2022年12月6日火曜日

20221206 中央公論新社刊 福間良明著「司馬遼太郎の時代」歴史と大衆教養主義pp.120-124より抜粋

中央公論新社刊 福間良明著「司馬遼太郎の時代」歴史と大衆教養主義
pp.120-124より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121027205
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121027207

司馬は1970年の三島事件についても、驚愕と嫌悪感をもって受け止めた。

11月25日、作家の三島由紀夫は主宰する「楯、東部方面総監・益田兼利陸将を椅子に縛って監禁した。三島はバルコニーで自衛官に向けて演説を行い、日本国憲法に縛られた戦後体制を打破すべく、決起を呼びかけた。結果的に自衛官の同調は得られず、三島は庁舎内で割腹自殺を遂げた。

 三島は右傾化した言動でも知られていたが、「潮騒」「憂国」「美徳のよろめき」など文学作品の評価が高く、ノーベル文学賞候補にも挙がっていた。それだけに、三島によるクーデター未遂事件とその最期は、社会に衝撃を与えた。新聞・雑誌でも、緊急特集が続々と組まれた。

 司馬は早くも、事件当日の「毎日新聞」(1970年11月26日)に、「異常な三島事件に接して」と題した論説を寄せている。司馬はその冒頭で、「三島氏のさんたんたる死に接し、それがあまりにもなまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない」と陰鬱な心情を吐露しつつ、「ただこの死に接して精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く」と記している(「歴史の中の日本」)。

 先に触れたように、司馬は新聞記者時代に金閣寺放火事件(1950年)を取材し、修行僧の宗門への不満があったことをスクープした。その事件を題材に取った三島の「金閣寺」(1956年)は、文壇で高い評価を獲得し、読売文学賞を受賞している。また、司馬の短編「人斬り以蔵」(1964年)を参考に制作された映画「人斬り」(五社英雄監督、69年)では、三島が薩摩藩刺客・田中新兵衛を演じた。そうした奇縁も、司馬が三島事件を重く受け止めることにつながったのかもしれない。

 司馬がこの論説のなかで強調するのは、「思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである」ということだった。

 思想は思想自体として存在し、思想自体にして高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実はなんのかかわりもなく、現実とかかわりがないというところに繰りかえして云う思想の栄光がある。(「歴史の中の日本」)

 しかし、三島は抽象的な「思想」「美」を現実の「政治」に結び付けようとした。その過程で道連れにされたのが、楯の会の青年たちだった。

 三島氏はここ数年、美という天上のものと政治という地上のものとを一つのものにする衝動を間断なくつづけていたために、その美の密室に他人を入りこまざるを得なくなった。楯の会のひとびとが、その「他人」である。

「天上のもの」を「政治という地上のもの」に結び付けることで、歯止めの利かない暴力が生み出される。その危うさを、司馬は三島事件のなかに読み込んでいた。

 司馬のこうした議論は、三島のライフコースとの相違をも反映していた。三島は1925年1月生まれであり、司馬の一学年下でしかなく、ともに戦中派世代に属している。だが、両者の歩みは大きく異なっていた。三島(本名・平岡公威)は農商務省官僚・広岡梓の長男として、東京四谷に生まれている。学習院初等科に入学し、高等科まで進んだ三島は、10代前半から小説執筆に目覚め、19歳で小説集「花ざかりの森」を刊行している。

 その後、東京帝国大学法学部に進み、戦場に駆り出されることのないまま終戦を迎え、卒業後は大蔵省に入省した。すでに「早熟の新人」として川端康成らから評価されていた三島は、一年足らずで大蔵省を退職し、文筆活動に専念する。以後、「仮面の告白」(1949年)、「潮騒」(54年)、「金閣寺」(56年)など次々と著し、早々に作家としての地位を確立した。

 こうした経歴は明らかに「一流」であり、「二流」のキャリアを歩んだ司馬に比べて、三島はそのすべての面でエリートだった。

 もっとも、エリートに対する司馬の幻滅が、三島事件の評価にどれほど投影されていたのかは定かではない。事件を評した「異常な三島事件に接して」にも、文学者・三島への敬意はあれ、三島のエリート性への言及はない。だが、司馬の三島事件への批判には、イデオロギーの過剰に対する嫌悪とともに、自らを疑うことのないエリートの威丈高さへの不快感を読み込むこともできるだろう。