昨日投稿分の記事も思いのほか多くの方々に読んで頂きました。読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。また、つい先日に投稿翌日での最も多い閲覧者数を更新したばかりでもあり、それらのことを踏まえると、ここ最近はまた閲覧者数が増加しつつあるのかもしれません。そしてそれは明日に出る今月の閲覧者数により確認することにします。くわえて、総投稿記事数も今月内での目標としていた940記事にまで届き、現在の投稿ペースを維持することにより5月内に1000記事に到達することも可能であると云えます。
昨今においても時折は記事作成をかなり面倒に思うこともありますが、人と話し、書籍を読むことにより、どうにか毎日の記事作成は出来るようになってきたようにも思われますので、今後は何らかのカタチでさらに洗練させ、より簡潔明瞭にして内容のある文章を作成することが出来るようになりたいと考えています。また、以前にも述べたことがあるかもしれませんが、自身の作成する文章とは、その時に読んでいる書籍の文体からの影響を少なからず受けるようであり、先日読了した『文明の衝突』は、こなれていて読み易くはあったものの、やはりその文体は英文和訳の態を残しており、その意味で、当著作を読んでいた期間とは、何と云いますか柔らかな日本語の文章を書くことが困難であったように思われるのです・・。そして現在は何人かの著者による主に民俗学関連の著作を読んでいますが、これらは全て邦人の手による著作であるためか、文章も大変読み易く感じられ、さらに現在作成している当記事もまた、花粉症により目鼻の調子は万全ではないものの、ある程度流れに乗って作成しているといった実感があります。
そしてこうした感覚とは、文章を作成する側としては(面倒な)文章作成を容易にすることから、たしかにありがたいものであるのかもしれませんが、他方で一つ一つの言語を選び、それらを積重ねて入念に文章を作成していくといった方法、あるいは必然的にそうなってしまう時期もまた『それを乗り越えることが出来る』という前提があれば、大事であり且つ実り多いものであるように思われます・・。
しかし、実際にそうした時期にある時は、そのようなことを考えることも出来ず、ただただ呻吟しながら文章作成をしていたといった記憶があります・・。また、面白いもので、そうした時期に作成された記事とは、文章的にはその状態を匂わすことがなくとも、それとは別の種類の記憶・認識により大体は想起出来るようです・・。
おそらく、これもまた記事作成の継続による余禄であるのかもしれませんが、なかなか面白いと云えます。
そういえば、冒頭に述べた昨今の閲覧者数の増加に関連することであるかもしれませんが、以前にSNSと当ブログの連動を開始した時期より、いくらか閲覧者数が増加し、また機器別に見ますとIPhoneによる閲覧者数が急激に増加していますが、これもまた、何らかの変化を示すものであるように思われます。そして、偶然であるのか、本日帰宅の電車内にて読んでいたユヴァル・ノア・ハラリ著『Sapiens: A Brief History of Humankind』内の記述が興味深く、またいくらかこれまでに述べた内容とも関連があると思われたため、明日、その記述部分を抜粋引用してみようと思います。また、以前にも述べましたが、この著作は全体の三分の一程度まで読み、その後しばらく放置し、そして最近また読み始め次第であるのですが、たとえしばらくのブランクはあるものの、また再開して読み始めますと、既読部分の記憶がある程度は甦るようであり、これはこれでまたさきに述べたことと類似して面白い現象であるように感じられました・・(笑)。
やはり出来る限り、自身が多少がんばって読み進める程度の外国語文献は読み続けた方が良いのかもしれません・・(苦笑)。
ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨今より現在に至るまでに日本列島各地にて発生した、現在も継続している地震・大雨・水害・火山噴火などの大規模自然災害によって被災された(されている)諸地域の安全そして復興を祈念しています。
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以前より時折ブログにて述べてきましたが、理系分野・文系分野それぞれを得意とする方々とは、基本的な思考回路のようなものが異なるのではないかと思うことが多々あります。一方で、しばしば『理系・文系と分けない方が良い』といった御意見を聞くことがありますが、自身の実感としては、やはりそれぞれの思考回路、さらにはそこから生じる行為態度にも傾向的な相違らしきものがあるように思われるのです。
また、同様にそこに起因することですが、ある種の優れた理系研究者・科学者に関しては、そのハナシ方にも特徴的な傾向といったものがあるのではないかと思われるのです。具体的には早口気味で声がやや甲高く、そして話す際に(幾分大きな)身振りが付随するといったことではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
そしてまた、こうした傾向・特徴は看取することは比較的容易であると思われるのですが同時にそれは実質・内実を伴いつつ真似・演技することは困難ではないかと思われます。それ故、こうした傾向を話し手が帯び始めると、聞き手はそこにある種の異常性(卓越性)らしきものを知覚し、そしてそのハナシを聞いているうちに『・・ああ、これは極めて理論的・学術的な内容を相当な速度にて話しているのだろうが、しかし不思議なことに、これは相当な速さで話しているにも関わらず、私はそのハナシを理解しつつ聞いているぞ・・しかも、このことは今まで明瞭に理解出来たことがなかったのに・・そうすると、今話しているこの人物は一体何者だろうか・・?』といった感じでついつい引き込まれていくといった現象が生じるのではないかと思われます・・(笑)。
ちなみに現在思い返してみますと、自身の文系分野の師匠は、文系学問を専攻としているにも関わらず、こうした傾向を強く持たれていると記憶しています。それ故、こうした傾向とは、明瞭に理系分野においてのみ見受けられるというわけでもなく、冒頭にて述べた意味での『傾向的な相違』として『理系分野において多く見受けられる』といったところではないかと考えます。
さて、それに対して文系分野における優れた才能とは、理系分野ほど明瞭には看取することが困難であるように思われます。そして、それはある程度の期間をかけて観察し理解・納得していくといった過程が不可欠ではないかと考えます。また、そうした観察を通じ、その主張・述べる内容と現実社会にて生じる現象の適合性・相似性の質が問われるといったことが文系分野一般における優れた才能なるものの試金石となるのではないでしょうか?
おそらくこれは詩文であれ社会科学分野における著作であれ共通の価値基準となるものと考えます。そしてまた、その適合性・相似性の質の対象となる時間の長さもまた重要であり、それが長ければ長い程、普遍的な意味での価値もまた増大(射程の長い考えとして認識される)していくのではないでしょうか?
つまり端的には、文系分野における優れた才能とは、必ずしも看取し易い突出・異彩を放つといったものではなく、ジワリジワリとボディ・ブローのように心身に効いてくるようなものであることが多いのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、その一方において、おそらくこうした文章表現にて文系分野の優れた才能について述べることに関しては懐疑的なほどに理想家肌であるといった傾向もまた彼らにはあるように思われるのですが、さて如何でしょうか・・(笑)?
いずれにせよ、自身は理系・文系双方極めて重要であると考えますが、しかし同時に、これまでのような中・高等教育におけるような文系・理系のあり方とは、もう少し考え直しても良いのではないかと思うのですが、さて如何でしょうか。
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
数年前より現在に至るまでに日本列島各地にて発生した、あるいは現在も継続して発生している地震・大雨・水害・火山噴火といった大規模自然災害により被害を被った(被っている)諸地域の安全そして復興を祈念しています。
~書籍のご案内~
昨年暮に師匠による著作が医歯薬出版より刊行されましたのでご案内いたします。どうぞよろしくお願いいたします。