2026年6月29日月曜日

20260629 筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」 pp.28-33より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」
pp.28-33より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4480077359
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480077356

奥野 言語を持つことで、我々意識につながる「集合表象」が生まれたという人類史を踏まえて、社会学の初源的な考え方についてご説明いただきました。社会学は近代社会だけを扱うことに特化していったのですが、そのことに対して注釈がつけられたというのは、とても重要なことです。オリジネータたちが社会と呼ぶものは、近代社会のそれだけに限定されるべきものではなく地球上の多くの似たようなものにも適用すべき概念だと考えていたということがよくわかりました。
 もうひとつ、これから進められる「宮台式人類学」の講義についても重要な見通しが語られましたね。「煉瓦積み上げ方式」ではなく「螺旋方式」で、各論点に何度も戻って上書きしていくことで理解を深めるという手法でこれからお話をしていただくという点を、ここで読者のみなさんのためにも特記しておきたいと思います。
 さて戻りますと、社会学によって提示された「社会的事実」を含む社会の概念、つまり社会学の社会という概念は、人類学の中にも共有されている考え方だと思います。1990年代初めの川田順造さんのレヴィ=ストロースへのインタビュー動画の中で、レヴィ=ストロースが川田さんの質問に少し苛立って、「社会の話をしてるんだよ」と言うシーンがありますが、デュルケムが生み出した諸概念は、その後の社会学だけでなく、人類学にも継承され、共有されていたと考えられるでしょう。他方で、ヴェーバーに関しては、いかがでしょうか?

宮台 ヴェーバーにも同じような注釈があります。彼にとって一番重要な概念は「正統性(legitimacy)」です。支配と服従ってなんだろう、とりわけ自発的服従ってなんだろうということを徹底して考えます。相手の言うことが正しいから従う場合、日本語では「当たる」という字の「正当性(justifiability/rightness)」を使います。さて、複雑な分業編制からなる社会は、支配と服従だらけですが、正当性と損得勘定だけでは分業編制を支える服従の調達に不足が生じます。その服従を可能にするのは、正当性や損得勘定を超えた、なにかであるはずです。
 元来は王位継承線を指す「正統性」の言葉を、彼は「自発的な服従契機」という意味で使います。それを彼は実に巧妙に「伝統的正統性」と「カリスマ的正統性」と「合法的正統性」を例示して説明します。まず「伝統的正統性」。昔から皆がやっていたと信じられるだけで、それをやれと言われなくても、内容の正しさに関係なく人はそれをやりたがるという事実を指します。今日の進化生物学は孤独 (loneliness) を恐れるゲノムに、その基盤を見出します。
 次に「カリスマ的正統性」。圧倒的に凄い人を前にすると、他の人が言っても聞かないのに、その人が言うと喜んで従おうと思うという事実を指します。お金の力(損得勘定)にも暴力の力(威嚇)にも還元できない非日常的な性質(凄さ)を、ヴェーバーは「カリスマ」と呼びます。カリスマがある人に従うのも、内容の正しさとは無関係です。その人が言うから内容が正しく聞こえるのを「権威」と言いますが、それと似ているものの、少し違います。内容の正しさには関係ないからです。
 彼は、カリスマを持つ人が「カリスマ的正統性」による一回的立法を行って社会を樹立した後、カリスマを持つ人の死亡や変質などでカリスマの劣化(カリスマの日常化)が起こりますが、それを埋め合わせるのが、昔から皆がという「伝統的正統性」だとします。でも自然的・社会的な環境変化で従来の法生活が立ち行かなくなると、また「カリスマ的正統性」による一回的立法が行われ、やがて「伝統的正統性」に置き換えられる…と循環します。
 カリスマを持つ人の登場は偶発的だから、カリスマを持つ人が登場せずに伝統にへばり付くことで滅ぶか征服された社会も多かったはずです。加えてそれだと計算可能性による予測可能性を欠くので、複雑な分業編制は無理です。ところが近代になるとそれを克服する「合法的正統性」が生まれ、[手続きに合致した命令]であれば内容はともかく従うようになります。正確にはそれを近代と呼ぶのです。
 ここには、法が手続きを定め、その手続きで法を定め、その法が手続きを定め…という合法性の循環があります。それゆえ、カリスマを持つ人の出現という偶発性に頼らずに数多の立法が可能になり、伝統の変わりにくさゆえに自然的・社会的な環境変化に適応できない、という問題を回避でき、複雑な分業編制(典型が官僚制)と、分業編制の柔軟性とを、併せ持つ近代社会になります。ヴェーバーは、そういうふうにして、事実上、近代を定義したのです。恐るべき業績ですが、後で話すように、法による階層的統治が、カリスマによる英雄的統治と無関連に成り立つとした点に、大きな欠陥があります。

奥野 なるほど。ヴェーバーもまた、近代社会だけでなく、近代以前における支配と服従のあり方を検討した上で、複雑な分業体制を発展させて、法的な服従を余儀なくされる近代以降の仕組みを見るように、注釈を施しているということですね。
 では今度は、少し私の観点から、本書のテーマである社会学と人類学という学問が生まれた時代を少し遡ったところから考えてみたいと思います。序論では拙著『はじめての人類学』に言及しつつ、戦争を取り上げたのですが、それと表裏の関係にあった、ヨーロッパにおける科学や思想の流れを手短に振り返ってみたいと思います。
 16世紀に天動説を否定した天文学、19世紀に人間がサルの子孫であると唱えた進化論などの自然科学の進展により、ヨーロッパではキリスト教の唯一神への信仰が次第に絶対的なものではなくなってきていました。無神論とともにニヒリズムが広がる中、梅毒に侵されて正気を失って悩み続けたニーチェは「神は死んだ」と唱え、ニヒリズムを乗り越えて、いかにすれば生きることに価値を見出せるのかという問いを考え続けました。その上で彼は、何者にも支配されずに自由な心で生きる「超人」を目指すべきだと主張したのです。
 19世紀の科学技術の著しい発展は、人間を脅かしていた迷信や信仰を突き崩し、近代的な自我の確立も促しました。その時代にフロイトは自我の意識の奥底に抑えられた無意識を発見しています。1900年に詳細な夢分析の記録である『夢判断』を出版し、20世紀初頭に人々の抱える神経の病を治療する精神分析学を創始しています。
 産業革命以降の機械制大工業の発達は、労働を単純労働に変え、人間を機械に支配される存在に作り変えました。マルクスは19世紀後半に「資本論」の中で、人間が労働によって「疎外」される資本主義の問題を論じています。
 20世紀に入って1920年代になると、第一次世界大戦の特需に沸くアメリカは、大量生産・大量消費により経済的な繁栄を遂げますが、その直後の1929年には世界恐慌が起きます。このときに多くの人々が感じた「疎外」は芸術の分野でも表現され、1936年には、製鉄工場で監視されながら単純作業に従事する男が精神に失調をきたし、トラブルを起こして精神病院送りとなる顛末を描いた映画『モダン・タイムス』が公開されています。
 さて、さきほど宮台先生がお話しされた、フランス革命を達成して専制君主を倒して民主的な社会に移行したにもかかわらず、社会をうまく構築することができないというジレンマを抱えていた中で始められた社会学は、こうした19世紀から20世紀初頭の歴史のうねりの中で生まれたということだと思います。

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