして、そうした経験を通じて、当ブログの継続に繋がるような傾向が育まれていったのだと思われます。また逆に、実験や研究などの、ある種、インプットのみを行っていても、こうした傾向は生じなかったと思われます。つまり、インプットとアウトプットの双方がある状況が継続することにより、そうした傾向が育まれ、それらが何らかの契機で動き出し、内発的な行動として、はじめて駆動するのではないかと思われるのです。では、その「何らかの契機」とは何であるのかと考えてみますと、それは多分に人により異なるのでしょうが、私の場合、実験や試料作成や論文の読み込みや作成といったインプットと、学会発表や実習補助、指導といったアウトプット以外の、それまでの人生では無かった偶発的ないくつかの出来事であったといえます。また、それらの出来事は、比較的短い期間に集中したといえますが、こうした経験は、書籍などの記述で見つけることは出来ませんが、しかし、それらを抽象化してみますと、ある程度普遍化されて、いわゆる「ミューズ」や「ムーサ」といった創造や創作にインスピレーションを与えるような存在があったのではないかと思われるのです。とはいえ、私が在住していたのはギリシャ神話の文化が連綿と続く地域ではなく、極東の島国の南部であったことから、それは、谷川健一が複数の著作で述べたような「セジ」「セヂ」のようなものではないかと思われるのです。そして、おそらく、そういったものが作用しなければ、私は人から助言を受けても、当ブログを始めようとは思わなかったであろうし、また始めたとしても、10年以上継続して、そして、2000記事以上作成することは出来なかっただろうと思われるのです…。そういえば、去る6月22日で、当ブログ開始から丸11年となりました。そして、目標とする2500記事までは、あと5記事の更新となります。今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。そして、今後も引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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2026年6月29日月曜日

20260629 筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」 pp.28-33より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」
pp.28-33より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4480077359
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480077356

奥野 言語を持つことで、我々意識につながる「集合表象」が生まれたという人類史を踏まえて、社会学の初源的な考え方についてご説明いただきました。社会学は近代社会だけを扱うことに特化していったのですが、そのことに対して注釈がつけられたというのは、とても重要なことです。オリジネータたちが社会と呼ぶものは、近代社会のそれだけに限定されるべきものではなく地球上の多くの似たようなものにも適用すべき概念だと考えていたということがよくわかりました。
 もうひとつ、これから進められる「宮台式人類学」の講義についても重要な見通しが語られましたね。「煉瓦積み上げ方式」ではなく「螺旋方式」で、各論点に何度も戻って上書きしていくことで理解を深めるという手法でこれからお話をしていただくという点を、ここで読者のみなさんのためにも特記しておきたいと思います。
 さて戻りますと、社会学によって提示された「社会的事実」を含む社会の概念、つまり社会学の社会という概念は、人類学の中にも共有されている考え方だと思います。1990年代初めの川田順造さんのレヴィ=ストロースへのインタビュー動画の中で、レヴィ=ストロースが川田さんの質問に少し苛立って、「社会の話をしてるんだよ」と言うシーンがありますが、デュルケムが生み出した諸概念は、その後の社会学だけでなく、人類学にも継承され、共有されていたと考えられるでしょう。他方で、ヴェーバーに関しては、いかがでしょうか?

宮台 ヴェーバーにも同じような注釈があります。彼にとって一番重要な概念は「正統性(legitimacy)」です。支配と服従ってなんだろう、とりわけ自発的服従ってなんだろうということを徹底して考えます。相手の言うことが正しいから従う場合、日本語では「当たる」という字の「正当性(justifiability/rightness)」を使います。さて、複雑な分業編制からなる社会は、支配と服従だらけですが、正当性と損得勘定だけでは分業編制を支える服従の調達に不足が生じます。その服従を可能にするのは、正当性や損得勘定を超えた、なにかであるはずです。
 元来は王位継承線を指す「正統性」の言葉を、彼は「自発的な服従契機」という意味で使います。それを彼は実に巧妙に「伝統的正統性」と「カリスマ的正統性」と「合法的正統性」を例示して説明します。まず「伝統的正統性」。昔から皆がやっていたと信じられるだけで、それをやれと言われなくても、内容の正しさに関係なく人はそれをやりたがるという事実を指します。今日の進化生物学は孤独 (loneliness) を恐れるゲノムに、その基盤を見出します。
 次に「カリスマ的正統性」。圧倒的に凄い人を前にすると、他の人が言っても聞かないのに、その人が言うと喜んで従おうと思うという事実を指します。お金の力(損得勘定)にも暴力の力(威嚇)にも還元できない非日常的な性質(凄さ)を、ヴェーバーは「カリスマ」と呼びます。カリスマがある人に従うのも、内容の正しさとは無関係です。その人が言うから内容が正しく聞こえるのを「権威」と言いますが、それと似ているものの、少し違います。内容の正しさには関係ないからです。
 彼は、カリスマを持つ人が「カリスマ的正統性」による一回的立法を行って社会を樹立した後、カリスマを持つ人の死亡や変質などでカリスマの劣化(カリスマの日常化)が起こりますが、それを埋め合わせるのが、昔から皆がという「伝統的正統性」だとします。でも自然的・社会的な環境変化で従来の法生活が立ち行かなくなると、また「カリスマ的正統性」による一回的立法が行われ、やがて「伝統的正統性」に置き換えられる…と循環します。
 カリスマを持つ人の登場は偶発的だから、カリスマを持つ人が登場せずに伝統にへばり付くことで滅ぶか征服された社会も多かったはずです。加えてそれだと計算可能性による予測可能性を欠くので、複雑な分業編制は無理です。ところが近代になるとそれを克服する「合法的正統性」が生まれ、[手続きに合致した命令]であれば内容はともかく従うようになります。正確にはそれを近代と呼ぶのです。
 ここには、法が手続きを定め、その手続きで法を定め、その法が手続きを定め…という合法性の循環があります。それゆえ、カリスマを持つ人の出現という偶発性に頼らずに数多の立法が可能になり、伝統の変わりにくさゆえに自然的・社会的な環境変化に適応できない、という問題を回避でき、複雑な分業編制(典型が官僚制)と、分業編制の柔軟性とを、併せ持つ近代社会になります。ヴェーバーは、そういうふうにして、事実上、近代を定義したのです。恐るべき業績ですが、後で話すように、法による階層的統治が、カリスマによる英雄的統治と無関連に成り立つとした点に、大きな欠陥があります。

奥野 なるほど。ヴェーバーもまた、近代社会だけでなく、近代以前における支配と服従のあり方を検討した上で、複雑な分業体制を発展させて、法的な服従を余儀なくされる近代以降の仕組みを見るように、注釈を施しているということですね。
 では今度は、少し私の観点から、本書のテーマである社会学と人類学という学問が生まれた時代を少し遡ったところから考えてみたいと思います。序論では拙著『はじめての人類学』に言及しつつ、戦争を取り上げたのですが、それと表裏の関係にあった、ヨーロッパにおける科学や思想の流れを手短に振り返ってみたいと思います。
 16世紀に天動説を否定した天文学、19世紀に人間がサルの子孫であると唱えた進化論などの自然科学の進展により、ヨーロッパではキリスト教の唯一神への信仰が次第に絶対的なものではなくなってきていました。無神論とともにニヒリズムが広がる中、梅毒に侵されて正気を失って悩み続けたニーチェは「神は死んだ」と唱え、ニヒリズムを乗り越えて、いかにすれば生きることに価値を見出せるのかという問いを考え続けました。その上で彼は、何者にも支配されずに自由な心で生きる「超人」を目指すべきだと主張したのです。
 19世紀の科学技術の著しい発展は、人間を脅かしていた迷信や信仰を突き崩し、近代的な自我の確立も促しました。その時代にフロイトは自我の意識の奥底に抑えられた無意識を発見しています。1900年に詳細な夢分析の記録である『夢判断』を出版し、20世紀初頭に人々の抱える神経の病を治療する精神分析学を創始しています。
 産業革命以降の機械制大工業の発達は、労働を単純労働に変え、人間を機械に支配される存在に作り変えました。マルクスは19世紀後半に「資本論」の中で、人間が労働によって「疎外」される資本主義の問題を論じています。
 20世紀に入って1920年代になると、第一次世界大戦の特需に沸くアメリカは、大量生産・大量消費により経済的な繁栄を遂げますが、その直後の1929年には世界恐慌が起きます。このときに多くの人々が感じた「疎外」は芸術の分野でも表現され、1936年には、製鉄工場で監視されながら単純作業に従事する男が精神に失調をきたし、トラブルを起こして精神病院送りとなる顛末を描いた映画『モダン・タイムス』が公開されています。
 さて、さきほど宮台先生がお話しされた、フランス革命を達成して専制君主を倒して民主的な社会に移行したにもかかわらず、社会をうまく構築することができないというジレンマを抱えていた中で始められた社会学は、こうした19世紀から20世紀初頭の歴史のうねりの中で生まれたということだと思います。

2026年6月28日日曜日

20260627 三交社刊 ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」 pp.21-25より抜粋

三交社刊 ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」
pp.21-25より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4879191620
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4879191625

彼はちょっと息を入れた。
「いいかね」と彼はまた話を始めた。一方の腕を肘のところで折り、掌を外に向けて挙げ、両足を前で組み合わせた恰好を取ったから、洋服姿で蓮の花こそないとはいえ、教えを説く仏陀そっくりの姿勢に彼はなった。「僕たちなら誰も、そっくりこんな風には感じないだろうよ。僕らを救ってくれるのは能率ー能率よく仕事を果たすことへの献身だ。しかし、大昔、ここに乗り込んできた連中はあまり大した奴ではなかった。植民地開拓者ではなかったのだ。思うに、彼らのやり方はただ搾取するばかりで、それ以上の何ものでもなかった。彼らは征服者だったのであり、そのためには、ただ、がむしゃらな力があればよかったのだ。ーそれがあったからといって、別に自慢になるものじゃないさ。要するにその強さは相手が弱かったということで生じた偶然に過ぎないのだからね。とにかく獲物をせしめれば、というわけで、手に入る獲物は何かわまわず、強奪したのだ。それは力まかせの強盗であり、大規模の凶悪な殺戮だ。しかも彼らは盲滅法にそれをやった。ーそれこそが暗黒と格闘する連中にふさわしい行動だからな。この地上の征服とは、たいていの場合、肌の色が違うか、僕らより少し鼻のひしゃげた人間たちから、その土地を奪ってしまうことを意味するのであって、よくよく見れば、あまりきれいなことじゃない。それを償えるのは観念しかない。征服の背後にある一つの観念、それはセンチメンタルなお為ごかしなんかじゃない一つの観念なのだ。そしてその観念に対する無私の信仰。ー僕らが高く掲げ、その前で頭を垂れ、進んで身を捧げる何ものかなのだ…」 彼は言葉を切った。船の灯と水に映った灯影が川面を滑るように動いていた。小さな緑の灯、赤い灯、白い灯、ー追いかけあったり、追い越したり、もつれ合い、行き交うかと思えば、あるいはゆっくりと、あるいはあたかもふたと離れ去って行くのだった。この偉大な都市の交通は、眠りを知らぬ河を覆って深まっていく夜の帳のなかで、止まることなく続いていた。われわれはあたりを眺めながら辛抱強く待っていた。ー潮が引き始めるまでは、ほかに何もすることがなかったのだ。だが、長い沈黙のあと、彼がためらい勝ちの声で「君たちも憶えているだろうが、僕も昔しばらく河の船乗りになっていたことがある」と口を切った時、われわれは、引き潮が始まるまでは、マーロウの締め括りのない体験談の一つを拝聴させられることになるな、と覚悟をきめたのだった。
  「なにも個人的な経験談で君たちをうんざりさせるつもりはないのだが」と彼は話し始めたが、身の上話の語り手の多くがかかえる弱点、つまり、聞き手がどんなことを一番聞きたがっているかが分かっていないという弱点が、彼のこの語り口に表われていた。「今度の体験が僕にどんな影響を与えたかを分かってもらうためには、やはり、僕がどうやってあそこまで行ったのか、そこで何を見たのか、どんな工合にしてあの河を遡り、あの哀れな男に初めて会った所までたどり着いたかを、君たちに知ってもらう必要があるんだ。それは船で行けるどん詰まりの地点だったし、僕のした経験の絶頂点でもあった。それは、この僕についてのすべてーさらには僕の物の考え方そのものに、何というか、一種の光を投げかけてきたように思うのだ。その経験はけっこう陰気なものだったし、悲惨なものでもあったーどう見ても素晴らしいなどと言えたものではないしーあまりはっきりしていない。そう、どうもはっきりしない。それだのに一種の光を投げかけてくるように思えたのだな。 
 「憶えてくれているだろうが、あれは、僕がインド洋、太平洋、東シナ海、南シナ海とーおきまりの東洋コースを、たっぷり六年ほどかけて、ひととおり味わってからロンドンに戻ってきたばかりの頃だった。毎日ぶらぶらうろつき回って、まるで君たちを啓蒙するという素敵なお役目でも授かったみたいに、君たちの仕事の邪魔をしたり、お宅に押し掛けしていったりしたものだった。しばらくの間はいい気持だった。だが、そのうちに何もしていないのにも飽いてきた。そこでまた乗る船を探し始めたのだがーこれが最高に骨の折れる仕事でね。とにかく船のほうが僕に見向きもしないのだ。そのうちに船探しのゲームにも嫌気がさしてきた。 
 「ところで、子供の頃、僕は大変な地図好きだった。何時間も飽きずに南米とかアフリカとかオーストラリアとかの地図に見入りながら、数々の探検隊の栄光にわれを忘れ、夢中になったものだった。あの頃はまだこの地球上に空白の場所がいくらもあった。そのなかでも特に気をそそられる所が地図にあると(いや、一つとしてそうでいない所はなかったのだが)、僕はその上に指先を置いては、大人になったらきっとそこに行ってやるぞ、と呟いたものだった。北極もその一つだったと思う。いや、まだそこには行ったことはないし、今となっては行く気もないがね。魅力が消えてしまったのさ。ほかに行ってみたいと思った場所は赤道付近のあちこちにあり、両半球のあらゆる緯度のところにもあった。そのなかには実際に行ってみた所もいくつかあるがーまあその話はやめておこう。だが、一つだけー言ってみれば、一番でっかい、そして飛び切り真っ白な地帯があってー僕はそこに疼くような憧憬を感じていた。 
 「たしかに、今度の時にはもう空白ではなくなっていた。僕が子供だった頃から見れば、河や湖やさまざまな地名で満たされてしまっていた。楽しい神秘にみちた空白、少年が輝かしい夢を追った真っ白い土地ではなくなってしまっていた。一つの暗黒の場所になってしまっていたのだ。だが、そのなかに格別に際立った一つの河、地図でもよく目を引く大きな河があった。とぐろを巻いたでっかい大蛇のような恰好をしていて、その頭は深く海にのめり込み、胴体はだだっ広い地域にまたがるカーブを描いて横たわり、その尻尾は、深い奥地のなかに姿を消していた。ある店の飾り窓でその河の地図を見たとたんに、小鳥がーおろかな一羽の小鳥が蛇に魅入られてしまったように、僕はすっかりその河のとりこになってしまったのだ。その時、僕はこの河で貿易をやっている大きな商社があったことをひょいと思い出した。しめたぞ! 僕ひとり合点をした。これだけの河ともなれば、なにがしかの船舶ーせめて蒸気船ぐらいは使わなければ、商売ができるはずがない! そうした船の船長になろうとしない手はないじゃないか!フリート街の通りを歩きながら、どうしてもこの考えを振り切ることができなかった。蛇にすっかり魅入られてしまったわけだ。

2026年6月25日木曜日

20260625 中央公論新社刊 三島由紀夫著『文章読本』 pp.42-46より抜粋

中央公論新社刊 三島由紀夫著『文章読本』
pp.42-46より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4122068606
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122068605

