2026年6月28日日曜日

20260627 三交社刊 ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」 pp.21-25より抜粋

三交社刊 ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」
pp.21-25より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4879191620
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4879191625

彼はちょっと息を入れた。
「いいかね」と彼はまた話を始めた。一方の腕を肘のところで折り、掌を外に向けて挙げ、両足を前で組み合わせた恰好を取ったから、洋服姿で蓮の花こそないとはいえ、教えを説く仏陀そっくりの姿勢に彼はなった。「僕たちなら誰も、そっくりこんな風には感じないだろうよ。僕らを救ってくれるのは能率ー能率よく仕事を果たすことへの献身だ。しかし、大昔、ここに乗り込んできた連中はあまり大した奴ではなかった。植民地開拓者ではなかったのだ。思うに、彼らのやり方はただ搾取するばかりで、それ以上の何ものでもなかった。彼らは征服者だったのであり、そのためには、ただ、がむしゃらな力があればよかったのだ。ーそれがあったからといって、別に自慢になるものじゃないさ。要するにその強さは相手が弱かったということで生じた偶然に過ぎないのだからね。とにかく獲物をせしめれば、というわけで、手に入る獲物は何かわまわず、強奪したのだ。それは力まかせの強盗であり、大規模の凶悪な殺戮だ。しかも彼らは盲滅法にそれをやった。ーそれこそが暗黒と格闘する連中にふさわしい行動だからな。この地上の征服とは、たいていの場合、肌の色が違うか、僕らより少し鼻のひしゃげた人間たちから、その土地を奪ってしまうことを意味するのであって、よくよく見れば、あまりきれいなことじゃない。それを償えるのは観念しかない。征服の背後にある一つの観念、それはセンチメンタルなお為ごかしなんかじゃない一つの観念なのだ。そしてその観念に対する無私の信仰。ー僕らが高く掲げ、その前で頭を垂れ、進んで身を捧げる何ものかなのだ…」 彼は言葉を切った。船の灯と水に映った灯影が川面を滑るように動いていた。小さな緑の灯、赤い灯、白い灯、ー追いかけあったり、追い越したり、もつれ合い、行き交うかと思えば、あるいはゆっくりと、あるいはあたかもふたと離れ去って行くのだった。この偉大な都市の交通は、眠りを知らぬ河を覆って深まっていく夜の帳のなかで、止まることなく続いていた。われわれはあたりを眺めながら辛抱強く待っていた。ー潮が引き始めるまでは、ほかに何もすることがなかったのだ。だが、長い沈黙のあと、彼がためらい勝ちの声で「君たちも憶えているだろうが、僕も昔しばらく河の船乗りになっていたことがある」と口を切った時、われわれは、引き潮が始まるまでは、マーロウの締め括りのない体験談の一つを拝聴させられることになるな、と覚悟をきめたのだった。
  「なにも個人的な経験談で君たちをうんざりさせるつもりはないのだが」と彼は話し始めたが、身の上話の語り手の多くがかかえる弱点、つまり、聞き手がどんなことを一番聞きたがっているかが分かっていないという弱点が、彼のこの語り口に表われていた。「今度の体験が僕にどんな影響を与えたかを分かってもらうためには、やはり、僕がどうやってあそこまで行ったのか、そこで何を見たのか、どんな工合にしてあの河を遡り、あの哀れな男に初めて会った所までたどり着いたかを、君たちに知ってもらう必要があるんだ。それは船で行けるどん詰まりの地点だったし、僕のした経験の絶頂点でもあった。それは、この僕についてのすべてーさらには僕の物の考え方そのものに、何というか、一種の光を投げかけてきたように思うのだ。その経験はけっこう陰気なものだったし、悲惨なものでもあったーどう見ても素晴らしいなどと言えたものではないしーあまりはっきりしていない。そう、どうもはっきりしない。それだのに一種の光を投げかけてくるように思えたのだな。 
 「憶えてくれているだろうが、あれは、僕がインド洋、太平洋、東シナ海、南シナ海とーおきまりの東洋コースを、たっぷり六年ほどかけて、ひととおり味わってからロンドンに戻ってきたばかりの頃だった。毎日ぶらぶらうろつき回って、まるで君たちを啓蒙するという素敵なお役目でも授かったみたいに、君たちの仕事の邪魔をしたり、お宅に押し掛けしていったりしたものだった。しばらくの間はいい気持だった。だが、そのうちに何もしていないのにも飽いてきた。そこでまた乗る船を探し始めたのだがーこれが最高に骨の折れる仕事でね。とにかく船のほうが僕に見向きもしないのだ。そのうちに船探しのゲームにも嫌気がさしてきた。 
 「ところで、子供の頃、僕は大変な地図好きだった。何時間も飽きずに南米とかアフリカとかオーストラリアとかの地図に見入りながら、数々の探検隊の栄光にわれを忘れ、夢中になったものだった。あの頃はまだこの地球上に空白の場所がいくらもあった。そのなかでも特に気をそそられる所が地図にあると(いや、一つとしてそうでいない所はなかったのだが)、僕はその上に指先を置いては、大人になったらきっとそこに行ってやるぞ、と呟いたものだった。北極もその一つだったと思う。いや、まだそこには行ったことはないし、今となっては行く気もないがね。魅力が消えてしまったのさ。ほかに行ってみたいと思った場所は赤道付近のあちこちにあり、両半球のあらゆる緯度のところにもあった。そのなかには実際に行ってみた所もいくつかあるがーまあその話はやめておこう。だが、一つだけー言ってみれば、一番でっかい、そして飛び切り真っ白な地帯があってー僕はそこに疼くような憧憬を感じていた。 
 「たしかに、今度の時にはもう空白ではなくなっていた。僕が子供だった頃から見れば、河や湖やさまざまな地名で満たされてしまっていた。楽しい神秘にみちた空白、少年が輝かしい夢を追った真っ白い土地ではなくなってしまっていた。一つの暗黒の場所になってしまっていたのだ。だが、そのなかに格別に際立った一つの河、地図でもよく目を引く大きな河があった。とぐろを巻いたでっかい大蛇のような恰好をしていて、その頭は深く海にのめり込み、胴体はだだっ広い地域にまたがるカーブを描いて横たわり、その尻尾は、深い奥地のなかに姿を消していた。ある店の飾り窓でその河の地図を見たとたんに、小鳥がーおろかな一羽の小鳥が蛇に魅入られてしまったように、僕はすっかりその河のとりこになってしまったのだ。その時、僕はこの河で貿易をやっている大きな商社があったことをひょいと思い出した。しめたぞ! 僕ひとり合点をした。これだけの河ともなれば、なにがしかの船舶ーせめて蒸気船ぐらいは使わなければ、商売ができるはずがない! そうした船の船長になろうとしない手はないじゃないか!フリート街の通りを歩きながら、どうしてもこの考えを振り切ることができなかった。蛇にすっかり魅入られてしまったわけだ。

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