株式会社blueprint刊 宮台真司著「崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する」
pp.183-186より抜粋
ISBN-10 : 4909852093
ISBN-13 : 978-4909852090
『冷たい熱帯魚』:〈システム〉からの自立自体が孕む依存の喝破
『冷たい熱帯魚』には園子温定番の「ダメな父親」(ゆえのダメな家族)が描かれる。ダメぶりが引き起こす悲劇の激烈さにおいては『紀子の食卓』(2006年)に連なる。ダメな父親への否定の身振りの激しさは『冷たい〜』ではもはや尋常の域を遥かに超えている。
園監督はかつて私的に語った。『紀子の食卓』に描かれた父親は彼自身の父親だ。大学教授である父親は、構造的貧困がもたらす飢餓の激烈さを語った直後なのに激昂すると食卓をひっくり返すような偽善者だったという。父親への反発から家出して、カルトやセクトにも入った。『紀子〜』では父親のダメぶりが、あるべき家族についての勘違いのパターナリズムとして描かれる。ところで、「またお父さんったら」的な赦し合いのコミュニケーションを可能にする感情的共通前提の、空洞化に対処するには、近親姦による秘密の共有か、究極の演技しかない。
近親姦による秘密の共有を描いたのが『Strange Circus 奇妙なサーカス』(2005年)で、究極の演技を描いたのが『紀子〜』だ。どちらの場合も子供たちを犠牲にした自己満足に帰結する。だから園作品は、親たちの自己満足に資するAC的振る舞いからの解放を謳って終わる。
『冷たい〜』では更に先に進んだ。子供が親のパターナリズムに偽善を見出すのは何故かを問う。答えはシステムへの過剰依存だ。親が親みたいな顔をしていられるのはシステムに依存するからに過ぎない。システムの外出してしまえば親らしさなど一挙に吹き飛ぶという訳だ。
映画のラストにやっと判明するが主人公は娘の美津子だ。映画は、美津子から見た父・社本信行のダメさの話だ。小さな熱帯魚店を経営する社本は、大規模な熱帯魚店を経営する村田に感染して仕事に協力するが、実は村田は、システムの外を生きる「モンスター」だった。
人を毒殺しては妻と一緒に解体処分する村田だが、常軌を逸した振る舞いを示すにも拘わらず、のべつ幕なしの多弁さで社本のダメさを際立たせ、説教し続ける。「ふん、どっちみちバレたら死刑だ。だがな、俺はシロウト紛いのオロオロ小僧とは違う」云々。
村田の辣腕経営者ぶりに感染した社本が、やがて二度目の感染をする。システムの外出を生きるモンスターぶりに感染するのだ。オロオロ小僧・社本が「屹立する父」へと翻身する。その翻身を「眼鏡をかけた男」から「眼鏡を外した男」への変貌ぶりが示す。
少女漫画に定番の「眼鏡を外したら、あら美人」ならざる、「眼鏡をとったら、あら父親(真の男)」。それだけであれば所謂「成長もの」ー離陸して混沌を経験した後に離陸面とは異なる着地面に着地するーの、よく出来た作品ということで終わろう。
だが、少なくとも二点で意外な印象を与える。第一に、村田は「脱社会的存在」ではない。真のモンスターではない。村田が魚を捌くかのように「人を捌く」のは、村田自身が「父に裁かれ」、その身勝手な自意識によって激烈な罰を受けてきたからだと示されるのだ。
浦沢直樹の連載漫画『MONSTER』(1994年~2001年)に登場する悪魔の如き少年ヨハン如く、元々は誰よりも感情的な存在だったがゆえに大人たちによる虐待に苦しみ、やがて感情的存在としては理解不能な「モンスター」に変貌する、という「摂理」が暗示される。虫の息となった村田の、少年時代に繰り返したのだろう父の許しを請う呟きが、それまでと一転して観客の同情を誘う。観客は、父(村田の父)から父(村田)へ、その父(村田)から父(社本)へという連鎖に、「世界は確かにそうなっている」という寓意を見出す。
父による抑圧からの解放が、父が登録されたシステムから離脱して生きる「脱社会的」な振舞いでしかあり得なかった、という負の連鎖。だが、この摂理に深く打たれる間もなく第二の意外な展開が待っている。社本が自らの首を切り、娘に哄笑されながら死ぬのだ。抑圧からの解放という成長物語を生きる者が、成長物語の完遂のために新たな抑圧をもたらすという負の連鎖。それを突きつけられた観客は我に返るだろう。『紀子〜』のラストの娘が「家族からの卒業」を暗示等したとすれば、『冷たい〜』も実は卒業を暗示している。