文章を味わう習慣
 歌舞伎に行きますと、ときどき侍が悠々たる恰好で出てきて、見台に本を置いて「どりゃ書見をいたそうか」と言って本を読み出します。 
 われわれはこんなふうに本を読むことはほとんどありません。昔はわれわれが字引を枕にしたり、お尻に敷いたりすると親に叱られたものですが、いまではそんなことを叱る親はありますまい。泉鏡花氏は、ほんのちょっとした字の書いてある新聞の切れはしでも、およそ字の書いてあるものは粗末に扱うことをしなかったと言いますが、いまのマス・コミ時代に、そんなに文字を大切にしていたら身がもたなくなるでしょう。週刊誌は読み捨てられるのが運命であり、三つ四つの駅を通過する通勤の電車のなかで、それは隅から隅まで目を通されて網棚に残されます。この情勢がますます激しくなることは必然的であって、私は外国の飛行場の待合室で、大きい「ライフ」が椅子の上に置かれているのを忘れものと思って人に呼びかけたことがあります。すると立って行った人は、それは捨てたのだと言ってすましていました。「ライフ」のようなアート紙の大判の立派な雑誌は、日本ではまだ大切にするでしょうが、アメリカでは週刊誌と同じように扱って、ペラペラッとめくられてたちまち捨てられてしまう運命にあります。
 このような時代に次第に文章を味わう習慣が少くなるのは当りまえと言えましょう。しかし昔の人は小説を味わうと言えば、まず文章を味わったのであります。今日、小説の読者は、ちょうど自動車で郊外を散歩するようなもので、目的地が大切なのであって、まわりの景色や道端の草花やちょっとした小川の橋の上で釣をしている子どもの姿も、そういうものは目にとめずに、目をとめたにしても一瞬のうちに見過してしまいます。しかし昔の人は本のなかをじっくり自分の足で歩いたのです。交通機関のない時代としては無理もありません。歩けば歩くなりにいろいろなものが目を惹きます。歩くこと自体は退屈ですから、目に映るもの一つ一つを楽しみ味わうことが、歩くことの喜びを豊富にします。私はこの「文章読本」でまず声を大にして、皆さんに、文学作品のなかをゆっくり歩いてほしいと申します。もちろん駆ければ十冊の本が読めるところが、歩けば一冊の本しか読めないかもしれません。しかし歩くことによって、十冊の本では得られないものが、一冊の本から得られるのであります。小説はそのなかで自動車でドライヴをするとき、テーマの展開と筋の展開の軌跡にすぎません。しかし歩いていくときに、これらは言葉の織物であることをはっきり露呈します。つまり、生垣と見えたもの、遠くの山と見えたもの、花の咲いた崖と見えたものは、ただの景色ではなくて、実は全部一つ一つ言葉で織られているものだったのがわかるのであります。昔の人はその織模様を楽しみました。小説家は織物の美しさで人を喜ばすことを、自分の職人的喜びといたしました。
 しかし現代では文章を味わう習慣よりも、小説を味わうと人は言います。彼の文章がいいという言葉はほとんど聞かれず、彼の小説はおもしろいと言われます。ところが文章とは小説の唯一の実質であり、言葉はあくまでも小説の唯一の材料なのであります。あなた方は絵を見るときに色彩を見ないでしょうか。ところが言葉は小説における色彩であります。あなた方は音楽を聴くときに音を聴かないでしょうか。ところが言葉は小説における音譜なのであります。さっきからたびたび繰り返したように、文章を味わう習慣は、民衆のあいだでは長いこと耳から味わう習慣となっておりました。それからまた貴族のあいだでは目で味わう習慣になっておりました。目にしろ耳にしろ、日本の古典には味わわれるような文章がたいへんに多い。いわゆる美文と称されるものはその代表的なものであって、内容などはどうでもよく、ただ味わうために作られた、ちょうど見るための美しい日本料理のようなものであります。われわれはなんでも栄養があるものしか取ろうとしない時代に生れていますから、目で見た美しさというものをほとんど考えませんが、文章というものは、味わっておいしく、しかも、栄養があるというものが、いちばんいい文章だということができましょう。文章の味には水からウィスキーまで、さまざまなものがあります。また油揚げからビーフステーキまで、さまざまなものがあります。そのどの味が最上のものだということを私は言おうとするのではありません。しかし文章の味には、味わってわかりやすい味もあれば、十分に舌の訓練がないことには味わうことができない味もあります。これから私はたくさんの例文をあげて、それぞれの文章の味を解説して行こうとするのですが、日本語のいかに堪能な西洋人でも、森鷗外や志賀直哉の文章がわかりにくいのは、それがきわめて微妙な味、水に似た味わいをもっているからにほかなりません。もちろん水に似た味わいは、食通が最後に玩味するものでありますが、濃い葡萄酒やウィスキーに似た味わい、一例が谷崎潤一郎氏の文章の味わいも捨てられないものであります。
 われわれはいまや空想的な飾りだけの文章を美しいとは言いません。しかしそうかといってお役所の通達のような文章をも美しいとは言いません。飾りがなくって、しかもお役所の通達のようではないもの、そのような文章の味は、一面それを味わう側も進化していると言えるかもしれません。しかしそのような文章の味が、微妙なものを求められれば求められるほど、一般の民衆の文章の好みと、さきほど言ったリズールの味わい好む文章とが、ますます離れてくることはいたしかたないことで、ここに例はあげませんが、私は大衆に愛好されている、むしろ熱狂されている作家たちの文章のなかに、実に下卑た悪文の数々を見出すことができるのであります。それに較べると近松や西鶴を喝采した時代の民衆は、はるかに精妙な舌をもっていたと言わなければなりません。文章の美の平均水準からいうと、近松のような装飾的な文章が、いまや古くなり、無意味になったと言いながら、そういう文章を好んだ時代の方が、少くとも文章を味わう習慣を、その喜びを深く知っていたということは言えるのであります。

2026年6月23日火曜日

20260623 株式会社文藝春秋刊 山本七平著『現人神の創作者たち』pp.191-195より抜粋引用

株式会社文藝春秋刊 山本七平著『現人神の創作者たち』
pp.191-195より抜粋引用

ISBN-10 ‏ : ‎ 4163382402
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163382401

売国奴と愛国者のあいだ
 ここで少々横道にそれ、補助線として、岸田秀氏との対談、「日本人と『日本病』について」(文藝春秋刊)の岸田秀氏の「プロローグ」を取りあげてみたい。
 この中で岸田氏は、日本軍の行動と神経症にかかったネズミとを対比して、「わたしには、このネズミと日本軍がダブって見える」と結論されている。一体なぜ、そう見えるのであろう。以下に少し、要約して、岸田氏の「プロローグ」を引用させていただこう。

『ネズミをT字路のスタートラインに置き、突きあたって一方に曲がれば餌があり、他方に曲がれば電気ショックを受けるようにしておく。この場合、右側へ曲がれば必ず餌があり、左側へ曲がれば必ず電気ショックがあるようにしておけば、ときには右側が明るく左側が暗く、ときには左側が明るく右側が暗いという不規則性を加えても、そのうちネズミは、とにかく右側へ曲がればいいということを学び、必ず右側に曲がるようになる。これは明るい側(または暗い側)に必ず餌があり、暗い側(または明るい側)に必ず電気ショックがあるようにしておいても同じで、そのうちネズミは、それが右側であるか左側であるかにかかわらず、とにかく明るい側(または暗い側)へ行くようになる。このようにして形成されたネズミの条件反応には臨機応変性、柔軟性があって、必ず右側(または明るい側)へ曲がるように条件づけられたネズミを、今度は、左側(または暗い側)に餌があるT字路においてやれば、そのうち左側(または暗い側)へ曲がるようになる。反応形式は状況に応じて変更できるわけである。
 ところが、餌と電気ショックが、ときには右側、ときには明るい側、ときには暗い側という具合に、いっさいの規則性を欠いたT字路にネズミをおくと、そのうちネズミは、状況を無視した固定的、強迫的反応を示しはじめる。たとえば、餌があろうがなかろうが、右側なら右側へ曲がる反応が固定する。いったん、たとえば右側へ曲がる反応が固定すると、今度そのネズミを、右側へ曲がれば必ず電気ショックがあるT字路においても、依然としてネズミは、何度電気ショックを受けて痛い目に会っても、右側へ曲がりつづけるのである(消去抵抗)。このネズミの行動を擬人的に解釈すれば、ネズミは、何ら規則性が発見できない状況に放り込まれてどうしていいかわからず不安になり、しかし、腹が減ってくるから何らかの行動を起こさざるを得ないので、不安から逃れるため、とにかく根拠はないが、右側なら右側に曲がるという方針を決定し、いったん決定すると、何度失敗しても断乎として方針を変えないわけである。わたしには、このネズミと日本軍がダブッてみえる』

 大分長く引用させていただいたが、確かに日本軍はそうであった。「情況は全くわからなくなった。わからないならわからないで致し方がない。断乎、自分の行き方を貫くまでだ。それで全滅するなら、全滅して本望だ」とばかりに、何度失敗しても、同じことを全滅するまでやるのである。その点では確かにネズミ的である。だが日本軍とは日本人であり、日本人とはその歴史の産物である。そこでこれをさらに大きく歴史的に見ていったらどうであろうか。ある状況に於て右に曲がったら非常に痛い目にあった。そこで左に曲がったらうまくいった。そのため以後は専ら左に曲がりつづける。情況が変化しないなら、これはうまくいくであろう。だがひとたび情況が変化すれば、左に曲がることによって右に曲がったと同じ結果を生ずる。だが同じ結果を生じても左に曲がれば大丈夫と信じ、痛い目に会いつづけても左に曲がっていれば、ネズミは餓死するに至るであろう。もしそういう行動をとったら、それはネズミ以下ということになる。というのは、岸田氏の記されたネズミはもうちょっと柔軟性があるからである。一体、近代史を通じてみればこの間の日本人の行き方はどうなっているのであろう。
 そう考えてみて以上のことを幕末・戦前・戦後の日本にあてはめてみると面白い。戦前の日本人は、ある行為をすれば亡国になり、その逆をすれば必ず勝者となって安全であると信じ込んでいた。もちろん、何によってそう信じ込まされたかは忘れたか、消したかしてしまった。従ってそれは一種の呪縛のようになり、だれもこの行き方をどうすることもできない。これは全日本性的態度で、軍隊はただそれが鮮明に出ているにすぎないのである。では何が日本人をそうしたのか。簡単にいえば浅見絅斎が「謝枋得」編で長々と記した宋滅亡の経過とそれへの朱子の批評である。ここでは北方の金と講和を策する和平派は全部売国奴でその象徴が秦檜であり、李綱や尽忠報国の岳飛に象徴される軍人はみな愛国者なのである。従って、軍人の言う通りにしていれば、謝太皇太后が国を元に献じて亡びるような事態にはならなかったであろうという結論が一応出てくる。こういう図式を頭の中に叩き込まれていれば、李鴻章は狙撃され、小村寿太郎は売国奴とされ、東大に「バイカル七博士」が出現し、講和反対の焼打ち事件が起って不思議ではない。何しろ「謝枋得」編を読んでいくと「譲歩は敗北への道だ」になるから、軟弱外交否定、決裂も辞せず一歩もひくなと、断固主張するのが勝利と国家保全の道であり、これをつきつめれば、譲歩妥協して他国と条約を結ぶことさえ悪になってしまう。
 日本は大体そのようにし、そうしていれば国は保持できるという呪縛にかかっており、軍人だけでなくマスコミも世論も、三十余年前の八月十五日までそれを主張しつづけた。ところがこの考え方・行き方により、大変に「痛い目」に会った。そこで戦後の日本人はほぼその瞬間に、戦前の逆をやれば安全と信じ込んだ。いわばT字路に置かれたネズミは、明治には「謝枋得」編の宋滅亡の逆の方向(これを右としよう) へ曲がることによって一応成功した。いわば「痛い目」より「餌の方」へと曲がって、近代化という成功を克ちとった。ところがこれが固定し、客観情勢が変っても同じように右に曲がりつづけ、大変に「痛い目」に会った。そこで左に曲がって意外な戦後的成功を克ち得た。すると今度も客観情勢が変化しても左に曲がりつづけよと主張される。ところが今になってまことに規則性のない国際情勢の中に放り出された。もっとも過去にも国際的環境は戦場と同様元来は規則性がないのだが、自らのうちに呪縛化した規則性に基づき、その通りやったり、その逆をやったりして、その成功と失敗を規則性として来たわけである。それが少々あやしくなって来たわけだが、そうなると変化する情況に対応できなくなり、この辺で岸田氏が指摘する消去抵抗が出て来て、どちらか一方へ、客観情勢の変化に関係なくまた曲がりつづけるかも知れない。というのは、それと大変似た状態を過去にも現出しているからである。
 一つ一つあげて行けば際限がないが、実際は別として少なくとも発想で「戦後」とは「戦前」の「反世界」であり、それを主張しさえすれば、その人間が「義」であることは事実であった。これはちょうど戦前に於て「謝枋得」編の宋滅亡の経過の逆を主張していればそれが「義」であったのと似ている。たとえば戦前は強大な陸海軍をもち、すべての国を敵としたから戦後はその逆に非武装中立ですべての国と仲よくしようとなり、そうすればあのようなことはないという発想になる。この種の「戦前=悪、その逆をすれば義」的な考え方は、戦前は「親共」が悪、戦後は「反共」が悪といった裏返し状態を例にあげるまでもなく、新聞の投書その他の到る所にある。それを要約すれば「逆コース」という批判の内容になるであろう。この言葉を、岸田氏のネズミと対比すれば、戦後の「コース」は戦前を基準とすれば「逆コース」ということになり、戦後を基準とすれば戦前が「逆コース」ということにもなる。従ってこの言葉の背後にあるものは、通常使われるのは後の意味だが、この「逆コース」を悪とするなら、戦前の逆をやればよろしいということなのである。と同時に戦前は、絅斎の指摘したように、宋が滅亡へと進むコースの逆を行けばよく、宋の道を歩めば逆コースだったわけである。そしてこの考え方は右に出ようと左に出ようと、最終的には、非常に把握しにくい客観情勢の変化が入る余地がなくなってしまうのである。

