pp.58‐60より抜粋
ISBN-13 : 978-4065249437
私が連綿とした家系に驚嘆したのは安曇氏ばかりではない。埼玉県の入間郡の高麗本郷というところで高麗神社を祀っている高麗氏がある。58代目と称する当代の高麗明津氏は77歳の高齢であるが、会ったとき、その柔和な面ざしに朝鮮の血がながれていると、私は思わずにはいられなかった。もっともこのうち10代は兄弟が継いだのだから、じっさいは48代という説明だったけれども、それにしてもその祖先の高句麗亡命人若光がこの地に移住したのが、「諸国の高句麗人をあつめ、武蔵国に高麗郡をおく」とある元正天皇の716年であるから、奈良時代の初めごろの話である。
高句麗(前37~668)は高麗とも呼ばれた。高麗人1800人をあつめ高麗郡をつくったが、その首長が若光であった。
この若光は高麗郡に移るまえに神奈川県の大磯にいたという伝承がある。大磯には高麗山の地名がのこり、また高来神社の下の宮は高麗王若光を祭っている。高来神社はいうまでもなく高麗神社の呼び方を変えたものだ。この神社の一年越しにおこなわれる夏の大祭で舟子たちがとなえる祝歌の一部に、「俄かに海上騒がしく、浦の者共怪しみて、遥かに沖を見てあれば、唐船急ぎ八の帆を上げ・・・この船の中よりも、翁一人立ち出でて、艪に登り声をあげ、汝らそれにてよく聞けよ、われは日本の者にあらず、諸越の高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れ来て、大日本に志し、汝等帰依する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁昌と守るべし」とある。この翁が若光であったのである。
こうした歌が歌が今日まで歌いつがれること自体ふしぎとは思わざるを得ない。しかも埼玉の高麗郷に本拠をすえた若光の子孫は代々高麗氏を名のり、鎌倉幕府の執権北条泰時のころまでは、親族や重臣とばかり縁組してきたということが高麗神社伝来の系図に明記されており、高麗本郷一帯の帰化人のあいだで高麗氏の血が保たれてきたことがはっきりする。この系図は正元元年(1259年)に火災で焼けたが、そのとき一族老臣など高麗百苗があつまって諸家の故記録をとりしらべ、高麗氏の系図をあたらしく書きのこすことにしたと記してあるのをみると、鎌倉時代の中期までは同族意識はきわめて強固であったことがうかがえる。じっさいこの高麗本郷には、若光の墓と称する朝鮮式の多重塔があり、付近に高麗川が流れていて、日本のなかの、朝鮮特別区という趣がある。そうした雰囲気を奈良時代このかた途切れることなく持ちつたえてきたのがこの一帯であったにちがいない。高麗郷近くの飯能は朝鮮語のハンナラ、つまり「韓の国」という意味だそうだ。東京都下に狛江があることは誰でも知っている。
私は狛江、調布、八王子と多摩川ぞいに引かれるラインを北上させて、八王子と高崎をむすぶ八高線の沿線に朝鮮文化を想定してみた。つまり関東平野の西部ぞいに古代朝鮮人が定着し、開拓をおこない、養蚕をひろめ、ひいては機織りをさかんにしたと考えてみた。すると、あきらかに高句麗系文様の金銅飾板を出す狛江の古墳群のまわりに当時の一大集落が浮かび上がる。そこは多摩川とつい目と鼻のあいだである。多摩川は「万葉集」に多麻と書き、麻に関係があると思われる「和名抄」には多婆と書いてあるから白栲の栲を意味するタバかも分からない。そして近くに調布や砧(布板のつづまった語)などの集落があるところをみれば、多摩川に布をさらし、それを木や石の上において叩いてやわらかにしていた当時の光景が眼前に出現する。それは高麗本郷や流れる高麗川でもみられた風景だったにちがいない。