pp.374-378より抜粋
ISBN-10 : 4122014018ISBN-13 : 978-4122014015
広東に近いマカオは明代、ポルトガルの海上勢力のはなやかなころ建設された植民地であり、はじめ地方官との了解の下に借地して商館を設けたのであったが、いつの間にか、それがポルトガルの領土のように変化した。オランダがかつてこの地を奪おうとして成功せず、最後までポルトガルの植民地として残り、清朝に入っても中国沿岸における唯一のヨーロッパ人居留地であった。ヨーロッパ人は広東にきて貿易することを認められたが、家族をともなって定住することは許されなかったので、貿易が終わるとマカオへ引き上げなければならなかった。
広東における貿易は厳重な政府の統制の下に置かれた。西洋人の貿易の相手は、行商とよぶ特許商人に限られ、十三行の名があったが、この十三行商は同時に西洋人の広東滞在間の宿舎を提供した。広東の外国貿易が隆盛になるにつて行商は巨富を積み、その宿舎は豪壮な西洋式に建築されて、中国人に驚異の眼をみはらせた。
イギリスの東インド会社がインドで覇権を獲得すると、マカオを通じてイギリスの対中国貿易が盛大になった。もっともイギリスは浙江省寧波付近に独自の根拠地を獲得しようとしたが、清朝の弾圧にあって果さず、やむなくその貿易を広東に限らなければならなくなったのである。そしてイギリスが海上を制圧し、本国の工業と植民地の資源をあわせて大産業国となると、ポルトガルが絶好の位置にマカオをもっているにもかかわらず、広東貿易でイギリスが首位を占めるようになった。そしてイギリスが中国にたいするヨーロッパ貿易の指導権を掌握するようになると、それとともに、ヨーロッパ人全体に代わって貿易方法改善の責任を負わねばならなくなった。
中国政府の厳重な外国貿易統制、ことに行商の独占権はもっとも外国商人に不便さを感じさせた。貿易の利益は行商の独占するところとなり、さらに中国官憲にも多大の贈与を行わなければならなかった。事実、行商の一人である伍氏などは、十九世紀初頭において世界最大の富豪といわれたほどである。西洋商人と行商との間に紛争が起きても、マカオ駐在の外国官吏は中国官憲と対等の交渉を行う権利はなく、中国人民と同じ立場でわずかに歎願書を提出することが認められているにすぎなかった。
イギリスがインドでフランスを圧倒して覇権を握った後十年、イギリス国王の特派使節マカートニーは乾隆帝のもとに派遣されて、貿易方法の改善を提議しようとした。ところが乾隆帝はこれを、イギリス王が新しく朝貢国の列に加わろうと申し込んだものと解し、その忠誠をたたえる褒詞を与えて引きさがらせた。中国の皇帝が夷狄の臣下にたいし、朝儀において寛容な措置をとってまで拝謁したのは、莫大な恩恵を施したものと思っていた。ついでナポレオン戦争の終了後、イギリスはアマーストを嘉慶帝のもとに派遣して交渉を開こうとしたが、この時清朝は謁見の際にあくまでも朝貢使として三跪九叩頭の礼を行うことを強要したので、アマーストは北京に入りながら、謁見も行わず憤然として退去したのであった。
いろいろの不便や屈辱をこうむりながら、イギリスその他のヨーロッパ諸国が広東貿易を見切ることができなかったのは、中国には独自の特産品があったからである。なかでも中国茶は急激にヨーロッパおよび植民地に普及し、日常飲料として欠くことのできない商品となっており、貿易上の利益だけでなくこれに課する消費税が政府収入の中で巨額を占めていたことは、それがアメリカ合衆国の独立戦争の一原因になったことによって知られよう。
イギリスの東インド会社は対中貿易においては、つねに輸入超過であり、中国の茶、絹等を購うために莫大な現銀を支払わなければならなかった。この現銀が清朝乾隆時代の全盛を現出させた原動力となって働いたことは注意すべき事実である。そこでイギリスはインドに産する綿花をもって中国貿易に対する見返り品としたが、勤勉な中国労働者はこの綿花をもって綿布を織って再輸出し、かえって大きな利益をあげることができた。これが十九世紀初頭における広東貿易の大勢であったが、まもなくヨーロッパ産業革命の波は東アジアにおし寄せて、この形勢を逆転させる時がきた。
アヘン戦争と南京条約
広東を中心とする中国の紡績工業は、手工業的なものにすぎなかったので、イギリスのランカシャ機業が発達するとたちまちこれに圧倒されてしまった。これとともに、イギリス東インド会社が対中国貿易品として新しく輸出しはじめたアヘンは、中国人の嗜好になって急激に需要が増大した。アヘンは健康に害があるので、嘉慶年間に中国政府はしばしば禁令を出してアヘン販売を禁止したが、沿海の人民はイギリス商人と密貿易を行い、これを内地に転売するための秘密結社が勢力勢力をのばし、政府はさらにこれを取り締まるために苦心を払わなければならなかった。やがてアヘンの盛行は従来の貿易関係を逆転させ、銀塊は年々多量にアヘン購入のために流出し、中国内部には深刻な不況がおとずれ、多数の失業者を出し、このことはますます密貿易者の活躍をうながす結果を招いた。
道光年間、政府はふたたびアヘンの禁令を厳重にしたが、中国人民を取り締まるだけでは実効をあげにくいことを悟り、広東に渡来する外国人にも禁令を及ぼそうとした。ここに林則徐の強硬手段によるアヘン商人弾圧となったが、その結果、不幸にしてイギリスとの戦争に発展し、清朝は破れて和を請わねばならなくなった。
これまで清朝は中国だけでなく、全世界の皇帝であると自任し、中国の外国貿易は、物資が貧弱でひとりだちできない夷狄朝貢国にたいする恩恵であると自負していた。ところがこの政策を実施するにあたって乾隆帝の時には優になしえたことであっても、道光帝の時にはすでにとうていできなくなっていた世界の変化を清朝は知らなかった。そしてこの変化は清朝側における実力衰微のためばかりでなく、この間にヨーロッパには産業革命と政治革命とがあいついで行われ、ヨーロッパの威力は百年前と比較にならないほど強化されていたことからきているのであった。蒸気機関によって航行するイギリス軍艦はたやすく中国沿岸に集結され、その大砲は中国の砲台を沈黙させ、イギリス艦隊は揚子江を遮断して、中国南部より中国北部へ送る穀物輸送の途を断つことができた。半身不随となった清朝は、イギリスの提出する条件を鵜呑みにして南京条約に調印しなければならなかったのである。(1842年)
南京条約は香港をイギリスに割譲することを約したが、ここにおいて広東湾外には、西方のマカオにたいして東方に香港が自由港として開かれ、イギリスの努力・経営によって、しだいにマカオの繁栄を奪い、イギリスの商権を極東に推進する根拠地となった。日本がアメリカ使節ペリーにたいして通商条約を締結して開国したのは、これより十年後であり、アヘン戦争の結果を考慮することがあってのことであった。