2026年6月22日月曜日

20260622 株式会社 未來社刊 丸山眞男著「現代政治の思想と行動」 pp.126-128より抜粋

株式会社 未來社刊 丸山眞男著「現代政治の思想と行動」
pp.126-128より抜粋

ISBN-10 : 462430103X
ISBN-13 : 978-4624301033


 一般に君主制の下で政治的統合を確立し、上述したような君主に直属する官僚の責任なき支配とそこから生れる統治の原子的分裂を防遏する可能性は二つ、或はせいぜい三つの場合しかない。一つは君主が真にいわゆるカリスマ的資質をもった巨大な人格である場合(或は、君主に直属する官僚がそうである場合、つまり彼がもはや単なる官僚でない場合)であり、もう一つの場合は民主主義国におけるのと変らないような実質的に強力な議会が存在していること、このいずれかである。ところが前の場合はいうまでもなくきわめて稀であるし、後の場合も、よほど特殊の歴史的条件(例えばイギリス)がない限り、君主の周囲に結集した貴族層がそうした民主的立法府の勃興を本能的な権力利害からして抑制するために、近代の君主制は表面の荘厳な統一の裏に無責任な匿名の力の乱舞を許すいわば内在的な傾向をもっているのである。帝政ロシアの場合は既に右に見た如くである。ドイツ帝国においても、ヴィルヘルム一世とビスマルクのコンビが失われた後はやはり相似た経過を辿った。「外交の巨匠としてのビスマルクが内治の遺産として残したものは、いかなる政治的教養もいかなる政治的意思もなく、ひたすら、偉大な政治家が己のために万事配慮してくれる期待によりかかっているような国民であった。彼は強力な諸政党を打壊した。彼は自主的な政治的性格の持主を許容しなかった。彼の強大な威容の消極的な産物は恐しく水準の低い卑屈で無力な議会だった。そうしてその結果はどうなったかー官僚制の無制限な支配すなわちこれである。」
 絶対主義国家としての日本帝国の行程も畢竟こうした法則に規定されていたのである。明治藩閥政府が自由民権運動をあらゆる手段によって抑圧し、絶対主義のいちじくの葉としての明治憲法をプロシアに倣って作り上げた時に既に今日の破綻の素因は築かれてはいた。「官員様」の支配と、その内部的腐敗、文武官僚の暗闘、軍部の策動による内閣の倒壊等々は決して昭和時代に忽然と現われた現象ではなかった(例えば明治二五年、第一次松方内閣改造に際しての大山・仁礼・川上ら軍首脳部のボイコット、或は大正元年の二個師団増設問題における上原陸相の単独帷幄上奏などは、後年の軍部の政治的常套手段の見事なモデルを示している)。他方、帝国議会は周知の通り一貫して政治的統合が最終的に行われる場ではありえなかった。それどころか議会開設後の政党はそもそも「打壊す」のにビスマルク的鉄腕を必要とするほどの闘志と実力を持たなかったのである。政治力の多元的併存はかくて近代日本の「原罪」として運命づけられていた。にも拘らずそこで破綻が危機的な状況を現出せず、むしろ最近の時代とは比較にならぬほどの政治的指導と統合が行われていたのは、明治天皇の持つカリスマとこれを輔佐する藩閥官僚の特殊な人的結合と比較的豊かな「政治家」的資質に負うところが少くない。伊藤博文がビスマルクを気取ったのは滑稽ではあるが、しかし彼にしても其他の藩閥権力者にしても、一応は革命のしぶきを浴びつつ己れ自らの力で権力を確立した経験を持っていた。彼らは官僚である以前に「政治家」であった。彼らは凡そ民主主義的というカテゴリーから遠かったが、それなりに寡頭権力としての自信と責任意識を持っていた。樺山資紀の第二議会での「我が国の今日あるは薩長の力ではないか」云々という有名な放言はこの内心の自負の爆発にほかならない。そうした矜持が失われるや、権力は一路矮小化の道をたどる。政治家上りの官僚はやがて官僚上りの政治家となり、ついに官僚のままの政治家(実は政治家ではない)が氾濫する。独裁的責任意識が後退するのに、民主主義的責任意識は興らない。尾崎咢堂は「三代目」という表現で戦時中不敬罪に問われたが、三代目なのは天皇だけではなかった。そうして絶対君主と立憲君主とのヤヌスの頭をもった天皇は矮小化と併行して神格化されて行ったので、ますますもってその下には小心翼々たる「臣下」意識が蔓延した。イソップ物語のなかにこういう話がある。-ごましお頭の男が二人の愛人を持っていたが、一人の愛人は男より若く一人は年寄りだった。若い女は年寄りの恋人を持つことを嫌って、通うごとに男の白髪をだんだん抜いて行き、年増の方は年下の男を持っていることを匿そうとして逆に男の黒い毛を抜きとって行った。それでとうとう男は禿頭になってしまったーというのである。日本の「重臣」其他上層部の「自由主義者」たちは天皇及び彼ら自身に政治的責任が帰するのを恐れて、つとめて天皇の絶対主義的側面を抜きとり、反対に軍部や右翼勢力は天皇の権威を「擁し」て自己の恣意を貫こうとして、盛に神権説をふりまわした。こうして天皇は一方で絶対君主としてのカリスマを喪失するとともに、他方立憲君主としての国民的親近性をも稀薄にして行った。天皇制を禿頭にしたのはほかならぬその忠臣たちであった。

2026年6月21日日曜日

20260621 中央公論新社刊 林道義著「父性の復権」 pp.154-159より抜粋

中央公論新社刊 林道義著「父性の復権」
pp.154-159より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 412101300X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121013002

いじめ・不登校と父性
弱い者いじめの心理
 現在の日本で問題になっているいじめは、残虐で執拗だという特徴を持っている。となるとその背後にはサディスト的な心理があるのではないかと疑ってみたくなる。サドマゾ的な性格は、両親が厳しすぎて、しかも愛情が不足して育った場合に出てきやすい性格である。フランクフルト学派の研究によれば、それは権威主義的な性格と近い関係にある。しかし現代の日本のいじめは、父親が厳しすぎるために出てきたサド的な心理である可能性は少ない。むしろそれは正反対の心理を示しているように思われる。
 現在の日本社会のいじめは、いじめる子のフラストレーションの解消に使われているという性質を否定できない。つまりいじめっ子の心の中にはある種の不満が鬱積しており、その不満の解消として、いじめがなされているのである。
 不満があると言っても、その不満を子どもたちが自覚しているわけでは決してない。むしろ逆に、その不満は無意識の中に深く抑圧されており、子どもたちはその不満を表現することを許されないのである。その抑圧が直接的でなく、巧妙で心理的であればあるほど、子どもたちはそれに対して反抗することができないで、鬱屈した形で表現せざるをえない。子どもたちは、自分の不満や欠陥といったマイナスのものを表現することを許されていないのである。
「不満のない」子どもたち
 今の子どもたちを対象にしたある調査によると、両親に対する満足度を調べたところ、子どもたちの九割が親に満足していると答えた。それを額面どおりに受けると、今の子どもたちはほとんど親に不満を持っていないということになる。
 しかし調査の結果を表面的に理解してはならない。子どもたちが両親に不満を持っていないとは、とうてい考えられないからである。私の心理療法の経験から言っても、問題を持つ子どもは誰でも、必ず親に対する不満を持っており、また面接していくと不満を意識化するようになる。子どもたちは決して不満を持っていないのではなく、自覚していないだけなのだ。
 ということは、「親に満足している」と答えた子どもたちのかなりの部分が、自分の不満を抑圧しているということになる。あるいは、言い換えれば、巧妙なマインドコントロールのもとにあって、満足だと思いこまされているということになる。それだけ親の心理的な支配が強いのだとも言えるだろう。親と言ったが、じつは支配している親はこの場合母親である。日本の家庭では父が不在で。子どもの教育や面倒は母親が見ている場合が多いからである。つまり子どもたちは母親の強いマインドコントロールのもとにあると言うことができる。「親に満足」だとの答えは、じつは母親に管理されてしまっている子どもの姿を浮かびあがらせているとも見ることができよう。
 少し古いが、一九八七年に武蔵野市が行った「子どもの生活実態調査」によると、「お父さんとの間はうまくいっていますか」との質問に、中学生の場合「とてもうまくいっている」が二六・七パーセント、「かなりうまくいっている」が二四・九パーセント、「ややうまくいっている」が二九・一パーセントであった。なんと八割がともかくも「うまくいっている」と感じており、三分の一が「とてもうまくいっている」と思っているのである。これは父親がよほど子どもに「理解のある態度」を示していないと出てこない結果である。父親がきちんとしたしつけをしようとか、なんらかの価値観を教えようとするならば、こういう結果は絶対に出てこない。親子の間の衝突や子どもの反抗という現象がもっと多く起きるはずである。父と子が見かけ上「うまくいっている」というのはどこか薄気味悪い。よほど現代の父親が「もの分かりがよい」「優しい」「甘い」ということの現れだからである。つまりこの調査結果は、この子どもたちの父親がしつけに参加していないことを表しているのである。
 「親に満足している」とか「親とうまくいっている」と思わせているもう一つの理由は、親に対する評価が物質的な面に偏っていることにある。いまの日本では、たいていの家庭は、子どもに世間並みの物質的必要を満たしてやることができる。生活面で子どもに不自由させている親はそう多くない。物質的な条件に関するかぎり、不満がないのは当然である。問題なのは、満足かどうかと質問されたときに、心理面や愛情面について聞かれているとは思わないで、ましてや親の生き方や信念について聞かれているとは思いもしないで、物質的なことを考えて答える者が多いかもしれないことである。もしそうだとしたら、そのこと自体が、母親主導の価値観を示しており、抽象的な理念からの発想がないという意味で父性の欠如を示していると言うことができる。
母性一辺倒のしつけ
 父性が関わらないで、母性だけによってしつけがなされると、子どもは細かい日常的な事柄に関しては関心が強くなるが、原理的なことについては関心をなくしていく傾向にある。母性によるしつけは、往々にして自主性や判断力を養わないで、大人の基準から見て得だと思われる目標(受験勉強)に向けて細かく管理して邁進させるという性質を持っている。すでにかなり以前になるが、祖母を刺し殺してしまった高校生の場合にも、祖母が一挙手一投足について干渉することに耐えられなくなって、殺すという極端な反応を示したと考えられる。太母の支配と管理が強すぎると、それから逃れるためには殺人という極端な手段を取るしかないと思い込んでしまうのである。
 母親によるしつけは往々にして、原理原則によるよりは、目の前の具体的なことについて細かく管理するという形を取りがちである。我が子の得や安全ばかり考えて、勉強や技術の習得を第一として、正義や勇気や誠実といった抽象的な徳への関心は排除されてしまう。ましてや衝動をコントロールするなどということは、しつけの中に入ってこない。コンプレックスやフラストレーションをコントロールするどころか、それらに左右されやすい人格になっていく傾向にある。
 母性支配による正義感の欠如
不満も表せないし、反抗もできないという「満足しているいい子」たちは、じつは自我の弱い、発達の未熟な、フラストレーションを持った子どもたちなのである。だからその子どもたちが、いったんそのフラストレーションを発散させようとすると、自我による抑制もなければ、超自我(父の道徳的規範)による歯止めもない、まったくの無制限で無秩序ないじめ方をすることになる。それはまさに父性不在の母性一辺倒による発達の歪みを示しているのである。
 いじめっ子たちがとくにこだわるのが、チクるという行動である。チクるとは、大人に言いつけることである。子どもたちの間では、チクるという行為は最大の罪悪と考えられている。この罪悪感にほとんどの子どもたちが囚われているのは、いじめる子どもたちの支配のイデオロギーにすべての子どもたちが絡め取られていることを意味している。それは逆に言えば、いじめる子どもたちがいかに大人の介入を恐れているかを示している。いや、大人というより、父の論理の介入を恐れているのである。社会規範の基準が持ち込まれ、それによって裁かれることは、彼らにとっては致命的である。彼らの無法を正当化する幼稚な理由づけ(「汚いから」「臭いから」「のろまだから」「ブスだから」等々)が通用しなくなり、まったく別の基準によって裁かれて、悪として断罪されるからである。ということは、彼らは自分たちが父親的な大人の観点からは断罪されるということを承知しているということになる。知ってはいるがやめられない、というところに、無意識の動機の強さと恐ろしさが示されているのである。
 直接いじめに加わる子ども以外の子どもたちが、まわりにいて傍観したり、無関心を装ったりするという傾向もまた、父性の不足を示している。そこには我が身の安全のみを願い、正義や勇気という徳目にはまったく無関心な、母性のマイナス面が支配している。

2026年6月20日土曜日

20260620 株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「主役としての近代」 pp.151‐156より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「主役としての近代」
pp.151‐156より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061586629
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061586628

万葉集とゲーテは似ている?
 ドイツ文学を読んでいる者が万葉集について何か書けといわれると、その感想は、万葉集とゲーテの詩にはどこか共通点があるような気がする、ということである。
 たしかに、あるような気はする。ことにゲーテの若いころの作品を読んでいると、ときどきそんな感じがする。若いゲーテには素朴な上古人みたいなところがあって、技巧のない直截な表現をした。そして、万葉集は日本文学の中ではもっとも「感傷的」でなく「素朴」なもので、新鮮で健康なものである。われわれは、万葉集はほかの日本文学とちがって自然児の感情をあからさまに流露したもののような気がしている。それで、たとえば

燈のかげにかがよふうつせみの妹がゑまひし面影に見ゆ

といったような歌を読むと、これは、ゲーテだと思う。


うるはしと思ふ吾妹を夢に見て起きて探るに無きがさぶしさ

を読むと、『若きウェルテルの悩み』の中には、これをそのまま散文にしたような章がある、と思う。
 上代の日本と十八世紀末のライン地方とでは、舞台も道具立てもまるでちがうが、もし大伴家持がロココ風の服装をして葡萄酒を飲んでバタをなめていたら、あるいはつぎのような詩を作ったかもしれないような気がする。

やがてわたしは葡萄園の
秋の房を分けて入ろう。 めぐりに生命は充ちあふれ
新らしい酒は噴き溢れていよう。
なれど荒れた「亭」で
おもう心はーああおまえがここにいたら、
この房の実をおくろうに…

ひびきがおおらかで、線が太くて、コスミッシュな感じがただよっているような自然の詩は、ゲーテにも万葉にもある。それでー「ゲーテは万葉集である、万葉集はゲーテである」という説を立てたくなる。

あしひきの山川の瀬の鳴るな並に弓月が岳に雲たちわたる

 これこそは、自然を直観してその中にとけ入ろうとした、ゲーテのあこがれた境地ではなかったか!
 
 というわけで、私はゲーテ万葉説がなりたつかと思って、万葉集をすこしばかり読んでみた。ところが、読むにしたがって、これまで漠然といだいていた先入見が壊れていった。万葉集とゲーテは大ちがいである。似ているところ、近づいているところも、ないではない。ゲーテの中のすぐれた作品と万葉集の中のすぐれた作品とは、どこか通じている。これはおそらく、すべての立派な芸術に共通の香気とか格調とかいうものらしい。しかし、両者の多数の凡作はたいへん違っている。そして、稟資の基調は、かえって凡作の方に感じられることが多い。
 ゲーテを頭におきながら万葉集を読みかえしたときの感想は、矢代幸雄先生がヨーロッパから帰って法隆寺の壁画を見られたときの感想に、そっくりである。(ここでその原文を引用しようと思ったところが、生憎『世界に於ける日本美術の位置』も『日本美術の特質』も、手もとに見つからない。矢代先生におゆるしねがって、私が記憶しているところを記すと、おおよそ次のような趣旨だった)
 ー法隆寺の壁画は日本の絵画の中の最大作で、われわれはこれをスケールの大きな、荘重森厳なものだと思っている。ところがイタリアの壁画を見なれた眼には、それは意外な印象をあたえた。それは清楚で淡泊で流麗で、味のこまかいものである。日本人好みの仕上げの丁寧な、品のいい、やさしくしみじみとしたものである。日本美術の中ではもっとも雄渾と思われるものも、世界の標準から見るとむしろ甘美な感性のこまやかさによって人の胸をうつものである。
 あの法隆寺の異国風の壁画をえがいたものと同じ感性が、万葉集の中にもはたらいているような気がする。くらべればくらべるほど、ゲーテの方は強烈で逞ましくマッシヴではげしく迸っているし、万葉集の方は、「繊細」で、野性といったようなものはすっかりふりすてて洗練されている。短かい形の中に、はや技巧をつくしているにはおどろかれる。大陸伝来の正倉院の御物もそうだが、まったく日本で成立した詩歌にも、大まかな荒削りのところはすこしもない。
 ゲーテの傑作の「五月の歌」の、冒頭は直訳するとつぎのようである。

何とすばらしく
自然はてらしていることだろう!
何と太陽はかがやいていることだろう!
何と野は笑っていることだろう!

