pp286-2288より抜粋
ISBN-10 : 4560084262
ISBN-13 : 978-4560084267
どんよりと肌寒い十一月十日日曜日の明け方、ナポレオンは五〇〇〇人の軍隊に、五百人会の議員が集まるサン・クルー宮殿のオランジュリーを包囲するように命じた。最初はうまく事が運ばなかった。ナポレオンがオランジュリーに顔を出そうとすると、だまされた議員たちー全員が普段の服の上にゆったりとした赤い礼服をまとい、三色のスカーフを巻いていた―が「独裁者を倒せ!」と叫びだしたのだ。文民政治の経験に乏しいナポレオンは冷静さを失い、「おまえたちは今、一触即発の場にいるのだ!」と叫び返した。彼を非難する声が上がり、ののしりやつばまで浴びせられた。「独裁者を倒せ! 暴君を倒せ!」誰かがナポレオンの襟をつかみ、彼の体を揺すった。ボナパルト将軍を「追放」するための動議を議員が求めた。それは死刑宣告も同じだった。
ナポレオンを救ったのは、五百人会議の年齢詐称議長リュシアンだった。仲間の代議士が兄に暴力をふるうのを見たリュシアンは、民主主義を侵害しているのはむしろおまえたちだ、と非難した。「ここには自由などない」と彼は叫び、スーツの上に着ていた赤い礼服を脱いで、演台の上に置いた。「諸君の議長は、公の喪のしるしに、民衆の行政官のシンボルを手放す」そう言うと、リュシアンは兄とともに即席の議場を出て中庭へと向かい、二人とも馬に跨った。リュシアンは馬上で軍隊に向かって演説し、「イギリス政府のあの破滅的な天才に触発されたに違いない、恐れを知らぬ盗賊が、五百人会に反旗を翻そうとしている」と告げた。彼は兄の名において、五百人会をこのような盗賊の手から解放し、彼らを議場から追い払うように、と兵士に求めた―「銃剣によって彼らを短剣から守り、われわれが共和国の運命を慎重に審議できるように」。
ナポレオンは弟の演説の趣旨が兵士たちにうまく伝わらなかった場合に備えて、事を明確にしようとした。「抵抗する者がいたら、殺せ、殺せ、殺せ! わたしについてこい。わたしは戦争の神だ!」このときリュシアンは小声で、ここはエジプトではなくパリなのだから、黙っていたほうがよいと兄にささやいたと言われている。「相手はマムルークではないのですよ」そのあと、彼はこのクーデターで最も派手で効果的な身振りをしてみせた。ナポレオンの剣をつかんで鞘から抜くと、それを兄の胸に突きつけた。「もし兄が、フランス人の自由をおびやかそうとしたら、わたしが兄の心臓をひと突きにすると誓う!」このとき、エジプトで戦友のデュマ将軍とともにナポレオンの独断ぶりに文句を言っていたミュラ将軍は、騎兵たちに民主主義の秩序を破壊させる号令をかけた。馬を後ろ足で立たせ、軍刀を振りかざして「将軍万歳! 議長万歳!」と叫び、オランジェリーのドアを差して「突撃」と叫んだのだ。武装した騎兵隊が議場に侵入するのを見たフランスの議員たちは仰天し、窓に駆け寄ると、飛びおりて逃げだした。
その夜、クーデターの協力者に回った何人かの代議士が、首謀者らとともに夜を徹して、ろうそくの明かりで作業を続け、採決をとり、文書を作成し、すべてを法に適合させた。午前三時には作業が終わった。フランスに新政府が生まれ、ナポレオンが第一統領に任命されて、三人の統領からなる上部組織のトップに収まった。必然的に、ほかの二名は彼の命令に従うことになった。”統領”という言葉は古代ローマを思い出させ、ローマでそうだったように、専制君主が最高位についたことを誰もが理解した。
ヨーロッパのすべての物事、すべての人びとの運命は、まもなく三色の懸章を肩に掛けたこの独裁者の一存によって決められることになる。フランスの共和主義と民主主義の十年ー途方もない恐怖と希望に彩られた、いつまでも続くかに思えた奴隷解放の時代ーは終わった。