この卒業は、「父親による抑圧(によるシステム依存)から(システムの外に出ることで)解放される」というシステム依存をめぐる実存の物語ー解放の物語ーが、それ自体システムに(ゆえにシステムに登録された父親に)依存する、という逆説からの、解放である。
2026年7月6日月曜日
20260705 株式会社PHP研究所刊 池内恵 編著『「世界を動かす宗教」講義』 pp.50-55より抜粋
株式会社PHP研究所刊 池内恵 編著『「世界を動かす宗教」講義』
pp.50-55より抜粋
ISBN-10 : 4569860788
ISBN-13 : 978-4569860787
日本の宗教・根源感情は何か
森本:これからの世界は、外交も軍事も経済も多極化ないしブロック化に向かっているようです。さて、日本ははたしてどこに入るのでしょうか。これまでは西側世界の一員として数えられてきましたが、従来のリベラル・デモクラシーという価値だけでは上手く回らないことは、現在の世界の混迷を見れば明白です。
佐伯:まさにそれが大問題で、冷戦後はグローバル化が進んで、諸文明が収斂する世界が訪れると考えられましたが、実際には、むしろそれぞれの国や地域の文明が露わになりぶつかりあう時代が到来しています。これからは各国ともに、まずは自分たちの領域を守ることを優先するはずで、そのためには国民的な団結が求められます。そこで必要になるのが国民のあいだで共有される価値なのですが、冒頭の議論に戻るなら、日本人はそれが何なのか自覚できていない。自分たちの根源感情を言語化できていないのです。
森本:佐伯先生は『正論』2025年3月号に寄せられた論考で(「戦後80年 神なき時代に」)、1969年の三島由紀夫と石原慎太郎の対談に触れながら、折口信夫と柳田國男の思想を紹介しておられましたが、日本の根源感情を考えるうえで重要な内容だと感じました。
佐伯:どうやら日本の思想史の流れのなかでは特異らしいのですが、私には柳田の考えが馴染みますね。家があって先祖がいて、われわれが死んだら先祖と同じ一つの魂になる。そして、日本の宗教的な情熱の原点であり源泉が何かと言えば、自然でしょう。四季があり、山や川などのなかで人間が暮らしていて、自然には恵みを与えてくれる面もあれば害をもたらすものもある。昔の日本人はそれを「カミ信仰」と表現しました。
柳田もまた、明治時代からの国家神道は本来の日本人の信仰心とは馴染まないと考えたのでしょう。私もやはり、自然のなかに見出せる神を土台とした宗教観や氏神信仰こそが日本の根源感情ではないかと思います。
折口はそんな柳田の祖先崇拝を批判しましたが、彼の思想は結局のところ、異郷からやってくる神あるいは神的な存在である「まれびと」という考え方に集約されます。それはおそらく、先の大戦で非常に大切に思っていた養子が戦死したという悲劇もあり、彷徨える彼らの魂が一体どこへゆくのかという関心を排除できなかったからでしょう。そして、具体的には何者かはわからないけれども、異界からくる神のような存在があると考えたのだと思います。
日本とヨーロッパの根源感情の決定的な違いは、ヨーロッパが一神教の神というものを生み出した一方で、日本はそれをつくらなかった点に求められるでしょう。日本人は、われわれの隣にはいつも神がいると考えましたが、それは決して目には見えないけれども、感じることができる。言うなれば、いつもそこにいる霊的な存在であると表現できるでしょう。
森本:日本の神は内在的ですが、ユダヤ・キリスト教の神は「世界の外」に存在する神で、その意味では折口の「まれびと」に近い。この世界の秩序に属さないところに存在しているので、この世の枠組みで考えてはいけない、という基本的な感覚があります。
ただ日常の宗教性表現は、じつは日本のように神を身近に感じるのとさほど変わりません。街角にお地蔵さんのようなマリア様が祀られているのを見ると、先に触れた「文化」化した宗教は似通っているな、と思います。
自然への畏怖を抱く日本人
佐伯:もう一つ言えば、自然に対する考え方も大きく違うでしょう。日本人は、人間もまた自然のなかに存在していると考え、同時にその自然が、一方では人間に恵みを与え、他方では台風や津波、地震など、自然のなかには人間には理解しがたい「奇しき力」が存在しているとも考える。この両方の力によってわれわれが動かされているとしたのでしょう。だからそれを神と呼んで雷神や風神なども考え出したし、その神を畏怖して祀ることで生活の秩序をつくり出してきた。一方、ヨーロッパは自然現象については、少なくとも近代になれば、人間が理性の力でそれを解明できると考えている。
