2024年7月23日火曜日

20240722 慶應義塾大學醫學部百年記念誌 / 慶應義塾大学医学部百年記念誌編集委員会編 pp.2‐4より抜粋

慶應義塾大學醫學部百年記念誌 / 慶應義塾大学医学部百年記念誌編集委員会編
pp.2‐4より抜粋

1.慶應義塾医学所の開設と閉鎖

 慶應義塾大学医学部が創設される以前、慶應義塾医学所が明治初期に短期間だけ存在した。福澤諭吉は青年時代に緒方洪庵の適塾に学び、科学の重要性を痛感したため、慶應義塾が自然科学の分野においても拡充されることを希望していたという。とりわけ実験的、合理的な西洋医学には関心が強く、2回目の渡米の際には多忙をきわめていたにもかかわらず、英語の医学原書も買い求めて帰国した。「福澤諭吉伝」によると、医者になるためにドイツ語を学びたいと言った塾生の前田政四郎に対し、福澤は、英語で医学修業ができるようにするので、ドイツ語を学ぶには及ばないと答えた。そして、福澤は早速邸内に住んでいた福澤塾出身の医師の一人である松山棟庵を呼び、自分が塾舎を建てるので、そこで教えて欲しい、そうすれば塾の医学校すぐに開ける、と言った。こうした経緯があり、それが医学所設立の動機付けになったと記されている。

 福澤には江戸鉄砲洲時代の福澤塾以来、門下出身の医師も少なからずいた。松山はそのうちの1人で、子弟というよりも福澤とは親しい友人関係にあった。福澤は自ら出資して、明治6(1873)年に塾北側の空き地に学舎を建て、松山を初代校長として医学所を開設した。医学所は基本方針や会計を松山の自由裁量に任せたので、さながら松山の私塾の感があったという。慶應義塾医学研究所は設立の動機からもうかがえるように、ドイツ医学ではなく、英米の医学書をもって講義が行われた。予科3期、本科5期に分けられ、本科は主としてハルツホルン(Henry Hartshorne)の書をテキストとして使用した。

 学生数は最盛期には100人を超えるまでになった。しかし、明治13年に廃校とせざるを得なくなった。その理由として、「福澤諭吉伝」では、医学所には多大な経費がかかるが、他に官公立の医学校・病院もできてきており、そうしたなかで無理算段をしてまで医学所を維持する必要もないと考え廃校した。と述べられている。また、慶應義塾医学所では英米医学を採用したが、明治政府が設立した大学東校(のちの東京大学医学部)はドイツ医学を採用し、当時全国各地に開設されていく官公立の医学校もすべてドイツ医学を主体とした。私立として新たに開校した長谷川泰の済生学者も、教師として東京帝国大学の卒業生または上級学生を採用したこともあり、ドイツ医学を教えていた。当時、官立大学卒業生を除けば医師になる国家試験を受けてそれに合格することが必要であったが、ドイツ語を知らずに英米の医学書のみを学んだ者が国家試験を通ることは容易ではなかった。このことも廃校の原因の1つとして考えられる。

 また、その背景には慶應義塾そのものの経営難があったことも事実で、明治13年に慶應義塾出身者の有力者が集まって慶應義塾維持法が協議され、慶應義塾存続のための維持寄付金を5ヶ年賦で募ることが決められた。その申し込み総額は44000年に上り、松山棟庵も600円、当の医学所も当時としては大金の350円を払い込んだ。これにより慶應義塾本体は存続することができたが、慶応義塾医学所は廃校を免れることはできなかった。

2.医学部創設と北里柴三郎初代医学部長

福澤諭吉と北里柴三郎

 慶応義塾大学医学部は大正6(1917)年に大学部医学科として創設された。その初代医学科長(大正9年以降、医学部長)には北里柴三郎が招かれた。北里は、慶應義塾の独立自尊の精神を福澤諭吉から最も感化され、共有する人物の1人であった。

 北里柴三郎は、東京大学医学部を卒業したのち明治16年に内務省に入り衛生行政の道を選び、細菌学を専攻した。世界的な細菌学者で結核菌の発見者であるドイツのコッホのもとに6年間学び、困難とされていた破傷風の純粋培養に成功し、さらにベーリングとともにジフテリアの血清療法を発見した。ついで結核のツベルクリンの研究を行った。他国からの招きもあったがそれを断り、プロフェッソールの称号を得て明治25年5月に帰国した。

 北里は、当時公衆衛生が普及せず伝染病が蔓延している日本に、まず伝染病研究機関を設立しようと考えたが、時の政府は東京帝大などの官立の研究環境を北里に迅速に与えなかった。緒方洪庵の適塾時代からの福澤の親友である長与専斎は、自らの志を生かす場が得られず落胆していた北里を見て、その顛末を福澤に伝えた。福澤は優れた学者を見殺しにはできないと一念発起し、同年11月、芝公園の一隅に所有する土地に北里を所長とする私立の伝染病研究所を創設し、北里がそこで自由に研究を行うことができるよう取り計らった。

 この研究所は大いに繁盛したが、明治32年、研究所の運営をすべて北里に一任することを条件に、内務省管轄の官立伝染病研究所となった。この時北里は、これを受ければ独立自尊の精神が損なわれるのではないかと心配し、福澤に相談を持ち掛けたが、福澤から、北里の方針で経営が行われるのならそれで良いではないかと説得され、研究所を内務省の管轄とすることを受諾した。

 ところが大正3年10月、時の大隈重信内閣は文教統一行政整理の名の下に、突然、北里に相談なく、伝染病研究所を内務省より文部省に移管し東京帝国大学医科大学の各科に分属させることを決定した。北里にとってこの移管は、設立経緯からいって納得できるものではなく、自身の主義である総合的な研究に適わないものであるとして、伝染病研究所所長を辞任し、全職員も北里とともに総辞職するという事態に発展した。文部大臣や内務次官からも強く留任を迫られたが、このとき北里の意思は固く、一切の妥協案も受け付けなかった。

 辞職した北里は私費を投じ、コッホ研究所、パスツール研究所と並び称される北里研究所を新たに開設した。なお、それより前、伝染病研究所所長時代に、北里の名声を聞いて肺結核の新治療を受けようとして診療を希望する者が増加したため、福澤が北里のために研究所とは別に結核専門病院として、福澤の所有地に「土筆ヶ丘養生園」を建てた。この病院の経営が好調だったため、伝染病研究所所長辞任の後にすぐに新しい研究所を作る資金繰りができたのであった。