多少疲れが溜っていたのか、昨日は記事作成途中に眠くなり、一旦寝てしまいました・・(苦笑)。
そして、明け方になり目が覚め、途中であった記事を一応完成させ、投稿時間をセットしてから再度床に就いた次第です。
こうした記事作成パターンは初めてでしたが、やはりこの疲れが溜っていた原因とは、先週末にある程度の遠出をしたことに因るのではないかと思われます・・。
一方、現在は特に首都圏において、そこそこの移動はしておりますので、やはり慣れないところに赴くというのは、それなりにストレスとなり、疲労が蓄積するのかもしれません・・。
また、そのように考え、かつての鹿児島在住時を振り返ってみますと、在住も二年目あたりになりますと、所用などで関東、東海方面に出向いても、故郷(千葉・首都圏)に近づいたという感覚は皆無になっており、逆に飛行機が鹿児島空港に帰着すると、何だか安心するといった感覚になっており、その内面の変化を我が事ながら奇妙に、そして新鮮に感じていたことが思い起こされます・・(笑)。
そのことから、やはり『日常性』という感覚は、厳然として存在すると思われるのですが如何でしょうか?
さて、冒頭に書きましたように、昨日分の作成記事は本日朝に投稿しましたが、それでも今現在までの閲覧者数はこれまでのそれと大きく変化することはありませんでした・・。
そのことから『別に記事を投稿しなくても、あまり閲覧者数は変わらないのではないか?』とも思うところではあるのですが、それでも毎日の記事作成を継続しているからこそ、あまり多いとは云えないにしても、ある程度の方々に読んで頂けていると思われますので、やはり出来る限り毎日の記事作成は継続した方が良いと云う結論に至ります・・(笑)。
また、それと同時に(ほぼ)毎日記事を作成、投稿していて面白いことは、時折、他と比較して(有意に)多く読まれる記事が作成されるということです。
しかし、であるからといって、漠然とした書かれる文章の質の向上(もしくは文体の獲得)を目指す以外に、こうした(有意に多く読まれる)記事の量産を小手先の技術(そうした記事の模倣の量産)に拠って試みるのは、あまり良いこととも思われないため、大意においては自分なりの創造およびその表出の仕方には留意しつつも、今現在はとりあえず(ほぼ)毎日の記事作成、投稿にのみ重点を置いている次第です・・。
加えて、これまでにも書いたことがありますが、本来、自身のブログとは、多くの閲覧者数の獲得を狙ったものではないことから、むしろ現在の平均的な閲覧者数およびこれまでの合計とは、かなり意外なものであるとも云えるのです・・(笑)。
とはいえ、これまで一連の記事を興味を持って読んでくださっている皆様、本当にどうもありがとうございます・・。
昨2016年、熊本、山陰東部、福島周辺を襲った地震によって被災された地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。」
A「先日来より読み進めている書籍にて、ようやく7世紀半ば過ぎの『白村江の戦い』の項まで至りました。
そして、この『白村江の戦い』の項を読んでおりますと、どうしたわけか以前に観た19世紀半ば頃の『クリミア戦争』を舞台とした『遥かなる戦場』(原題「The Charge of the Light Brigade」)という映画が思い出されました。
この映画の題名は、同じ戦争・戦闘を題材としたテニスンによる、どちらかといえば勇壮な同名の詩に基づいており、この映画においては、さきほどの詩の印象(勇壮)とは異なり、平時・戦時における当時の軍上層部の腐敗、無能ぶり、そしてそこから必然的に生じる犠牲のバカバカしさについて特に力点を置いて描かれていたように記憶しています。
この映画が制作された時代背景が多少気になるところではありますが、ともあれ、このクリミア戦争はイギリス・フランス・トルコ側が勝利し、その結果、特に前二国の国際的な力が強まり、後に続く19世紀後半の帝国主義全盛期が齎されたとも云えます。
そしてまた丁度この時期とは、我が国においてもペリー来航により、幕末動乱期(維新回天期)に入ろうとする時期でもありましたので、この19世紀半ばとは、世界史、日本史的に見ても共通して一つの大きな時代の変革期であったのではないかと思われます・・。
またそれはさきに書いた『白村江の戦い』においても同様であり、この戦争での惨敗を機に、そこから惹起される外圧意識により我が国(倭国)は内乱等を経て本格的な中央集権体制へと移行したと考えられています。
それ故、当然ではあるのでしょうが、我が国も直接、間接を問わず国際間にて生じる出来事から多大なる影響に受けており、それは現在もまた同様であると云えます。
その意味で、現在の東アジアの状況とは、今後、如何なる状況への進展に結び付くのかとはやはり多少気になるところです・・。
とはいえ、そこまでハナシが大きくなりますと、あまり具体的なことは分かりませんので書きませんが、しかし少なくとも現在およびその(少し)先の未来とは、おそらく我が国の前世紀後半に見られたような、さまざまな事物の社会での急激な増加、浸透といった時代ではなく、何においても量から質への転換が図られる時代になるのではないかと思われます。
多くの事物において、その『量』とは、それぞれ測定、数値化され、比較検討すること、ひいては一般化することが容易ではあるのですが一方、その『質』となると、なかなかそのようには行かないのではないかと思われるのです・・。
さまざまな事物がその質においても、同様の手法にて、それぞれ何らかの要素による測定、数値化が為され、比較され、その大小によって良し悪しが判断、決定されるようになりますと、それはこれまでもそうであったように、無意識ながら次第に人間それ自身にまでもおよび、結果的に人間のみが持つとされる特質である創造性が壊死してしまうおそれも少なからずあるのではないでしょうか・・?