さらに言うと、日本人は、われわれには理解できない奇しき力が存在するのであれば、それによってつねに世界は移り変わるし、その移り変わりにとくに意味はない、と考えます。だからこそ、この世に永続的なものはないという「無常」の観念に接近するように思います。
森本:自然に対する態度の違いは誠におっしゃるとおりです。日本的な感覚には、自然の力への畏怖があって、身近だけれど理解することも手なずけることもできない相手として、恭しくともに暮らしてゆく、というところがあります。
それに対して近代西洋の自然理解は、神秘を理性の力で無理やりこじ開けて解明し、自分の用に奉仕させる、という感覚でしょうか。本来の聖書的な理解では、自然も人間も神の被造物であることに変わりはないのに、いつの間にか神を消し去って、自分が自然世界の王者であるかのように振る舞っているのです。これも神が世界の外に存在するからですね。だから、無神論ってじつは聖書的な世界観からしか生まれないんです。
それと、その超越的であるはずの神が内在化すると、「自国の神」になってとても危険です。これが現代のアメリカやイスラエルに起こっていることで、それは日本の国家神道が辿った道でもあります。終戦直後の折口はそのことを批判した数少ない一人でもあります。 いずれにしても、すべての文化は宗教的だというのが私の考えです。現世的な組織立てを超越する何かの深みがなければ、その文化を一つの塊としてまとめることはできないからです。文化の核が必要なのです。それを言語化することは難しいですが、世界が多極化していく時代、日本に住むわれわれがどのような自己理解をもつかは、世界から向けられた問いでもあると思います。
佐伯:おっしゃるとおりです。日本は戦後、アメリカからもちこんだリベラル・デモクラシーや近代主義の実現をめざしてきましたが、それによってどのような国にしようかとは考えてこなかったし、また現に手本としてきたアメリカ自身が大きく変質し始めています。歴史の大きな転換点にいると同時に、われわれが歴史のなか置き去りに非てきた価値観や宗教意識を思い起こすことがきわめて大事になってきました。
世界の向かう方向がどうであれ、ずっと先送りしてきた「日本とは何か」という宿題をあらためて突き付けられているように感じますし、そのためにはわれわれの根源感情は何かをあらためて議論しなければなりませんね。
pp.50-55より抜粋
ISBN-10 : 4569860788
ISBN-13 : 978-4569860787
日本の宗教・根源感情は何か
森本:これからの世界は、外交も軍事も経済も多極化ないしブロック化に向かっているようです。さて、日本ははたしてどこに入るのでしょうか。これまでは西側世界の一員として数えられてきましたが、従来のリベラル・デモクラシーという価値だけでは上手く回らないことは、現在の世界の混迷を見れば明白です。
佐伯:まさにそれが大問題で、冷戦後はグローバル化が進んで、諸文明が収斂する世界が訪れると考えられましたが、実際には、むしろそれぞれの国や地域の文明が露わになりぶつかりあう時代が到来しています。これからは各国ともに、まずは自分たちの領域を守ることを優先するはずで、そのためには国民的な団結が求められます。そこで必要になるのが国民のあいだで共有される価値なのですが、冒頭の議論に戻るなら、日本人はそれが何なのか自覚できていない。自分たちの根源感情を言語化できていないのです。
森本:佐伯先生は『正論』2025年3月号に寄せられた論考で(「戦後80年 神なき時代に」)、1969年の三島由紀夫と石原慎太郎の対談に触れながら、折口信夫と柳田國男の思想を紹介しておられましたが、日本の根源感情を考えるうえで重要な内容だと感じました。
佐伯:どうやら日本の思想史の流れのなかでは特異らしいのですが、私には柳田の考えが馴染みますね。家があって先祖がいて、われわれが死んだら先祖と同じ一つの魂になる。そして、日本の宗教的な情熱の原点であり源泉が何かと言えば、自然でしょう。四季があり、山や川などのなかで人間が暮らしていて、自然には恵みを与えてくれる面もあれば害をもたらすものもある。昔の日本人はそれを「カミ信仰」と表現しました。
柳田もまた、明治時代からの国家神道は本来の日本人の信仰心とは馴染まないと考えたのでしょう。私もやはり、自然のなかに見出せる神を土台とした宗教観や氏神信仰こそが日本の根源感情ではないかと思います。
