株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.10-12より抜粋
ISBN-10 : 4480084886
ISBN-13 : 978-4480084880
日本の18世紀において絶えず進んだ過程は、学校教育の普及である。幕府は教育を奨励し地方政府もその経営する学校(藩校)を新設した。この傾向は、ことに18世紀後半に著しい(創立年代のあきらかな278校のうち、18世紀中葉以前の創立は、40校にすぎず、18世紀後半の創立は80校に及ぶ。すなわち18世紀後半の50年間は、それ以前の150年間の2倍に相当する速さで、藩校を新設したということになる。笠井助治「近世藩校に於ける学統学派の研究」上、吉川弘文館、1969、72頁、参照)。藩校は武士の子弟の教育を目的とし、その教育の内容は次第に実用的なものになろうとしていた。
ただし地方政府も有能な官僚の必要を自覚しはじめたからであろう。その結果、後述するように、武士知識層に専門分化の傾向を生じたのである。他方幕府は、武家ばかりでなく、一般町人にも官立学校の一部を開放し(昌平坂学問所の一般人向け講座開設、1718)、町人のための私塾を援助して、官立に準じるものとした(江戸の会輔堂、1723、大阪の懐徳堂、1725)。また京都の町人を対象として開かれたいわゆる「心学」の塾(1729)は、18世紀後半に至ると多数の人を集めて、全国的な支部をもつようになった。「寺子屋」の初等教育を除いて、武家・僧侶による教育の独占は、18世紀に破られたのである。もしこの世紀を町人の時代と称び得るとすれば、その背景は、上層・中層の町人(および)一部の農家)にとって、高等教育が手のとどくものになったということにほかならない。町家出身の学者は輩出したばかりでなく、その思想の独創性において、武家出身の知識人を圧倒するようになった。
この時代を通じて絶えず繰り返された現象は、農民大衆の蜂起である。18世紀を通じて、「一揆」・「とりこわし」の有名なものだけでも35件以上、「強訴」・「越訴」の類を加えると、70件に及ぶ。動員された農民は、しばしば数千人、稀には数カ国にわたって数十万人の参加したことさえある(たとえば「伝馬騒動」、1764年12月~65年1月、には、武蔵・上野・下野・信濃の中山道沿いの村民、20万人以上が加ったといわれる)。原因は多くの場合に、飢餓と絡んで年貢米や米の買溜めに係っていた。その背景には、商品経済の発達と全国市場における米価の著しい動揺があり(幕府は米価が下落すると、商家に米を買支えさせ、価格が上がると、買溜めの商家を罰し、数年毎にそれを繰り返していた)、また年貢米に依存する武家の財政難とそれに伴う取立ての強化があったろうと察せられる(徳川時代に幕府が繰返した「改革」は、いずれも「倹約」を主要な「プログラム」の一つとしていた。また徂徠の「政談」以来、儒者の献策として今なお残るもののなかに、中央または地方政府の財政難の対策を説かぬものは少ない)。一揆の結果は、支配者側が農民の要求(年貢米の軽減、代官の交替など)を容れた場合にも、容れなかった場合にも、武力弾圧と農民指導者の処刑であった。徳川時代の全体を通じて知られている百姓一揆は、3000件に近いというが(2967件、年平均10.6件、青木虹二「百姓一揆の年次的研究」)、そのいずれも武家独裁の体制の変革をもとめたのではなく、その体制を前提として局地的な政策をもとめていたということは、この国の事情の中国や欧州とのちがいを示している。太平天国の乱や農民戦争はおこらなかった。しかし一揆とは性質のちがう大衆運動に、18世紀以後数度繰返された「おかげ参り」(または「抜け参り」)もある。町家および農家の妻女子弟や下男下女などが、夫や親にも告げず、領主の「往来手形」も持たず、しばしば旅費さえも調えずに、集団的に伊勢神宮の旅へ出かけた現象である。その数およそ数百万(1705年と1771年の「おかげ参り」では、2・300万とされ、1830年には、500万人ほどが参加したといわれる)。ここにも抑圧された大衆感情の発作的な表現があった。