これにくらべると、万葉人の発想や言葉づかいは、その庶民の歌でも彫琢をきわめている。
 ゲーテは明るくてしばしば歓喜にあふれているが、日本人はおおらかないにしえにもしきりに歎いた。万葉集には、意外に悲哀の歌が多い。死の歌、別離の歌が、非常に多い。恋の歌にも、ほとんどつねにやさしい人情のなげきが基調になっている。なげくということは日本文学の大きな主題で、今でも日本人は映画の中でも涙をしぼるものが好きだが、こういう気持は歴史のはじめからあったのだろうか? ゲーテはドイツでこそ「素朴な」「古典的」な詩人とされているが、外国ではむしろ感傷的なロマンチックな作家としてうけたられた。それろ同じように、われわれにとってはおおどかな万葉人も、じつはやはりしめやかな情緒の人だったたしい。
 そのほか対比はかぎりないが、もっとも根本的と思われるのは自然に対する態度である。
 ドイツ人のおい自然とわれわれの考える自然とでは、たいへんちがっている。ドイツ人にとっては、自然・生命・神は三位一体なので、かれらは自然の中に自己の生命力を投影し、神の創造したもうた、宇宙の神的秩序を賛美した。所詮は一神教の展開である。ところが、日本人の自然観はあべこべに汎神論的といえるだろうか、ありのままの具体的な事物に端的に没入して、自然の中に呼吸する。

2026年6月17日水曜日

20260616 株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「主役としての近代」 pp.55‐59より抜粋 

株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「主役としての近代」
pp.55‐59より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061586629
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061586628

主役としての近代
 われらが遭遇した大災厄はすべて中世的なるものの残滓のなせるわざである。というのが今の定説になっている。いわゆる封建性が一切の罪を問われていて、近代はこれに対してまったく責任がないかのようである。
 人々はいっている。ー支配する者の頭が封建的だったし、支配される者の心が封建的だった。どちらも近代にめざめてはいなかった。明治以来の日本はまだ近代国家ではなかった。レジームが変っても、実は封建性が、いな中世以前のものが、西アフリカ的ですらあるものが残っていた。それが動きだして今日の災いを生んだのだ。ー
 私は怪訝にたえないのである。ーいったい封建性にあのような事ができたであろうか? 中世的なものの力が、ナポレオンも及ばないような大規模の戦争を東条といったような人に遂行させたのであろうか? かりに昔にもあのような超国家主義というものがあって、それが今まで温存されていたところで、それが強大な外国とのひさしい近代戦を行ったのであろうか?
 このように封建性の役割を過大視するのは、あまりにすべてをただ人間の心がまえといったような道徳問題で解決しているのではないだろうか?
 勿論日本人の心がまえには非常に多くの近代的ならざるものがあった。これに大きな責があることは争うことができない(いわゆる近代的自覚なるものがどの程度に有力なものであるかは、別の問題としてー)。そして今は、ことに国民が易々として屈伏をしたという点がはげしく罵しられ、あざけられている。
 しかし、それにしても、支配者があれほどの力を具えて国中を蟻の這いでる隙もないほどに強制しえた、そしてそれが外から倒されるまでは内からはどうしようもなかったということは、これは現代に独特の事態である。近代的な武器と組織を握った政府に対してはいかにしても反抗することができない。ということは近代の一般的な特徴である。ヨーロッパでも、一八四八年以後は、民衆が自力で圧政を倒して自由を獲得した例はない。近代になればなるほど、両者の力が隔絶して、そういうことができなくなったのである。現代にあって被支配者が支配者に反抗できるのは、かえって西アフリカの蛮族ぐらいなものであろう。ドイツ人を目して西アフリカ的であるという議論はないようであるが、ナチスを倒すためにはナチス以上に近代的な力をもった連合軍をまってはじめて可能だったので、ドイツ人自身には最後の日まで手も足もでなかった。日本でも、日露戦争の頃は公然と非戦論を唱えた人がいた。それが今度はなかった。これは、封建性が増大したのではない。むしろ、近代の強制力がましたからである。人間の道徳的心がまえ以外の、現実の世界の近代の性格がすすんだからである。
 つまり、近代性には二つの面がある。一つは人間を解放した近代であり、他は人間を拘束する近代である。日本では、ここに特殊の条件から、前者がその片鱗を示しはじめたころには、もう後者が決定的な力をもつほどになっていたのであった。
 かつては、わが国も近代への過程にあった。天皇は意識的にロボット化されていた(これがあまりにロボットになってしまったことが、結果的にはかえって悪いこととなった)。官僚出身者はぞくぞくと政党に入った。軍部大臣は「自分は一介の武弁にすぎない」とへりくだった。さらに、言論はすくなくとも一時は放恣といっていいほどに自由であり、日本人は世界でもっとも国家意識が稀薄な国民であるとさえいわれた。そうして、十幾年前のわれらの社会ははなはだしい病的症状を呈していた。一方にはエログロ、他方には赤というあの時代は、まさに末期の様相を示していた。あの一時期は短い中間劇ではあったが、しかし意味のふかい一幕であった。わが国では、近代化がはじまってそれがまだ完成に遠いうちに、もう近代の破綻がはじまった。制約のある後進国では、近代は円満な発達をとげることができなかったのである。
 そこに反動が起った。これが力をえはじめたのは、それがただに回顧的なものとしてではなく、頽廃に対する対症療法と思われたからであった。これは封建性の否定の否定として確立した。あのころ、まだ自由な立場にあった新聞がどれほど政党を攻撃したか、一般人がどれほど「軍に感謝」したか、忘れることはできない。この風潮によって、反動はその根をかためた。しかるに、この反動は次第に治療以上のものとなり、ついにあらゆる抵抗を挫いて、絶対のものとなった。抵抗はあった。斎藤隆夫演説や宇垣内閣流産のころの国民の動きは、もし相手が対等の力をもったものであったら、十分に有効なものであった。しかるに、軍はその機能においては日本中でもっとも近代的な存在であって、強大な組織と武器をもっていたから、その意志を遮る力はほかにはなかった。軍人はその主観的感情においてはもとより極端に封建的であったが、その感情をあやつってその近代的な性能をおどらせたものが他にあった。
 それは近代の行きづまりであった。悲劇の主役はむしろ近代であった。中世の残滓はわき役にすぎなかった。人口過剰や生活難、しかもとどまるところを知らぬ要望、植民地獲得欲、それ自体の力学をもって動く巨大な機構、その主体となるべき人間精神の喪失、ありとあらゆる文明の利器を手中に収めた政治支配力の強大化ー、そのほかの近代の症状があの破局を演じた主な役者であった。わき役はそれに引きずられてはなはだ巧みな助演をしたのであった。
 ファシズムと封建性とはちがうであろう。今回の悲劇はファシズムが演じたものである。それは一見中世への復帰あるいは封建性の復活という外見をとり、前から残っていたものと結びつき、利用し、それを傀儡とした。根づよく残っていた封建性は絶好の受け入れ体制だった。これは程度の差こそあれ、独伊でもそうだった。かつてこれらの国は大個人を輩出させて近代のさきがけをしたが、さまざまな制約から後進国となって、その近代化が十分に行われないうちに近代の頽廃に覆われた。

2026年6月16日火曜日

20260615 2485記事の到達から歴史意識の記号接地について

 おかげさまで、直近の記事投稿により、総投稿記事数が2485に到達しました。今後、当記事を含め、さらに15記事投稿することで、当面の目標である2500記事に到達することが出来ます。また、ここしばらく引用記事を作成してきましたが、同時に当ブログとは別に並行して、自らの文章も作成していたため、2週間ほどのブランクはあるものの、新たなオリジナル記事の作成も、特に支障はないと思われます。むしろ、当ブログでの記事作成の方が自由度が高いためであるのか、作成を始めますと、あたかも、ペンを用いて紙に文章を書いているかのような錯覚を覚えるほどに、自然に文章が出てきます。そして、それがあまりにも滑らかであったことから「本当にこれで文章として大丈夫なのだろうか…?」と少し心配にもなりましたが、なおも進めていますと「元来、私のブログでは、このようにして文章を作成していたのだ…。」ということが思い出され、安心して作成に戻るのです。そして、そうであるのならば「早々とブログ記事の作成を始めておけば良かったのに…。」とも思われるのですが、この記事作成に取り掛かるまでの停滞したような感じも、決して無意味なものではなく、速やかに集中(フロー)状態に入るための、ある種の段階のようなものであるとも考えられます。そして、そのように考えてみますと、今回のオリジナル記事作成に至るまで、2週間ほど継続した引用記事の作成もまた、そうした段階であったのではないかとも考えられます。つまり、引用記事をしばらく作成することにより、続くオリジナル記事の作成が容易になり、さらに、感覚的ではありますが、そのようにして作成したオリジナル記事の方が、相対的に面白く感じられ、そして閲覧者数も伸びると思われるのです。
 直近にて、そうした傾向があったのは、2週間ほど前、去る5月30日に投稿した「腸内細菌叢に関する資料をあたり思ったこと」でした。当記事は、その後もありがたいことに比較的閲覧者数が伸びており、また、そこで述べました「腸内細菌叢(マイクロバイオーム)」と「我が国の八百万の神々」とを比較した見解は、これまでに見聞きした記憶はないため、あるいは、初めて言語化された見解ではないかとも思われます。
 元来、私は八百万の神々や神社そして神道に対して、能動的な関心を持っていたわけではありませんでした。その意識が変化したのは、これまでにも度々言及してきました2001年から3年間の南紀白浜在住期の頃でした。当時の勤務先は、白良浜にほど近い白良荘グランドホテルであり、その従業員駐車場は、白良浜の北に位置する半島状の権現崎に祀られている熊野三所神社の社叢裏手にあたり、駐車場のすぐ近くには神社の裏参道入口として鳥居が立っていました。そうした環境であると、休憩や勤務後などに境内に入ることが多くなり、それが続きますと、何時の日か「ああ、これが多分、より本来の神社に近いのだろう…。」と何かが繋がるのです。しかし、それは未だ言語化されるものではなく、感覚として気が付くといった感じです。そして、その感覚は、境内の開口して玄室内の箱型石棺が見られる火雨塚古墳や、社殿などの施設を囲む、南方的で横溢とした社叢を一つのものとして認識されるようになると、自然と生じるのではないかと思われます。そしてまた、それも一つの歴史意識の記号接地であったのだと云えます。つまり、新しくとも千数百年前の古墳時代から、人びとは既にこの場所を畏れ敬い、祀ってきて、そして、それが現代においても神社として続いているという事実を身体感覚で理解したと云うことです。このようにして時間をかけて徐々に身体化された見解とは、他の場面においても速やかにそれを運用・応用することが出来、そしてまた、ある程度専門的な関連する著作も自分なりに理解しつつ読むことが出来るのではないかと考えます。その意味において、たしかに南紀白浜在住時の、こうした環境は、たいへんに幸運であったと云えます。これにつきましては、まだ続きがありますが、それにつきましては、2500記事到達までに、また新たに記事を作成します。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


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2026年6月15日月曜日

20260614 株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 pp.427‐430より抜粋

株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」
pp.427‐430より抜粋
ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063

神道の美学
 学術上の真の記述と芸術上の美の記述とは異種であり別である。美術史家の論文は事物の真を正確に記述せねばならない。しかし正確なだけでは足りない。情報を提供するだけの美術史教授では第一級とはいえない。事物の美を描き、さらにその精神文化史的意味をも伝えることが望ましい。竹山の論が貴重なのは美術にあらわれた宗教文明の論としても示唆に富むからである。美術が育つためには背後に精神共同体が存在する以上、その宗教的精神共同体が共有する感受性にも言及しなければならないのは当然ではないだろうか。

 ー昭和五十八年秋に私たちは京都へ最後の旅をしたが、その帰る日の午後、鷹峰の芸術村を通り、円通寺の近くから比叡山を眺め、その借景の向こうの山をかぎりなく美しいと思った。美しいがこれが竹山にとり最後だという予感があった。そして糺の森を抜け下鴨神社へ寄り参拝をすませて「やはり神社の境内はいいですね。気持ちがやすらぎますね」とほっとして私がいったら、竹山も「あなたもそう感じますか」といった。多くの仏閣を見、そこで足掛け三日の旅程をおえ、安らぎを覚えたからかもしれない。しかしそれだけでなかった気がする。第三章でも述べたように、竹山は母が天竜鹿島の椎脇神社宮司の田代家の出で、それだけ神道に理解もあり親近感も覚えていたからこそ神道の審美学も語ったのであろう。「あちこち歩くうちに、神社にあるものが日本人の造形感の根本のものをあらわしているように思われてならなくなった。つぎつぎと外国からの影響があって新しい形態が入ってきても、結局ついには神道的な形に同化されてしまう。日本独特な感触のヴェールにつつまれてしまう」。
 昭和三十八年、竹山は毎月一回、新幹線開通以前の東海道線で鎌倉から京都へ通い、東山を遍歴し『藝術新潮』に十九回にわたり『京都の一級品』を連載した。私は前年からイタリアで留学していたが、竹山から「毎月の京都泊の仕事が楽しくて結構だと思っています」という趣旨の手紙をもらった。そんな二十年も前からすでに神道にふれてこんな見方を述べていた。

 神道は言挙げせず、教理としては貧弱だけれども、宗教感情の対世界態度をあらわすものはただ言葉には限らない。(神社という)形もそれに劣らず雄弁である。

そして敗戦後、非難されることのなにかと多かった神道について、こうも述べた。

 ところが、われわれは神道についてはほとんど何も知らない。教わったこともない。神道が国体を顕揚し戦意を強化したなどというけれども、われわれは神道からなんの強制をうけたおぼえはなく、その教義すらはっきり聞いたことはない。ただ森の中の空屋のような祠に、さまざまの名の神が祭ってあり、しかもその神はそこにはいず、代わりにその神を偲ばせる御霊代が御神体になっている。ぼんやりと曇った鏡などが懸っていて、正体は不明である。ふしぎな謎のようなものだが、それについても別に気にしないで無関心でいる。

神魂神社
 竹山は神道についてはその造形表現である神社を語り、その形によって触発された自分の意識のうごきを分析した。著作集に一点だけ入れた神道関係の文章は出雲の神魂神社である。その建築は大きくないが、純粋性という点から「比類のないもの」と竹山はいった。

 神魂神社の入口への階段は、左右に迫った杉の森のあいだに、大きな石塊を重ねて、それが三十二段ある。石は赤味をおびて豪快だが、段は高いし、凸凹しているし、小雨にぬれているから、昇り降りは楽ではない。立派な自然石の手洗鉢があって、苔むして、清水が迸りでては流れ落ちている。その音がうつくしい。この石段のあたりには、太古の巨石崇拝のあとが残っているように思われた。

 入口の最後の段を、太い杉が左右から挟んでいる。ここから内は聖なる地域であることを示していて、まことに象徴的な入口である。深い自然感がただよっている。鳥居と同じ役目をしている。...

 神魂神社はすぐ後ろに清浄な山を負っている。そこの小さな平地に、明るい錆につつまれた木造建築が、一分の隙もない比例をなして組み合って、格調きわめて高く聳えている。「自分の美しさを世間に知ってもらおうとは思いません」といいたげである。幸いにも、ここはまだ観光地ではないから、周囲の調和を乱すものは何もない。昔のままである。この土地の人々すら、通称大庭大宮といっていて、神魂神社といっては通じにくい。大庭とは昔の政庁の意味で、かつてここはこの地方の政治の中心地だった。

 この神社の美しさは、直接に目で見て感じる他はないだろう。...いまこの神社からは、潜勢する精気のようなものが発散しているのだが、写真はそれを捉えることはできないだろう。...文章もこの直接の感じを再現することはできない。

 この比例のうつくしい建物は、さらに一面に銀鼠の錆につつまれている。はじめは何か塗料がぬってあるのかと思ったほどだった。本殿の屋根はきれいに掃いたようだが、拝殿の屋根の上には杉の葉がたくさん落ちている。錆ーパチナとは、物と空間を結びつける媒介物だが、屋根には青を主とし、木材には白を主としたむらむらが、えもいわれない。「神錆び」という言葉があったような気がするが、もしなければ、そういう新語をつくって、ここにあてはめたい。
 静かで、清らかで、素朴で、自然で、しかもいかなる無駄もなく一分の隙もなくひきしまって鋭く、霊気をこめて、神魂神社は日本人の美しさの最高のものの一つだと思う。言葉の醇乎たる意味において古典的である。...カモスというのは神イマスあるいは神ムスビがなまったものだろう。...現存の大社造の神社では神魂がいちばん古い。そしていちばん美しい。...神魂はおそらくもっとも始原のものに近いだろう。

 竹山の文章に誘われて出雲へ行った人もいるだろう。行ってはぐらかされたような気持ちになった人もまたいるだろう。だが神魂神社から八重垣神社のあたりは連れ立って歩くといかにも気持ちがいい。伊邪那岐・伊邪那美命が男女の道を学ばれたのは鶺鴒からだという伝説があるが、大庭で鶺鴒の番(つがい)が私たちの目の前の小道をよぎるのを見たときは、神話世界にはいりこむような気がして私たちは思わず顔を見あわせた。

2026年6月14日日曜日

20260614 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.16-19より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.16-19より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