折口はそんな柳田の祖先崇拝を批判しましたが、彼の思想は結局のところ、異郷からやってくる神あるいは神的な存在である「まれびと」という考え方に集約されます。それはおそらく、先の大戦で非常に大切に思っていた養子が戦死したという悲劇もあり、彷徨える彼らの魂が一体どこへゆくのかという関心を排除できなかったからでしょう。そして、具体的には何者かはわからないけれども、異界からくる神のような存在があると考えたのだと思います。
日本とヨーロッパの根源感情の決定的な違いは、ヨーロッパが一神教の神というものを生み出した一方で、日本はそれをつくらなかった点に求められるでしょう。日本人は、われわれの隣にはいつも神がいると考えましたが、それは決して目には見えないけれども、感じることができる。言うなれば、いつもそこにいる霊的な存在であると表現できるでしょう。
森本:日本の神は内在的ですが、ユダヤ・キリスト教の神は「世界の外」に存在する神で、その意味では折口の「まれびと」に近い。この世界の秩序に属さないところに存在しているので、この世の枠組みで考えてはいけない、という基本的な感覚があります。
ただ日常の宗教性表現は、じつは日本のように神を身近に感じるのとさほど変わりません。街角にお地蔵さんのようなマリア様が祀られているのを見ると、先に触れた「文化」化した宗教は似通っているな、と思います。
自然への畏怖を抱く日本人
佐伯:もう一つ言えば、自然に対する考え方も大きく違うでしょう。日本人は、人間もまた自然のなかに存在していると考え、同時にその自然が、一方では人間に恵みを与え、他方では台風や津波、地震など、自然のなかには人間には理解しがたい「奇しき力」が存在しているとも考える。この両方の力によってわれわれが動かされているとしたのでしょう。だからそれを神と呼んで雷神や風神なども考え出したし、その神を畏怖して祀ることで生活の秩序をつくり出してきた。一方、ヨーロッパは自然現象については、少なくとも近代になれば、人間が理性の力でそれを解明できると考えている。
さらに言うと、日本人は、われわれには理解できない奇しき力が存在するのであれば、それによってつねに世界は移り変わるし、その移り変わりにとくに意味はない、と考えます。だからこそ、この世に永続的なものはないという「無常」の観念に接近するように思います。
森本:自然に対する態度の違いは誠におっしゃるとおりです。日本的な感覚には、自然の力への畏怖があって、身近だけれど理解することも手なずけることもできない相手として、恭しくともに暮らしてゆく、というところがあります。
それに対して近代西洋の自然理解は、神秘を理性の力で無理やりこじ開けて解明し、自分の用に奉仕させる、という感覚でしょうか。本来の聖書的な理解では、自然も人間も神の被造物であることに変わりはないのに、いつの間にか神を消し去って、自分が自然世界の王者であるかのように振る舞っているのです。これも神が世界の外に存在するからですね。だから、無神論ってじつは聖書的な世界観からしか生まれないんです。
それと、その超越的であるはずの神が内在化すると、「自国の神」になってとても危険です。これが現代のアメリカやイスラエルに起こっていることで、それは日本の国家神道が辿った道でもあります。終戦直後の折口はそのことを批判した数少ない一人でもあります。 いずれにしても、すべての文化は宗教的だというのが私の考えです。現世的な組織立てを超越する何かの深みがなければ、その文化を一つの塊としてまとめることはできないからです。文化の核が必要なのです。それを言語化することは難しいですが、世界が多極化していく時代、日本に住むわれわれがどのような自己理解をもつかは、世界から向けられた問いでもあると思います。
佐伯:おっしゃるとおりです。日本は戦後、アメリカからもちこんだリベラル・デモクラシーや近代主義の実現をめざしてきましたが、それによってどのような国にしようかとは考えてこなかったし、また現に手本としてきたアメリカ自身が大きく変質し始めています。歴史の大きな転換点にいると同時に、われわれが歴史のなか置き去りに非てきた価値観や宗教意識を思い起こすことがきわめて大事になってきました。
世界の向かう方向がどうであれ、ずっと先送りしてきた「日本とは何か」という宿題をあらためて突き付けられているように感じますし、そのためにはわれわれの根源感情は何かをあらためて議論しなければなりませんね。
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