あるいは、そこで創造性を担保、保持するため、他に対する嗜虐性を強化することもまたあるのではないかとも考えます・・(これは案外新しい意見かもしれない・人身御供の起源?)。
とはいえ、そうした状況において、それぞれの民族、国民が持つ歴史、文化によって、その反応が変わってくるのではないかと思われます・・。
そのことから、やはり歴史、思想などもまた重要であるものと考えるのです・・。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて生じた地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、その後の速やかな復興を祈念しております。」
昨日分の投稿記事は、投稿翌日にしてはここ最近珍しいほど多くの方々に読んで頂けました。とはいえ、相変わらずその理由は分かりません・・(苦笑)。
しかし、一つ思い当たるのは、やはり抜粋引用した書籍が良かったのではないかということです・・。
そのことから、さきほど、この著作の頁を繰ってみますと、あちこちに赤ペンで線が引かれており、その痕跡を辿ってみると、どうやら過去の私は、この一連の著作(全三巻)のうち二巻目の半分ほどまでは読んでいたようです・・。
また、さらに遡って、何故当時ラッセルの著作を読むようになったのかと考えてみますと、それは以前もブログ記事にて書いたと記憶しておりますが、修士課程院生時の議論にてよく出てきたからであると思われます・・。
この当時は当然の如く、主に民俗学、考古学関連の書籍を読んでおりましたが、それだけではどうも自身の述べる事柄の論拠が乏しいと思われたのか、こうした思想、哲学関連の著作をも読む習慣が身に着いたのではないかと思われます・・。
ちなみにこうした議論を通して知り、自分なりにある程度精読した記憶があるのはオルテガ、フレイザー、バタイユ、コンラッドなどであり、中でもコンラッドに関しては、その著作『闇の奥』(Heart of Darkness)になみなみならぬ関心を抱き、当時その和訳が岩波文庫版と市場に出回っていないものの二種があり、前者に関しては既に入手、既読であったのですが、後者を手に入れるために、自分なりに苦心した記憶があります・・。
加えて、当ブログにおいて一記事として抜粋引用している著作(闇の奥)冒頭部分をそれまでの研究にて知り得た古代史、紀伊半島の歴史に当て嵌めて、さきの議論あるいは雑談などの際に述べていたことが思い起こされます・・(苦笑)。
それは以下のように・・
『僕は大昔のこと、我が国の初代天皇(大王)に率いられた一団がここにやってきた頃のことを考えていたんだ・・ついこの間のことのようにね・・。
そしてあとの時代、この紀の川の河口から髪を角髪(みずら)に結い、胡服に身を包み、直刀を杖立てた連中にはじまり、鎧兜姿に太刀を履いた連中がそれぞれ船団を組んでこの港、当時は雄ノ湊とか徳勒津とか云ったらしいけれども、そこからさまざまな事情を背負いつつ出立して行ったわけだが、それはね、青々とした水田、畑を走る一陣の風あるいは一瞬の稲妻のようなものなんだ・・。
われわれ人間の生なんてはかないものだーせいぜいこの古ぼけた地球が回り続けるかぎり、それが続くことを祈ろうじゃないか。
しかし、我々が今でも知り得ない世界はついこの間までこのあたりを覆っていたんだ・・。
まあ想像してもごらんよ、九州の東海岸にいた航海術に長けた連中が・・そうそう、そういえば当時の我が国には、外洋航海を目的とするような構造船はなくて、大型の丸木舟に舷側板を立てたような船だけであったらしいけれども、そうした船で瀬戸内海を東に抜けて今の大阪か奈良あたりに向かうと決まった時の気持ちをね・・。
それはいわば、自分達とは全く違う不可解な形をした青銅祭器を祀っているような連中の間を抜けて・・いや、そうした連中の真っ只中に行くわけなんだが、それでもこの当時九州東海岸にいた連中はとても勇ましかったようで、ものの本などによると、古代有数の軍事部族であった大伴氏や佐伯氏などは、ここに出自を持っているらしいのだがね・・。
ともあれ、彼等がこのあまり堅牢とはいえない、まあ準構造船とでも云えるような船に兵糧・武器その他あれこれを積んで、どうにか瀬戸内海を抜け、そうだな当時の大阪、河内平野一帯に広がっていた潟湖である河内湖に入り、その流れ込みの淀川のデルタ地帯に上陸したところあたりを想像してみたまえ・・。
砂州、沼沢、故地とは違った植生の森林、自分達とは異なるイントネーションの言語、衣服・・それまで自分達が慣れ親しんだ文化が見当たらなく、陸に上がっても狡猾な罠があったり、毒矢で射られたりして、この航海で見知った仲間達が日を追って減っていったに違いない・・。
こうした環境では、水、森林、草原、藪のなかにも、死がそっと潜んでいるのだ。
だが、もちろんそれでも彼等は特に思い惑うこともなく上陸地点を慎重に選定しながら、時には敵対部族とも戦いながら、更なる航海を続け、また上陸後は上陸後で険しい山道を通り抜け、どうにか目的地に達することが出来たのであろう・・。
彼等こそがこうしたまったく見知らぬ土地に立ち向かうに十分な強さを備えた連中だったのだ。
そして、もし、この一連の長く続く航海、在来部族との諍い、そして、この慣れない気候風土を生き抜いたあかつきには、この航海の目的地でもあり、そして、いずれは此処が己が居地ともなることもあろうという思いに元気づけられることもあっただろうよ・・。』
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺において生じた地震によって被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。