言語とその表記
 日本語と中国語とは、系統を異にする言語で、その音体系も、語彙も、文法(語順、助辞、用語の語尾変化など)も、全くちがう。それにも拘らず、大陸文化との接触がおこったとき、日本語には表記の手段がなかったから、すでに高度に発達していた中国の文字が日本語の表記に用いられるようになった(中国の文字による日本語表記の現存する最古の例は、五世紀にさかのぼる)。中国の文字(漢字)は、表意文字で、一字が単音綴の一語を代表するから、その文字によって日本語を表記するためには、特別の工夫が必要である。すなわち一字の意を採って音を捨てる(相当する日本語の音をあてる)方法と、一字の音を採って意を捨てる(本来の表意文字を表音文字として使う)方法とがあって、その双方が併用された。後者の場合に、採用された中国音は、『古事記』および『万葉集』の例では、五、六世紀の中国南方の発音であり、『日本書紀』の例では、七世紀の北方音である。表音文字としての漢字=真名が簡略化されて、仮名がつくられ、頻に用いられるようになったのは、九世紀であった。その意味で平安朝前期は、日本語の表記法に関し、全く画期的な時代である。
 日本語の表記に漢字を用いた日本人は、また中国語の詩文を、日本風に読む方法も工夫した。返点によって語順を変え、送仮名によって日本語に固有な助辞や語尾変化をつけ加えたのである(訓読の漢詩、漢文)。この独特の中国文翻訳法に慣れた日本人は、みずから中国語の詩文を作るようになった。 
 少なくとも七世紀以後一九世紀まで、日本文学の言語には二つがあった。日本語の文学と中国語の詩文である。たとえば『万葉集』と『懐風藻』、『古今集』と『文華秀麗集』。ここで日本人の感情生活が、外国語の詩作ではなく、母国語の歌に、はるかに豊かに、はるかに微妙にあらわれていたことは、いうまでもない。しかし散文では、そのときすでに、事情がちがっていた。たとえば『歌経標式』は、詩歌の理論を語って、『文鏡秘府論』の理路整然たるのに及ばない。また時代が下れば、詩歌においてさえも、中国語による表現の意味は重きを加えた。たとえば室町時代の抒情的世界は、連歌のみによって代表されるのではなく、また同時に五山の詩僧の作品によっても代表される。『菟玖波集』と『狂雲集』と、いずれに一時代の詩的精神がみなぎっていたのか、にわかにこれを決し難い。いわんや徳川時代についてはなおさらである。このような事情は、中世の欧州文学におけるラテン語の併用を思わせるだろう。しかし彼我の大きなちがいは、ラテン語と欧州諸語(若干の例外を除いて)とが、中国語と日本語の場合ほど言語学的に隔っていなかったということである。またおそらくそのことに関連して、文芸復興期以後、ラテン語の文学は次第に近代欧州語の文学のなかに吸収されていったが、日本では文学の二カ国語併用が明治時代までつづいたということである。
 二カ国語併用の歴史は、当然、漢文脈とその語彙の日本語文への影響を生み、また逆に日本語の影響をうけた日本人独特の漢文を生んだ。前者の例は、すでに『今昔物語』にみられるし、後者の例は『明月記』にもみられる。殊に日本文のなかに、漢文の影響の強い文体と、口語にちかく漢文の影響の少ない文体とを生じたことは、日本語文学の表現力の拡大に測り知ることのできない貢献をしたといえる。明治以後の日本社会が西洋の概念を輸入する必要に迫られたときに、長い間に日本語のなかに吸収消化されていた漢語が、どれほど大きな役割を果たしたかは、今さらいうまでもないだろう。近代の日本は、漢字の組合せによる新造語で、ほとんどすべての西洋語を訳し了せたという点で、西洋語をそのまま採り入れることを余儀なくされた他の多くの非西洋文化と、著しい対照をなしている。そのことは、おそらく決定的に、この国のいわゆる「近代化」に役立った。しかし他方では、新造語の氾濫によって、日本語の伝統的な味わいを損い、そのために文学、殊に詩作に、複雑で困難な問題を提出することになったのである。

20260613 株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「歴史的意識について」 pp.14‐26より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「歴史的意識について」
pp.14‐26より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 406158622X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061586222

 月日がすぎてゆくにつれて、「昭和の動乱」はあの前後十余年間の個々の現象だけをとりあげていたのでは、真相は分らない、と思うようになった。
 あれが何であったかを説明するために、ひろく読まれた『昭和史』は「天皇制ファシズム」という仮説を設けた。また東京裁判は「全面的共同謀議」という仮説を設けた。そして、この枠に合致させるべく材料が取捨按配された。
 しかし、「天皇制ファシズム」にせよ「全面的共同謀議」にせよ、そんなものはどちらもなかったのである。
 争闘とか戦争とかいうものは、そのいちばん根本をたずねてゆけば、結局は生物としての人間の本然に由来するので、歴史上どこでもつねに絶えることなく、まことに人の世は修羅道であるという感に堪えない。が、今はそこまでは遡らず、「昭和の動乱」に限っても、もっと全体の位置と形勢を考えなくてはならないと思う。ここではもとよりそのごく輪郭だけを。ー
 日本は無資源で、貧しく、人口過剰だった。あの動乱がはじまる前に、オーストラリアの新聞に「日本は増加する人口の圧力で蒸気機関が内から破裂しはしないか」と論ぜられているとて、問題になったことがあった。教育程度は高かったけれども、資本と近代技術がなかった。すでに大植民地をもって世界中を支配して富強だった先進国とちがって、後発国で、土台が弱くて余裕がなく、選択肢がせまかった。しかも、五大国の一であると自己過信をしていた。
 あのころ世界はずっと弱肉強食の帝国主義だった。それはまだ不道徳と感じられてはいなかった。イギリスがその先達で、あれが文明の絶頂であると信ぜられ、他国はイギリスとどのくらい距離があるかをもって文明度の順位がはかられた。
 日本はせっせとそのあとを追って真似をした。イギリスはビクトリア女王の治世だけで六十度も戦争したそうで、すでにアフリカからインドから南太平洋を領有していながら、さらにシナを蚕食しはじめた。フランスはおなじくアフリカから仏領インドシナからもっと東を、オランダはインドネシアを、領有していた。かれらの植民地化の領土拡張は、生きるためのやむをえぬ進出ではなくて、むしろ一種の使命感の満足であり、ほとんど道楽のようなものだった。自分たちが世界を支配するのが天然自然の理であると疑わなかった。その偉大と栄光をかがやかしめることがむしろ道徳だった。戦前にシナ各地の各国の租界を見た者は、日本がその間にわりこもうとしたことが、あの当時の規準にてらしてとくに貪欲だったとは考えまい。日本は人並み外れだったのではなく、むしろ人並みになろうとしていたのだった。近代化するとは富国強兵の帝国主義化することだった。それに対する、ナショナリズムに目醒めたシナ人の怨恨は十分に分ることだが。
 やがて世界規模の経済危機がはじまった。英連邦は、持てる領域をブロック化した。他国もこれをはじめた。あの富んだアメリカにさえ失業者が溢れたのだから、貧しい日本ははなはだ苦しんだ。満州事変は満州駐屯の関東軍の陰謀だったのではあったが、国民は「軍に感謝をして」、ここに日本も自分のための経済ブロックをうちたてようとした。内外からの圧力が加わって弱いところに破れでたのだった。
 世界経済危機は一九二九年からはじまったが、共産主義の脅威はそれよりもっと前からだった。これも世界各国に大インパクトをあたえた。それには内憂と外患とあった。内憂は内から掘り崩されることだったし、外患は五ヵ年計画による全体主義の圧迫だった。これに対抗するために、ソ連に隣接するほとんどすべての国、接していなくてもスペインや南米諸国などが反動化し、イギリスにもモズレー、フランスにもラ・ロック、アメリカにもカフリンなどのファシストが輩出した。
 日本もこの問題に直面した。国内は思想問題で大動揺をした。関東軍はあの勢力に隣接して睨みあって、互いに権謀をたたかわしていた。軍は全体主義に対抗するためには、こちらも乏しい力を結集して総力戦時代にそなえなくてはならぬと痛感した。失業者はあふれ、農村は疲弊し、工場の争議も小作争議もあいついだ。思想界はほとんどマルキシズムによって占められた。
 後発国がむりにむりを重ねた。もしそれをしなければ、アジア諸国のように他国の支配に従属しなければなかった。ーこれらのことは「昭和の動乱」のはなはだ重大な背景であり、これを抜きにして考えることはできない。
 日本は真空の中にいたのではなかった。このような状況の中をあがいて、歴史は右往し左往してすすんでいった。
 国の内外の錯綜した危機にあたってそれに対処すべき日本の主体は、たまたま議会民主主義だった。これが未熟だった。議会民主主義とは豊かな余裕のある国で平時にのみ機能しうる一種の贅沢品なのかもしれない。西園寺公の近代化設計は時期がすこし早すぎたのかもしれない。公自身も晩年に「やはり国は、その国民以上のものにはなれぬものか」と嘆息している。(スイスのような特別な国は別として、危機にあたって議会民主主義がうまくいっていたところがあっただろうか?ワイマール憲法下のドイツはもとより、チェンバレンのイギリスもダラジエのフランスもみな失敗した)。日本では、政争苛烈で汚職があいつぎ、ジャーナリズムが放肆で暗殺が頻発した。
 経験に富み思慮のふかい人々が、外には戦争を防ぎ内には革命を防ぐべく努力をしていた。もしこの人々が奉ずるイデオロギーが権威をもちつづけることができたら、国はあるいはスペインとはちがった形で中立を保って、大戦の惨禍から免れる可能性もあったと思われるが、その人々は当時の世界に伝染した傾向的集合表象(別出)に憑かれた若い将校たちによって殺されてしまった。
 歴史の中では、同じ状況が二度くりかえすということはない。「昭和の動乱」はあの状況の中でおこったことであり、種々さまざまな原因が絡みあってついにあの破局に達したのであって、歴史上にただ一回の事実だった。

いくつかの疑問
 私は日本無罪論を唱えるつもりはないけれども、裁判には異様な無理があったことを感ぜずにはいられない。それについてのいくつかの疑問を記す。大部分は、東京裁判判決書の冒頭の管轄権の部分に関することである。
 といっても、私は国際法といったようなことについてはまったく無知なので、さだめし誤りもあるだろうけれども、いまは一普通人の疑念を記して、蒙をひらいてほしいと願うのである。
 『月曜評論』誌に、富士信夫氏が東京裁判傍聴記を連載していられる。すでに四十一回に及んでいる。裁判の過程をくわしく報じて論評したもので、これが完結したらこの問題についての認識が大いに深まるものと思う。

疑問その一、事後法
 法の不遡及ということについては、日本側の主張に対して、「その問題は後回しにする」と留保したまま、ついに答えはなかった。これでは裁判の成立自体の根拠があやしい。もしこの点についての結着がつかないままでいるならば、たとえ日本が東京裁判を全面的に否定しても、論理的にはその否定がなりたつことであろう。
 キーナン検事の冒頭陳述は、感情的な道徳論といったような傾向がつよい。これに対して、 清瀬弁護人の管轄権論争は法理論としてははるかに理が通っているように思われるが、どういうものであろうか。裁判全体が戦後心理に支配されて感情にかられている。
 私が知ったオランダのローリング判事はこういう主張だった。ー法の不遡及ということは法廷の恣意をふせぐための市民的慧知であり、未来の戦争をなくするという現在の大課題の前には二次的なものである。ふたたび戦争が起こらないようにするためには、あらゆる方法をとらなくてはならない。ー
 ローリング氏の言うことだけれども、この説には首を傾げた。この「今後の戦争をふせぐため」の教育手段としての懲罰ということは、キーナンもしきりに唱えている。
 しかし、もし勝利者が新しい法をつくって敗者を裁くということになれば、それは勝者の正義ー勝てば官軍ということになるだろう。戦犯であるかどうかは勝った者がきめるという恣意になる。もしヒットラーが勝ったら、チャーチルやルーズベルトが犯罪人ということになっただろう。
 現に、チャーチルの回想録には、イギリス戦時内閣が成立したときのことを記して、 ーこれで、万一敗戦の場合にはロンドン塔で斬首される者の顔触れがそろった、とある。
 ローリングさんは尊敬すべき人格者で私は大好きな人柄だが、話していてときどき、ふしぎに空想的な言葉を洩らすことがあった。(たとえば、もし上官の命令が平和に反するものであると考えたときには、文武を問わず、下僚はそれに不服従の義務がある、という法を制定すべきだ、というごとき)。この人は、国連の何とか平和委員会の長だったので、今はその後任を坂本義和氏がついでいる。
 戦後十年たって、オランダのフローニンゲンに同氏を訪ねたら、感慨をこめて言っていた。「東京裁判はあやまりだった。今だったらインド人のパルのように考えるだろう。通常戦犯は罰せられるが、政策樹立者たちを犯罪に問うべきではなかった。あの頃には、ルーズベルトのような思想がゆきわたっていて、ソ連と協力しようという空気だった」。
 右のソ連との協力ということを根拠づけるものに、一九四三年十月に発表された米英ソ三国のモスクワ会談の共同コミュニケがある。ーそれは「三国政府は、それぞれ自国の国家的利益とすべての平和愛好国の利益のために戦争遂行に対して設定された、今日の密接な協力を、軍事行動の終った後にも継続することを重要であるとし、かような方法によってのみ、平和を維持し、各国の政治・経済・社会的福利の完全な発達を成就しうるということに一致した」というのである。
 このソ連との協力を果して新しい世界秩序をうちたてるべく、事後法によって日本を罰した。
 このことはそれまでの歴史の経験から生れていた。第一次大戦後には、少数民族の自決によって世界平和を樹立しようとしたが失敗した。この経験から、第二次大戦の末期に南阿のスマッツ将軍が「世界の平和を保つためには力をもった大国が抑える他にはない」と演説したことは、当時の日本の新聞でも読んだ記憶がある。東京裁判は大国の共同制覇によって世界平和を維持しようという気運から生れたものだったが、結局はこれはフィクションだった。現実には、もうすでにこの頃に米ソの確執がはじまっていた。モロトフの「永遠のニエット」がすべてをだめにしてしまっていた。
 事後法の問題は裁判の成立を疑わせるが、さらにまた裁判は、全面的共同謀議があったという前提の上になりたっている。しかし実際にはそんなものはなかった。これもやはり裁判の成立を疑わせるものではないかと思うが、これについては後に考えたい。

疑問その二、一般的な正義の原則とは
 判決文には、東京裁判はニュルンベルク裁判の原則をそのまま踏襲した、とある。ここにさまざまな無理が生れた一因があったと思われる。
 判決文が引用しているところによると、そのニュルンベルク裁判の意見は次のようである。ー「法なければ正義なし」という法律格言は・・・一般的な正義の原則である。条約や誓約を無視して、警告なしに、隣国を攻撃した者を処罰するのは不当であると主張することは、明らかに間違っている。なぜなら、このような事情のもとでは、攻撃者は自分が不法なことをしていることを知っているはずであり、従って、かれらを処罰することは、不当であるどころではなく、もしかれの不法行為が罰されないですまされるならば、それこそ不当である。
 そして、本(東京)裁判所は、ニュルンベルク裁判所の意見であって本件に関連のあるものには、無条件の賛意を表するものであるー。
 このように判決文は、東京裁判は一般的な正義の原則によって裁いた、と言っている。これは重大である。
 もし一般的な正義の原則を基準として謝るならば、古今 に無罪の国は一つもあるまい。
 普遍道徳は、ある特定の時期や特定の事情によって別なものになることはない。一九二八年のケロッグ・ブリアン協商の不戦条約以前に行われた侵略とそれ以後に行われた同性質のそれとが、一方は是認されるが他方は否認されるということはない。かつて英仏蘭などの先進国が、力と権略によって侵略して大植民地を獲得して搾恥したことと日本が行った侵略とが、差別されるはずはない。神の目からみれば、一般的正義の原則はどちらにも等しかるべきものである。アヘン戦争その他無数のことをやったイギリス(アヘン戦争は自由貿易の原則の名において行われ、当時は自国の商品を買わない国があると砲艦をおくっておどかした)が、いかなる一般的な正義の原則によって日本を裁くのか?
 一九二八年当時には先進国は大特権を擁していた。この現状を変更するをゆるさぬということは、たしかに平和の維持ではあったが、また現状を固定するのが正義であるということはたいへん好都合なことでもあった。近代戦争の惨害がはなはだしいから、平和が唯一の正義となったのだったが、この正義は同時に不正義でもあった。それは先発国の利益を固定して、後発国を窒息させる大義名分ともなった。戦時中の西田、和辻の諸賢哲の肯定論は、みなこの観点に立っている。
 またカイロ宣言にも、「三国の目的は、日本国より一九一四年の第一次大戦の開始以後に於て、日本国が奪恥しまた占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剝奪すること・・・」とあるが、どういうわけで一九一四年以後という区切りがつけられたのだろう。奪取占領は、それまでにご自分がさかんにやっていたのだが。
 遺憾きわまることであるが、平和かならずしも正しくはなく、戦争かならずしも不正ではない。不利な国はいかに働いても窒息するばかりという平和は正しくはないし、日清や日露は不正ではなかった。スターリンの大祖国戦争も。
 一般的な正義の原則が事後法をつくるということは、筋が通らないだろう。
 ヒットラーが行ったような天人共に許さざるような所業も、じつは国際法で裁くことはできないものではないかと疑う。ナチスを裁いたのは結局は勝者の力であった。勝者の力が「一般的正義の原則」を適用したのだった。勝たなければ裁けなかった。勝敗にかかわらず罰しうる国際法なるものは存在しない。ヒットラーの所業は、われわれの正義感からいえば、極秘に処してもなおあきたらないものであるが、しかしそれを裁く者は結局は力しかない。ーこれはこの創造世界の中の解きえざる謎の一つである。

