pp.200-202より抜粋
ISBN-13: 978-4309227887
従来の人種差別は、生物学の理論にしっかりと根差していた。1890年代や1930年代には、イギリスやオーストラリアやアメリカのような国では、アフリカ人や中国人は何らかの遺伝性の生物学的特性のせいで、知能や進取の気性や道徳の面でヨーロッパ人よりも生まれつき劣っていると広く信じられていた。問題は血統にあった。そのような見方は、政治的に尊ばれ、科学的にも広く支持されていた。今日ではそれとは対照的だ。そのような差別的な主張をする人が相変わらず多いとはいえ、人種差別は科学的な支持をすべて失い、政治的にも真っ当だとはほとんど思われなくなったーただし、文化の観点から言換えた場合には別だが。黒人は標準以下の遺伝子を持っているから罪を犯しがちだ、などと言うのはもう時代後れで、彼らは機能不全のサブカルチャーの出身だから罪を犯しがちなのだ、と言うのがとてもはやっている。
たとえばアメリカでは、差別的な政策を公然と支持し、しばしばアフリカ系アメリカ人やラテンアメリカ系住民やイスラム教徒を侮辱するような発言をする政党や指導者が見られるが、彼らのDNAに何か問題があるとは、まず言わない。問題は彼らの文化にあるという。たとえば、トランプ大統領がハイチやエルサルバドルやアフリカ諸国の一部を「肥溜めのような国々」と呼んだとき、彼は明らかに、これらの国々の人の遺伝子構造ではなく文化についての意見を国民に提供しているのだ。トランプは別の折に、メキシコからアメリカにやって来た移民について、「メキシコが同国の人を送り込むときには、ベストの人は送り込んでこない。たっぷり問題を抱えた人々を送り込むから、彼らはそうした問題を持ってくる。彼らは麻薬も持ってくれば、犯罪も持ってくる。彼らは性的暴行者だが、まあ、なかには善良な人もいるんだろう」。これはひどく侮辱的な主張だが、生物学的ではなく、社会学的に侮辱的な主張だ。トランプは、メキシコ人の血統が善良さへの障害だとは言っていない。ただ、善良なメキシコ人はリオグランデ[訳注テキサス州とメキシコとの境を流れる川]の南側にとどまる傾向にあると言っているのだ。
人間の体(ラテンアメリカ系住民の体、アフリカ人の体、中国人の体)が依然として議論の中心にある。肌の色は重要だ。肌にメラニン色素がたくさんある人がニューヨークの通りを歩いていれば、どちらに向っていようと、警察は特別に疑い深い目で眺めるかもしれない。だが、トランプ大統領とオバマ前大統領のどちらに属する人も、肌の色の重要性を文化や歴史の観点から説明するだろう。警察が濃い肌の色を疑わしい目で見るのは、生物学的な理由からではなく、歴史のせいなのだ。たぶんオバマの陣営は、警察の偏見は奴隷制度のような歴史的犯罪の不幸な遺産だと説明し、一方、トランプの陣営は、黒人の犯罪は白人の自由主義者と黒人のコミュニティが犯した歴史的な過ちの不幸な遺産と説明するだろう。いずれにしても、仮にあなたが、じつはアメリカの歴史について何も知らないデリーからの観光客だったとしても、その歴史の結果に対処せざるをえないだろう。
生物学から文化への移り変わりは、専門用語の無意味な変更にすぎないわけではない。それは、良いものも悪いものも含め、広く影響の及ぶ実際的な結果を伴う、根本的な変化だ。まず、文化は生物学よりも順応性がある。つまり、一方では今日の文化差別主義者は従来の人種差別主義者よりも寛容かもしれない。「他の人々」が私たちの文化を採用しさえすれば、対等の人間として受け容れる、というわけだ。その一方で、同化するようにという、はるかに強い圧力を「他の人々」にかける結果や、もし同化できなければ彼らに対して、はるかに厳しい批判を浴びせるという結果にもなりうる。