2026年6月10日水曜日

20260610 筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」 pp.42-44より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」
pp.42-44より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480077359
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480077356

宮台 ええ。ヴェーバーの系列から外れますが、戦間期にプラグマティズムというアメリカの思想潮流が復活します。初期ギリシアに関連するので触れます。ニーチェの40年前にアメリカ超越哲学の鼻祖とされるラルフ・ワルド・エマソンが「力の受け渡し」の思想を展開、ニーチェに大きな影響を与えます。エマソンは「内なる光」と表現しますが、知識ならぬ動機付けの伝達のことで、宮台語で言えば、意味より強度の伝達(感染)が大切だとしたのです。
 牧師エマソンは、宗教の説教も学校の教育も、知識より動機付けの、認識より関心の、 真実より力の、伝達が大切だとし、哲学的・神学的な物言いをやめて日記を書きます。それを受けた戦間期のデューイは『経験と教育』で、動機付けに役立つ体験の配列が教育だとします。1990年代のローティは、壇上から真実らしきことを語って人から力を奪うのが昨今のリベラルだとし、「エマソン日記」のごとく私的な体験に照準した語り口を重 視します。 どんな語り口かというと、アイロニーです。コメディ研究の定説に従えば、アイロニー は、全体を部分に、超越を内在に、聖を俗に対応付けで脱臼する(ここで笑いを誘う)営みです。
ローティはこれを自己脱臼の意味で使います。真実らしき語りをした後「知らんけど」「たまたま聴いた 」「たまたま聴いただけや」と偶然性を持ち出し、自己を脱主体化する営みです。 かくて、偶然を持ち出し、アイロニー化することで、マウンティングされたという体験を回避して連帯する。初期作『偶然性・アイロニー・連帯』(1989年)を一言でまとめた骨子です。 
 関連して、言語を方向づける言外の働きに注目したのが、アムネスティ・レクチャーズ のひとつ「人権について」(1993年)。学者は専ら「人権とは何か」を論じるがクダラナイ。人に適用されるのが人権だが、誰が人かを支える生活形式をスルーしている。1964年の公民権法まで女も黒人も一人前の人と見做されなかった。女も黒人も人だと見做 せるようになるには、幼少期から異カテゴリーに属する子らと混ざり合って仲間になる遊 びが必要だと。 
 だから多様性でも、法的権利重視のサラダボウル(ゾーニング)より、成育環境や生活形式重視のメルティングポッド(フュージョン)を賞揚します。かくして、育ち上がりの 過程でどんな言語ゲームが自明になったのかが重要だとし、自らの哲学的源泉としてプラグマティストら以外にニーチェとハイデガーとヴィトゲンシュタインを挙げたのです。そして育ち上がりの環境の劣化を補うのが、文芸作品を通じた感情教育 sentimental educationだとします。感情 sentimentという言葉は、哺乳類や鳥類にも見られる情動 emotionと区別したもの。後述しますが、感情は自己防衛に、情動は生体防衛に、関係します。
 メルティングポッドの生活体験も、そんな生活を描く文芸の享受体験も、言語の使用を支える言外の前提ー宮台語の「言語の言語以前的前提」ーを築く感情教育です。感情教育が不完全な人々ー宮台語の「育ちが悪い人々」ーがリベラルを担う時、製造業から知財業への産業構造改革を背景に、差別解消のアイデンティティ・ポリティクスに淫す る劣化左翼から、見放された製造業労働者が、「俺が見てやる」と言う独裁者を誕生させ ると予測します。
 プラグマティストのローティを挟むと思想史が見易くなります。プラグマティストを一言で言えば「言語の言語以前的前提」に敏感な人。「言語の言語以前的前提」に鈍感な「育ちの悪い人」は。民主政の民主政以前的前提(ルソー)にも、市場の市場以前的前提(スミス)にも鈍感化し、良さげな「名目」に釣られ、市場経済と行政官僚制を通した、富裕層の集金システムに巻き取られます。詳しくは後述しますが、それを見通すには、今まで話した思想史の教養が必要なのです。

20260609 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.144-147より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.144-147より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

 日本仏教は、九世紀前半に、真言僧空海の著作において、その知的水準の(しかし必ずしも宗教的独創性の、ではない)絶頂に達した。しかしそのシナ語の著作の読者は限られ、その内容に土着思想の反映をみること甚だ少ない。空海の宗教活動(鎮護国家、祈雨、総じて真言宗寺院と宮廷権力とのむすびつき)は仏教の「日本化」の一時期を画し、空海の哲学思想は、仏教の「日本化」の拒否、その彼岸性の徹底、土着世界観の克服という点で、画期的であった。
 時代の知識人が大衆と共有したであろうところの土着世界観は、九世紀の仏教受容とどう係りあっていたか。その係りあいを実に見事に語っているのは、薬師寺の僧景戒の作った『日本霊異記』(九世紀初)である。作者の伝記は全く不明。文はいわゆる「変体漢文」である。すなわち訓読を前提とした漢文で、そのために語順が日本語に従いシナ語に従わぬところがある(たとえば「狐為妻令生子縁第二」と書き、「狐を妻として子を生ましむる縁第二」と読む。原文をシナ語として読めないことはあきらかである)。内容は、『日本霊異記』の正式の表題『日本国現報善悪霊異記』が示すとおり、また編者景戒の序文がいうとおり、中国での先例に倣い、日本国での因果応報(現報善悪)の不思議な話(霊異)を、上・中・下三巻にあつめて記したものである。話の源は、地方の伝承説話を含むと共に、また中国の文献、殊に序文が明示している『冥報記』(唐・唐臨の撰、七世紀中葉)と「金剛般若経集験記」(唐の孟献忠の撰、七一八)である(後者は話を多く前者に採る)。ただし「日本霊異記」の一一六話すのなかで、確かに「冥報記」に由来すると思われるのは九例にすぎない。中国種はおよそ全体の一割ということになる。
 景戒は『日本霊異記』を誰のために編んだか。「変体漢文」を読み得る人口は少なかったにちがいないから、大衆の読者を期待したはずはない。しかし僧侶の自家用としては、話と仏教との関係が「因果応報」に限られていて、単純にすぎる。仏教哲学の核心にふれた話はどこにもなく、話の内容は大衆教化の方便としか考えられない。したがっておそらく、僧侶の大衆向け説法の、参考資料、または素材として編まれたのだろうと思う。景戒自身が喋った話の備忘録が原型であったかもしれない。直接の読者は僧侶、しかし内容は僧侶のためではなく大衆的な聴衆のためのものであった、ということができるとすれば、『日本霊異記』は編者のみならず、その聴衆の好みやものの考え方をある程度まで反映していたろうと想像される。
 話の短いものは、原文一〇〇字に足りず、長くても数十ページにわたることはない。話のすじ立ては簡単なものが多い。内容は直接に僧侶や経典の功徳に係り、悪業の結果の不幸を語るものなどもあるが、またほとんど因果応報に関せず、ただ最後の数行に仏教的解釈を施したものも少なくない。たとえば二人の力の強い女の話(中巻、第四)。力の強い女が、三野の国にいて、往還に商人を襲い、盗みを業としていた。もう一人の小柄だが、力の強い女が、力くらべに出かけて、相手方が打とうとして起ち上ったとき、「二つの手を持ちへ、熊葛の鞭以て一遍打つ。打つ鞭に肉着く。亦一つの鞭を取りて一遍打つ。打つ鞭に肉着く。十段の鞭打つに随ひて皆肉着く」。そこで最初の女が降参し、それ以後、人の物を盗らなくなったので、土地の人々はよろこんだ。ーそういう話があって、その後に、「夫れ力人は、もち継ぎて世に絶え不。誠に知る、先の世に大力の因を殖ゑて、今此の力を得たることを」という解釈がある。すなわち話の内容と解釈との関係は、密接でない。おそらく力女の話が、地方民間の伝承としてあり、話そのものは仏教と全く関係がなかったのであろう。景戒はその話を聞き、牽強附会の解釈を加えて、仏教説話にしたてたにちがいない。『日本霊異記』に実にしばしばあらわれる話の内容と仏教的解釈との著しいくいちがいは、地方民間の伝承の多くが仏教と何の関係もなかったことを、示している。そこには多くの珍しい話(奇事)があった。そして珍しい話の因果論的説明はなかった。民衆が信じていたのは、力女の現在であって、「大力の因」の「先の世」ではあるまい。しかもそれだけではない。
 景戒自身の筆が活気を帯び、叙述に迫力が加わるのは、解釈よりも、話のすじにおいてであり、話のすじよりもその細部の描写においてである。解釈は、いつの時代にも力人がいるのは、因果の理による、ということである。話のすじは、特定の時代に二人の力女がいて一方が他方に勝ったということである。(この話のすじは、「いつの時代にも力人がいる」ことの例証としては、甚だ不十分である)。話の細部は、打ちおろす鞭に相手の肉が着いて来るという具体的で感覚的な光景である(その細部は話のすじをあきらかにするために全く必要でない)。『日本霊異記』の独特の魅力は、解釈でも、話のすじでもなく、話の細部の簡潔で、的確で、生々しい描写による。今景戒自身が、意識的には解釈を重んじていたとして、ー現に彼自身の序文はそういっているー、いわば無意識的に、話の細部の描写において、その著作が光彩を放つことに到ったのは、なぜだろうか。可能な説明の一つは、彼が『日本霊異記』を書き下すまえに、同じ様な話を聴衆に語って聞かせていたからであり、どういう語り口が聴衆の好みに合うかを心得ていたから、ということである。しかし彼自身のなかに、あらかじめ抽象的観念を操作すること(仏教哲学)や、彼岸思想に深入りすること(仏教の超越性)よりも、現世の感覚的世界の細部に対する関心(土着世界観の特質)がなかったとすれば、これほど鮮かに聴衆の要求に応えることはできなかったろう。すなわち聴衆との直接の接触があったとして、そのことが、『日本霊異記』の作者を作ったのではなく、作者のなかに潜在した大衆的世界を、いわば当人の意に反しても、顕在化させたのである。

2026年6月8日月曜日

20260608 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp22‐26より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp22‐26より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

歴史の中の紀州人たち
 このあいだ、ひさしぶりで司馬遼太郎氏にお目にかかった。和歌山城の見えるレストランで一時間ほどお話を伺う機会があった。そのとき、ヘミングウェイの話が出た。
「かれは、紀州へ来たかったのですよ」
 逞しい漁夫サンチャゴと、鮫の群れのあいだでくりひろげられる海のたたかいを、名作『老人と海』に描きあげたヘミングウェイは、黒潮の紀州の海に、生涯、あこがれに似た思いを抱きつづけていたという。
「勇敢な紀州の漁夫と、すばらしい紀州漁法に魅かれていたのでしょうな」
 その、ヘミングウェイの心を掻きたてた紀州漁法が発達したのは、戦国末期から近世初頭にかけての時代であった。おりから、城下町など諸国都市の拡大と農業生産の発展を誘因した漁獲物(食糧魚や魚肥)の社会的需要が急激に増大する。
 この時期、諸国の漁民に先がけて、すでに高度な各種の漁業技術を掴んでいた紀州漁夫たちは、東は相模、房総、常陸から東北へ。西は四国、瀬戸内、中国、九州、五島列島にいたるまで魚をもとめて旅漁に出かけていった。この先進的な漁夫たちの足跡は、いまも諸国の浦々に色濃く残されている。
 慶長11年(1606)、従来の銛突捕鯨から網取漁法を考案し、その捕鯨法を秘法とせず吝ます、われから出向いていって土佐津呂組の漁民に伝え、長門、九州五島の人びとに授けひろげ、熊野太地鯨方の名を天下に鳴りひびかせた和田一族の人びと・・・また、戦国末期の弘治年間(1555~1558)、のちに近世最大の干鰯生産地帯になる九十九里浜に鰯地引網漁法を伝えた紀州の西宮久助。寛永のころ(1624~1644)、銚子(千葉県)に近い外川を開発し八つ手網鰯漁法を伝えた有田、広村の崎山次郎右衛門。元和年間(1615~1624)、土佐国に赴き鰹釣漁法の祖となった印南浦の漁夫甚太郎。そしてその子の、土佐に鰹節の燻乾、製法技術を伝えた”土佐節の始祖”二代目甚太郎。天明年間(1781~1789)安房国に移住し、改良した鰹節技術で、”安房節”を完成させた同じ印南浦の与市。これらの人びとのほかにも、加太の大甫七重郎、栖原の角兵衛、下津の七兵衛・市郎兵衛など、東国の海べりの各地で網漁を興した男たちは多い。そして、かれらのその進出ぶりは、
⦅房総の間に在りて漁業の旧家と称するものは、おおむね紀州より来りてその業を拓きたるにあらざるはなく・・・(『房総捕鯨志』)⦆
⦅紀州の漁人来りて業をなすもの陸続として絶へざる(『房総水産図誌』)⦆
 と、特記されるほどであった。
 関東への産業開発の進出といえば、日本が年間一人あたり5升(9リットル)消費するという「醤油」もその一つであろう。鎌倉の頃、三代将軍源実朝の菩提をとむらうために建てられた紀伊国由良、興国寺の開山、法燈国師覚心は、さまざまなものを日本人にもたらした。径山寺味噌と醤油と尺八(洞簫)と普化宗である。かれが宋(中国)の浙江省、径山興聖禅寺の典座寮(台所)でまなんだ味噌醸造の過程で発見した醤油が、文暦元年(1234)、となり村の湯浅に伝えられ醸造され、以来、この湯浅醤油が日本の味を代表する”醤油”の起源となり、その製法は全国に撒き拡げられ伝播していく。有田、広村から大消費地の江戸にちかい銚子で醤油をつくりはじめた浜口儀兵衛 (ヤマサ醤油の祖・現在十一代目)、浜口吉右衛門(ヒゲタ醤油の祖)、それにおなじ村の岩崎重二郎、古田荘右衛門らも銚子で醤油醸造をはじめ、やがて銚子は湯浅醤油をしのいで日本の醤油醸造のメッカとなる。
 紀州人の東進は、漁法や醤油だけではなかった。海の国道一号線ともいうべき熊野灘、遠州灘を越えて、紀伊国屋文左衛門の蜜柑船よりも早く、寛永11年(1634)、有田蜜柑を積んだ滝河原村の藤兵衛(通称蜜柑藤兵衛)の船が、江戸に向かっているし、当時の江戸ー大坂間の定期輸送船となった菱垣船(元和5年・1619)も、紀伊富田浦の250石船が、そのはじまりである。
 ーこうして、歴史のなかに紀州発祥の数かずを眺めてみると、その数は意外に多い。紀州漁法、鰹節、醤油、尺八、虚無僧。南海の孤島の種子島から根来寺にもたらされた鉄砲。幕末維新すでにミルクを飲み、靴を履き、日本徴兵制の前身となった国民皆兵の大日本共和軍隊。西洋靴伝習所(製靴工場)。そして”明治維新の新政府の原型”になったと西郷隆盛を驚嘆させた官(藩)制の改革、郡県制度の確立・・・と、紀州人が日本史に与えた影響は大きい。鰹節にしても醤油にしても、紀州人がなかったら日本の味は・・・食文化は・・・もっとちがったかたちのものになっていたかもしれない。
 が、世に先がけて発見し、苦難の果てに開発したそれらの殆どは、紀州で花ひらいてはいない。その卓越した技術を紀州人は秘しておくことをしなかった。頼まれれば諸国各地に伝え拡げに出向いている。そのため、かれらが辛苦して咲かせた大輪の花も、実も、すべて他国の土に根付き、そのお株をうばわれてしまっているのである。鉄砲にしてもそうだ。その出現によって戦国の潮流を変え、大きな戦術革命をもたらしたこの最新火器でさえ紀州人は、
〈杉ノ坊、仁王房ナドト云フ者、関東二下リテ鉄砲ヲ教ヘシガ・・・〉
 という有様であった。そして皮肉なことに根来寺は、この自分たちが気前よく教え拡めた鉄砲のために、歴史の塵のなかに滅び去っていくのである。こういう、一種、陽気な紀州人気質というのは、進取とか磊落とだけでは片付けられない、なにかがある。それはおそらく、当時の秘伝、口伝などと技術を隠蔽することを好んだ諸国の人びとの理解を超えた奇妙な気風であったにちがいない。

20260608 株式会社角川書店刊 横溝正史著「獄門島」 pp.36‐39より抜粋

株式会社角川書店刊 横溝正史著「獄門島」
pp.36‐39より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4041304032
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4041304037 

 話題がやっと鬼頭家へめぐってきたので、耕助はいくらか緊張したが、しかし、口先だけは相変わらず軽かった。 
 「その嘉右衛門さんというのは、千万太君のお父さんかね」 
 「なに、祖父さんでさ。去年78で死にましたが、元気なものでしたね。体は小さかったが、肝ったまの大きな人で、いい旦那でしたよ。島では太閤さんといっていて、なかなか死にそうにはなかったが、やっぱり戦に負けたンがこたえたんですかね。ポックリ往生しましたよ」 
 「それじゃ終戦後亡くなったんだね。それで千万太君の両親というのはどうしたんだね」  耕助のもっとも疑問とするところはそこだった。このあいだ、千万太の死を知らせにいったとき、座敷へ現われたのは月代、雪枝、花子という三姉妹と、早苗という娘、ほかに50前後の、みっともない顔をした老婆が御飯のときちょっと顔を出したが、広い屋敷にはそれ以外、男気の感じられなかったのが不思議であった。千光寺の和尚も、 
 「ここに逗留してもろうてもよいのだが、女ばかりの世帯だから・・・・・・」 と、そういって耕助を、自分の寺へつれてかえったのである。
 「千万さんのおふくろさんは、千万さんが生まれると間もなく亡くなったそうですよ。それで後添いをもらったんですが、このひともだいぶまえに亡くなりました」 
 「ああ、それじゃあの三人のお嬢さんは、千万太君とは腹ちがいなんだね」 
 「へえ、そうですよ」
 「それで、千万太君のお父さんは・・・?」
   「与三松の旦那ですかい。ええ、その人はまだ生きていますよ。生きていますが御病気でね。だれのまえへも出ねえんです」 
   「病気?どこが悪いんだね」 
   「どこってその・・・あまり大きな声じゃいえねえが、つまり、その・・・気が狂ってるんですね」 
 耕助は思わず大きく眼をみはった。 
 「気が狂ってる・・・それでどこかへ入院してるのかい」 
 「いえ、入院しちゃいません。あの家にいるんですよ。なんでも座敷牢がこさえてあってその中に入れてあるそうですが、ええ、もう久しいもんです。かれこれ十年にもなりますねえ。あっしなんざ、もう顔も忘れっちまったくらいですからねえ」 
 それを聞いて耕助は、はじめて思い当たるところがあった。このあいだ、鬼頭家の座敷に座っているとき、かれは一度、ただならぬ叫び声を聞いたのである。それはまるで、野獣の咆哮にも似た、あらあらしく、物狂おしい叫び声で、耕助もそれには少なからずどぎもを抜かれたものである。 
 「ふうむ、それでその気ちがいというのは暴れるのかい」 
 「いえ。ふだんはしごくおとなしいンですがね、どうかすると手に負えねえことがあるそうです。ところで妙なもンで、あそこに早苗さんという娘さんがいるでしょう。ありゃ気ちがいさんの姪に当たるんですがね、これが一言二言声をかけると、ケロリと、おさまっちまうんです。それにひきかえ現在のわが子の娘たちが行くと、これがいよいよ手に負えなくなるンだそうですから、困ったもんでさあ」
 「そりゃ・・・しかし、妙だね」 
 「なに、別に妙でもなんでもありませんや。あの三人の娘というのが・・・このほうがかえって妙でさあね。自分のおやじを、まるで動物園の虎かライオンみたいに、おもちゃにしては喜んでるってしろものですからね。気ちがいさんの寝てるところを、格子の外から物差でつついたり、紙礫を投げつけたり、それで三人、きゃっきゃっと喜んでるってえンですから、話を聞いただけでも気味が悪くなりまさあ。どうもあの娘たちは変ですぜ」 
 あの三人の変なことには、耕助もすでに気がついている。兄の死でさえがかれらにとっては、自分たちの髪の格好、帯の結びかたほども気にならないらしかった。和尚がまじめな話をしていても、うつむいてくすくす笑ったり、袖をひっ張ったり、ひじで突っついたり、それで三人が三人ともきれいな娘であるだけに、いっそう不健全で病的で、見ているほうでも気持ちが悪くなるのだった。 
 これはたいへんな娘たちである。と、耕助は思った。ゴーゴンの三姉妹であると耕助は考えた。ゴーゴンとはギリシャ神話に出てくる怪物である。もとは美しい処女であったが、ミネルバと美をきそったがために、姉妹三人頭髪ことごとく蛇となり、鷲の羽と真鍮の爪をもった怪物に化せられた。鬼頭家の三姉妹には、どこかそういう気味の悪い妖怪味が感じられるのだった。

2026年6月7日日曜日

20260607 法政大学出版局刊 高谷重夫著『雨乞習俗の研究』 pp.400‐405より抜粋

法政大学出版局刊 高谷重夫著『雨乞習俗の研究』
pp.400‐405より抜粋
ISBN-10:4588920022
ISBN-13:978-4588920028.

第六章 雨乞儀礼の諸相第一節 雨乞と動物供犠

(一)箕面の滝の祈雨
 大阪府立図書館に『名杖探葦』(曉隣蟻士著、安永七年序)と題する一部の写本がある。著者については知るところがないが、大坂内外に杖を索いて名勝を探った紀行文集である。その中に北摂箕面の滝(大阪府箕面市)について次のような記事がある。
 滝の肩に竜穴あり。その深きこと人是を計るに知れず、土民雨を祈るに白馬の首を切て竜穴を穢すに忽大雨すといへり。
 今から十数年前、箕面市粟生の古老から、昔雨乞に白馬の首を切って箕面の滝に入れたという話を聞いたことがある。しかし、実際にこのような雨乞行事があったものかどうか。これについてなお疑問なきを得なかったが、先年世に出た『箕面全史』の「史料篇六」に載せられた「嘉永六年旱魃記録」を見るに及んで、この雨乞法が実際に行われていたことが明らかになった。その記事を次に紹介してみよう。
 嘉永六年(一八五三)の大旱にこの地方は水不足に苦しみ、六月に十七日には箕面川の瀬掘りをして、わずかに川に残る水を田に入れたが、七月一日には終いに雨乞の相談となった。氏神で神籤を引き妙見山(大阪府豊能郡能勢町)か都の東寺の弘法さまか、どちらに効があるかを伺ったところ、大師と出たので東寺へお火を受けに行き、七月三日より七日の間祈祷に務めたが効がなかった。結願の九日の会合に萱野郷から内々、この節幸いに近辺に葦毛の馬が見つかったという話があり、急ぎ相談の上、牧之庄と萱野郷より入用銀を二つ割で出すこととし、十日には早速この馬を買いに行った。その晩に双方より人足を一人ずつ出し、初夜頃この馬を箕面山上に曳いて上り、高い丘の上で馬を刎ね、胴体ばかり萱野郷の山谷に蹴落として隠しておき、首を雄滝に漬けた。この費用には馬代六両、人足代二両のほか雑費三貫七百文を要した。これほどまでにしたのに何の感応もなく、翌日少し曇っただけであったとある。
 箕面の滝は今でこそ市民の遊楽地であるが、貝原益軒の『有馬温泉之記』に、滝道が危険なので見物を見合せたとあるように、以前は容易に近づきがたい山中の神秘な滝であった。その下にある竜安寺は役行者開基と伝える修験の霊場であったが、『元亨釈書』(卷一五)には行者が夢中にこの滝口より入って竜樹大師に渇したという話を伝え、また『古今著聞集』(巻二)には平等院の僧正行尊が箕面山に三箇月籠っていた時、夢に竜宮に到り如意宝珠を得たという話のあるのも、やはりこの滝に竜宮の入口があると信ぜられていたからであろうか。『摂陽群談』に、箕面の滝に竜穴ありと記し、近世の「竜安寺秘密縁起」(『箕面市史』史料篇六所収)にも「滝頂上有御窟則竜穴也、其竜錦斑長三丈余、動吐黒雲俄隱於白日」とあり、またこの竜穴に雨乞すれば甘雨忽ちに降るともある。すなわちこの滝は竜神の棲む霊地であり、請雨の地であるとされていたのである。このことは『元亭釈書』(巻四)に応和二年(九六二)の旱りに、当時箕面に庵を結んでいた金竜寺の僧千観が、庵の北方の滝において、手に香炉を捧げて祈禱したら、その煙が上って雨となって降ったとあるところからみて、少なくとも中世以来の信仰であったことが明らかである。


(二)武庫川流域の雨乞
 箕面の滝がこのように祈雨の霊地とされていたことから、上述のような異常な雨乞法が伝承されていたものと考えられるが、北摂ではこの他にも同種の雨乞法の行われていた土地が少なくとも二箇所あった。
 そのうちの一つは、箕面の西、兵庫県宝塚市(旧川辺郡小浜村) 川面で最近まで行われていた雨乞である。昭和十四年八月三十一日の『大阪朝日新聞』に「牛の首で雨乞」と題して、次のような記事が掲げられている。この村では雨乞に武庫川の支流惣川の上流に牛の首を投げ入れる風があり、大正十二年にこれをやって雨を得たというが、八月三十日、豊中市の屠殺場より取り寄せた牛の生首と生血をブリキ缶に入れ「雨請 川面村」と書いた幟を立て、半鐘・太鼓を鳴らし、貝を吹く山伏も加わって約二百人が馬淵に行って雨乞をしたとあってその写真も出ている。川面の古老の話によれば、この雨乞は長尾山字檜王山の奥の谷の山の神を怒らせて雨を降らせるのだそうである。村人が檜王山麓の御坊に集り、寺の鐘、村の半鐘で出発、幟を押し立て、鐘・太鼓で武庫川上流の馬滝の谷(上記馬淵と同所か)に行き、そこの机岩の上に牛の首を祭ると牛の生血を一斗ばかり岩の上に流す。それがすむと一行はさらに谷を遡り馬滝に到り、滝壺の前の石に牛の首を据えて帰った。明治の初年頃までは牛三頭を現場まで連れて行ってそこで首を切ったという。またこの雨乞で降り出した雨が七日間も続く大雨となり、流れて来た牛の首を山中に埋めたらやっと止んだという話もある(昭和四八年調査)。
 同じ武庫川の上流の高座岩でも同種の雨乞の行われたことは『有馬郡誌』(上巻、五七三頁)にみえている。その場所は木ノ元村(現西宮市)の少し上で、巨岩が河中に突出し、上が平たくて座敷のような高座岩で「其儀式は動物の血を塗るにあり、然らばその汚れを厭ひ洗ひ去らんがために雨を降らすといふ。その血は名塩ならば純黒色の犬の血を塗り、武庫川辺両郡は純白色の馬の血を塗るを例とす」とある。名塩は旧有馬郡塩瀬村、現在は宝塚市に属するが、『西宮市』(巻二)には『塩渓風土略記』なる書を引いて、安永の頃名塩では生瀬川(武庫川上流)の高座岩で黒犬を殺し、その腹を割いて岩の上に血を流したとしている。
 旧川辺郡稲野村、現在の兵庫県伊丹市の昆陽・池尻・山田・野間・南部・堀池ではユゴウという水利組合を結成していたが、このユゴウが一体となって前記の高座岩で同種の雨乞を行っていたことについては『伊丹市史』(巻六、三二六頁以下)に詳細な記事がある。それによると、この雨乞の行われた最終は明治十六年である。この年の大旱に各村の庄屋が集って相談の結果、この雨乞をすることに決し、村の博労が伊勢から白馬を買って来た。はじめは殺すのがかわいそうだと血を少し採って使ったが、効がないので旧例通りにすることになった。すなわち白馬を殺し、血を一滴残さず桶に取り、首を挟箱に入れ、昆陽寺に詣って読経を頼み、読経の続く中で行列を組む。先頭は白裃姿で雨乞の巻物を持って馬で進む。若者仲間が槍を持ってこれを警固する。しかしこの巻物は本物ではなく、本物は商人姿の二人が一足先に持って出る。次いで若者仲間が馬の首の入った挾箱を担いで行く。この後には各村の代表が続く。
 途中で昆陽池を左廻りに廻ってから武庫川を遡る。生類(西宮市)のコーライ岩(前記の高座岩と同じか)に着くと、まず馬の首を取り出して岩の上に置き、白衣の者が経を読む。終ると首をミソ滝の淵に入れる。担いで来た桶の血は岩一面に塗りつける。本来はここまで白馬を曳いて来て白装束の者が首を切り落す式があったという。この行事がすむと、来た時と同じ行列を作って帰るが、途中昆陽池に寄って右廻りに廻った。この時待望の雨が降り出し、大雨となったそうである。この雨乞は今は絶えているが雨乞の巻物二巻は今も伝わっている。また村では毎年盆の十七日に殺された馬の施餓鬼を昆陽寺でしている。なおコーライ岩の下は竜宮に通じていると伝え、そのためこの岩を血で汚すと乙姫さんが怒って雨を降らせ襷がけで岩を洗うという。池田市の『伊居太神社日記』(『池田市史』史料篇三)の文政三年(一八二〇)七月二十三日の条に、この夜昆陽池の池掛り十二箇村の者十五歳以上が皆池の堤に出て雨乞し、その鐘・太鼓の音が夜明けまで聞えた。その上、馬の首を生瀬の奥の滝に漬けに行ったそうで、その験か大雨が降ったという。噂では馬の首代は七匁二分かかったそうだ、と記している。この記事から、この雨乞が少なくとも十九世紀の初頭以来行われて来たことが明らかである。
 武庫川流域では、さらにこの上流地域でも同種の雨乞が行われていたらしい。すなわち三田市(兵庫県) 下田中では大正十二年の雨乞に牛の首を屠殺場でもらって来て、これをヒトモシ山の上で柴とともに昼から夕方までかけて焼いた。灰は臭いがそのままにしておく。神を怒らせるためという(兵庫県立有馬高等学校歴史クラブ『ほくせつ』六号)。同市青野でも、牛を殺し、その首を山上の堂に持って行き、その血を堂に塗ると、神が汚いのを怒って雨を降らせるという(同上書)。
 兵庫県ではもう一箇所、 飾磨郡夢前町でも昔この雨乞が行われた。すなわち夢前川上流のカメガツボと称する甌穴に牛の生首を投げこむと水神の怒りを買って大雨になるという(『夢前町史』九三八頁)。


(三)近畿各地の例
 上記以外の近畿の例としては、まず大阪府で二箇所、箕面市の牧落・西小路・半町等では平尾(箕面市)の前池に牛の首を入れて雨に祈った話と、豊中市長興寺でも牛の首を切って、その血を神社の境内の岩に塗りつけたという話がある。ともに筆者の古老からの伝聞であるが、詳細は明らかではない。
 和歌山県西牟婁郡北富田村(現白浜町)の庄川に牛尾谷(一名牛鬼谷)という滝がある。滝壺は深く、奥に洞穴があり、主がすむという。昔この主の怒りを買って一万石の材木をこの洞穴に吸いとられた話もある。旱魃には「牛の首漬け」といって、牛の首を切って滝壺の棚の上に置き、藤葛で固く結んで背後を見ずに逃げ帰る。すると滝の主が汚れを流すために雨を降らすという。ただしこれはあらゆる手段を試みた後の最後の雨乞法であった(『郷土研究』一卷七号、吉田美穂『熊野雨乞行事』)。雑賀貞次郎『牟婁口碑集』(九四頁)にも同じ話があるが、牛の首は滝壺に投げ込むとある。
 奈良県では『大和志』の添上郡の条に「投牛山、在田村東、昔屠牛祈雨有応、因名」とある。これは単なる伝説とも考えられるが、以上に述べた事実を背景として考えると、やはり牛を殺して雨を祈る習俗が存したものと思われる。
 滋賀県伊香郡余吾町中之郷の池ノ谷に、雨乞に山伏を頼んで七夜の行をする洞穴がある。昔、下余吾の五平という者の母が牛とともにこの穴に入って人身御供となったら雨が降ったという伝えがある(渡辺守順ほか『近江の伝説』五四頁)。この話をも牛供儀の例証とするのは思い過しであろうか。

2026年6月5日金曜日

20260604 株式会社白水社刊 トム・リース著 高里 ひろ訳「ナポレオンに背いた「黒い将軍」:忘れられた英雄アレックス・デュマ」 pp286-2288より抜粋

株式会社白水社刊 トム・リース著 高里 ひろ訳「ナポレオンに背いた「黒い将軍」:忘れられた英雄アレックス・デュマ」
pp286-2288より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560084262
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560084267

 どんよりと肌寒い十一月十日日曜日の明け方、ナポレオンは五〇〇〇人の軍隊に、五百人会の議員が集まるサン・クルー宮殿のオランジュリーを包囲するように命じた。最初はうまく事が運ばなかった。ナポレオンがオランジュリーに顔を出そうとすると、だまされた議員たちー全員が普段の服の上にゆったりとした赤い礼服をまとい、三色のスカーフを巻いていた―が「独裁者を倒せ!」と叫びだしたのだ。文民政治の経験に乏しいナポレオンは冷静さを失い、「おまえたちは今、一触即発の場にいるのだ!」と叫び返した。彼を非難する声が上がり、ののしりやつばまで浴びせられた。「独裁者を倒せ! 暴君を倒せ!」誰かがナポレオンの襟をつかみ、彼の体を揺すった。ボナパルト将軍を「追放」するための動議を議員が求めた。それは死刑宣告も同じだった。
 ナポレオンを救ったのは、五百人会議の年齢詐称議長リュシアンだった。仲間の代議士が兄に暴力をふるうのを見たリュシアンは、民主主義を侵害しているのはむしろおまえたちだ、と非難した。「ここには自由などない」と彼は叫び、スーツの上に着ていた赤い礼服を脱いで、演台の上に置いた。「諸君の議長は、公の喪のしるしに、民衆の行政官のシンボルを手放す」そう言うと、リュシアンは兄とともに即席の議場を出て中庭へと向かい、二人とも馬に跨った。リュシアンは馬上で軍隊に向かって演説し、「イギリス政府のあの破滅的な天才に触発されたに違いない、恐れを知らぬ盗賊が、五百人会に反旗を翻そうとしている」と告げた。彼は兄の名において、五百人会をこのような盗賊の手から解放し、彼らを議場から追い払うように、と兵士に求めた―「銃剣によって彼らを短剣から守り、われわれが共和国の運命を慎重に審議できるように」。
 ナポレオンは弟の演説の趣旨が兵士たちにうまく伝わらなかった場合に備えて、事を明確にしようとした。「抵抗する者がいたら、殺せ、殺せ、殺せ! わたしについてこい。わたしは戦争の神だ!」このときリュシアンは小声で、ここはエジプトではなくパリなのだから、黙っていたほうがよいと兄にささやいたと言われている。「相手はマムルークではないのですよ」そのあと、彼はこのクーデターで最も派手で効果的な身振りをしてみせた。ナポレオンの剣をつかんで鞘から抜くと、それを兄の胸に突きつけた。「もし兄が、フランス人の自由をおびやかそうとしたら、わたしが兄の心臓をひと突きにすると誓う!」このとき、エジプトで戦友のデュマ将軍とともにナポレオンの独断ぶりに文句を言っていたミュラ将軍は、騎兵たちに民主主義の秩序を破壊させる号令をかけた。馬を後ろ足で立たせ、軍刀を振りかざして「将軍万歳! 議長万歳!」と叫び、オランジェリーのドアを差して「突撃」と叫んだのだ。武装した騎兵隊が議場に侵入するのを見たフランスの議員たちは仰天し、窓に駆け寄ると、飛びおりて逃げだした。
 その夜、クーデターの協力者に回った何人かの代議士が、首謀者らとともに夜を徹して、ろうそくの明かりで作業を続け、採決をとり、文書を作成し、すべてを法に適合させた。午前三時には作業が終わった。フランスに新政府が生まれ、ナポレオンが第一統領に任命されて、三人の統領からなる上部組織のトップに収まった。必然的に、ほかの二名は彼の命令に従うことになった。”統領”という言葉は古代ローマを思い出させ、ローマでそうだったように、専制君主が最高位についたことを誰もが理解した。
 ヨーロッパのすべての物事、すべての人びとの運命は、まもなく三色の懸章を肩に掛けたこの独裁者の一存によって決められることになる。フランスの共和主義と民主主義の十年ー途方もない恐怖と希望に彩られた、いつまでも続くかに思えた奴隷解放の時代ーは終わった。

2026年6月3日水曜日

20260603 株式会社新潮社 新潮選書 片山杜秀著「未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命」 pp.213‐216より抜粋

株式会社新潮社 新潮選書 片山杜秀著「未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命」
pp.213‐216より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 410603705X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106037054

 雑誌『日本評論』の一九四二年七月号は「支那事変五周年」の記念特集号にあてられました。そこに「新文化の創造」という座談会が掲載されています。出席者は次の六人。「大正デモクラシー」の旗手、長谷川如是閑。「大正教養主義」の生み出した一種の人文主義者、和辻哲郎。かつての唯物論研究会のメンバーで、この頃は日本に目を向けた科学技術史家・思想史家として新境地を開いていた三枝博音。日本主義的哲学者の佐藤信衛。流行を追う俊敏さでは並ぶ者のない評論家、室伏高信。日本史家の肥後和男。
 一九四二年は英米との戦争が始まって二年目。一九四〇年の齋藤隆夫の演説のときの戦争目的は「東亜新秩序」の確立でしたが、それは「大東亜共栄圏」の建設へと、少なくとも言葉の構えはより大げさなものになっていました。
 座談会は長谷川如是閑と和辻哲郎の対論がかなりの部分を占めます。他の四人はいささか影が薄い。大物の二人に気圧されてけっことう黙っています。
 この日、和辻はかなり苛立っていたようです。もっとも、真珠湾攻撃やマレー沖海戦といった緒戦の空からの勝利に気をよくしている箇所もある。益子焼の陶工の技が西洋皿を作るときにも無意識のうちに生きるように、日本のパイロットは剣道の呼吸を飛行機の操縦に自ずと活かせるから優秀なのではないかと、とくとくと語ってもいます。
 しかし、座談会に臨む和辻の基調はやはり怒りです。何に怒っているのか。戦時下の日本の実情にです。対英米戦という世界史的大戦争が始まって、国内では「挙国一致」の類いのスローガンだけは盛んに叫ばれている。けれども、実のところは政治も社会も経済も文化も細かく割れているばかりだ。国家社会のあらゆる局面で縄張り争いが甚だしくなっているのではないか。団結し、強いリーダーシップにしたがい、一丸となり、総力を挙げて事に当たろうという姿勢がちっとも見えてこない。明確な展望もない。そのへんに我慢がならないようなのです。
 その種の発言をいくつか拾ってみましょう。「日本の伝統は皇室を中心にして固まって居る。それは意識されないでもその力が動いて居つた。これはさうに違ひないが、誠に有難い伝統だがそのほかに内輪喧嘩の伝統もあるのではないか。国外の敵を見ないで国内の敵だけを見て居る。さういふ伝統が、生きなくてもい、時に生きて居るといふことはいへないですか」。「新文化を創造する場合には、凡ゆる力が一つに固つて外に向つて戦ふといふ必要がある。国内の敵だけやつけるといふ態度ではなく、一緒になつてやらうといふ態度でなければならん」。「プライベート・ライフの一面だけが非常に細かく見られて、日本の国家全体を見渡すとか、広く世界全体を見渡すとか、東亜の運命を見るといふことがない。小さいところは細かく見ているが、大局が見えない」。
 こんな和辻を長谷川如是閑が次のように諫めます。
 さういふ傾向は日本人の複雑性の一つで、これは外国人にもあるでせうが、つまり非常な多様多角的な国民性の現はれだ。私が伝統といふのはさういふものに拘はれないで、無意識的に強い力を以て一貫して行く性格、どんなものが出ようと、歴史はそれらを克服して一貫した性格を作って行くといふことです。維新になつても攘夷説でやつて居た人もあるし、討幕ではなくて朝廷と幕府の並立を考へて居つた人もある。しかし伝統といふものは、日本の歴史を一貫性を以て貫いて行く。
 如是閑は、本気で意見が一致してひとまとまりになり誰かの指導や何かの思想に熱烈に従うことは、いついかなるときでも、たとえ世界的大戦争に直面して総力を挙げなくてはならないときでも、日本の伝統にはないのだと主張します。
 幕末維新は尊皇派も佐幕派も攘夷派も開国派も居たからこそ、かえってうまく運んだ。いろいろな意見を持つ人々が互いに議論したり様子を見合ったりして妥協点を探る。一枚岩になれない。常にぎくしゃくしながら進む。その結果、自ずとなるようになる。複雑で一致しない多くの力の総和や相乗や相殺として、常に日本の歴史は現前する。それをいけないとはあまり思わず、むしろよしとして放任するのが日本の伝統だ。無理に力ずくでまとめようとすればするほど、ひとつの主義主張で固めようとすればするほど、この国はうまく行かなくなる。てんでばらばらになりそうなところをみんなが我慢し、表向きは妥協しながら、けっこう勝手なことをしている。そのくらいで丁度いいのだ。和辻は間違っている。如是閑の意見はそんなところでしょう。

2026年6月2日火曜日

20260601 株式会社講談社 講談社学術文庫 徳富蘇峰著「読書法:読書九十年」pp.20‐23より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫 徳富蘇峰著「読書法:読書九十年」
pp.20‐23より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061585347
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061585348
 
 予は必ずしも書物の中に成長したものではない。わが家は横井小楠のいわゆる実学連の仲間であり、父は小楠門下ではいささか名の知れたる一人であった。実学連では読書は第二義であって、横井その人は学者であったが、門人には書物を読むことをむしろ奨励ぜずして、 なるべく実際についてその知見を磨くことを奨励した。そのために書物を読む者は詞章記誦の徒としてむしろこれを退けるの風があった。そのために、横井門人中には「大学」一巻を繰返し講義して、それで大先生として立った者もいた。ところが予の父はその仲間ではむしろ読書人であった。その読書人であった理由は、わが家が読書に縁のある家であり、わが父が横井の門人となる以前に熊本時習館教授近藤淡泉先生の門人としてその青年の若干期間を過ごしたためである。
 予の家は細川の殿様よりもむしろ先に肥後に落ちついたものである。細川家は寛永年間に 加藤氏の後を承けて肥後の殿様となったが、予が家は殿様入国以前から、肥後の南端、薩摩 に境する葦北郡の水俣に住したる郷士であった。もとより郷士であり、殿様から禄を貰うでもなければ、武士としての特権を持っているでもなく、ただ山を拓き海を干拓して自給自足で過ごしていたのであって、きわめて呑気な生活をして代々過ごしてきた。そのうちに予の父の曾祖父、予より五代の先祖に徳富久貞というという者があり、これが自分は学者ではなかったが、学者との交通をなし、そのうちに自然に文教の必要を感じて、自らわが郷里の水俣に学校を建て、先生を熊本時習館より聘して、ここに初めてわが郷の学問はその曙光を発したのである。久貞の友人には辛島塩井・高本紫冥・富田日岳などがその主なるものであって、辛島は山陽の父春水の友人であり、春水とともに徳川将軍に召出され昌平黌の講筵に臨んだものである。高本は本来の儒者ではあったが、本居宣長などと交わり、国学に力を致したるものである。富田は高山彦九郎の親友で、九州においては討幕の率先者といっても差支えない。かかる交際であって、彼が死んだときには、彼の墓には辛島塩井がその墓碑銘を書いている。
 德翁有志。興起斯中。家則教子。邑則勧農。既老益壮。惟学惟崇。延師興庠。民始発朦。 
(徳翁志有って、この中より興起し、家にはすなわち子を教え、邑にはすなわち農を勧む。既に老ゆるもますます壮なり。これ学びこれ崇び、師を延いて、庠を興す。民始めて朦を発けり。)
 この意味は訳すれば、熊本は大藩であるが、その領地の水俣は薩摩に隣し文化には遅れている。海や山に被い包まれ、人民は生活が豊かで風俗も醇朴である。徳富翁はこの郷に興って家ごとにその子弟を教え、村ごとにその農業を勧め、老年に至るまでいよいよ壮んで、学問を尊び教師を招きて学校を興し、そこでその人民も初めて文化の光を見るに至った。
 これは少しは掛値があるかもしれぬが、実際その通りであって、その学校には相当の蔵書 があった。その目録だけは予の家になお保存しているが、不幸にして書物は散乱してそのうちのきわめて小部分しかない。しかし、散乱したとはいうものの、田舎郷士の家としては相当の蔵書家といっても差支えない。それは熊本から郡奉行などが出張している際、常に予の家から書物を借用しそれを運んでいったことなど、予は今なお目のあたり見たことを記憶している。
 予の母は矢島家の出であって、その同胞は一男七女、母は第四女であって竹崎順子の妹で 横井常世子・矢島楫子の姉である。横井津世子は小楠の妻であり、竹崎順子・矢島楫子などは、大がい現代の婦人についての知識ある者はその名を知っているであろう。しかして、予の外祖母は当時の女性としては相当の教養があって、その筆跡などを見てもまことにりっぱなものである。彼女についてはさすがの横井小楠もよほど感心したとみえて、自ら筆をとってその墓碑を書いている。
 右のごとく、予が家には書物があり、父母ともに読書に縁のある者であって、自然予もそ の雰囲気のうちに成長してきたから、いやでも応でも書物の虫とならざるを得ぬような環境 に置かれていた。ことに予は上に五人の姉を控えて晩年に生れたものであるから、父母が予 を教育することは、実を言えばいささか有難迷惑であって、いわゆる教育に食傷したほどである。「大学朱熹章句」などは母の乳を吸いつつ教えられたものである。「唐詩選」とか「雪中の松柏愈々青々たり」などという詩などは、すべて母の膝の上にあって覚えたものである。したがって予は寺子屋に行くころには相当に読書の方には趣味もあったが、予にとって最も苦手であったのは習字である。寺子屋では読書が三分であとの七分は習字である。われらが寺子屋生活は歌舞伎座の「菅原伝授手習鑑」で見た通りのことをやってきたのである。予はそのうちの涎くりではなかったが、字を書くことについては本来嫌いである。それで習字の時間には非常に困った。清書などは無茶苦茶にやってのけたから、今でも覚えているが、予が清書のときに「ね」の字を書いたら、先生が朱筆をもって、その傍らに「猫のようである」と評をつけてくれたことがある。実際予は徳の字はともかく書いたが、富という字を書くことは、『四書」の素読をなしつつある時代においても、ようやく片仮名で書いたくらいである。初めからこの人間がいかに均斉のとれざる、智能の円満に発達せざる一種の身障者であったかがわかる。