「実際、ハラは恐るべき小男だった。イワン雷帝が恐ろしかったという意味で恐ろしかっただけではない。あの民族独特の、デーモニッシュな恐ろしさという意味でも、恐ろしかった。こんなに長いあいだ、こんなに背が小さかったということへの復讐や償いとして、何千年にわたる背の低さを、ひとつ実人生のうえで仕返ししてやろうとするものすごさに似たものが、ハラのなかにはあった。ハラは高さや長身に対する羨望のようなものを持っていた。それが裏返しになって表れると、高さや長身に対する情け容赦のない憎悪に変わった。ハラのなかのデーモンー大黄色人種の世界制覇心と、みずからの意志をもって、彼の内面ふかくに潜む、昔ながらの、飽くことを知らぬ、打ちかちがたい力をもった一面ーが、こころのなかで騒ぐとき、わたしはハラが、われわれのなかでいちばん背の高い男を、ただ彼よりも背が高いからという以外の何の理由もなしに、たたきのめすのをよく見た。ハラの肉体の外観からして、すでに正常の人間の姿態にたいする拒否であり、復讐であった。いわば、日本の男性の容姿の拡大諷刺がハラであり、カリカチュアであった。
ハラの背丈は実に低く、ほとんど小人と間違えられるばかりであり、あまりに横に広いため、ほとんど正方形に近かった。頭はないに近く、後頭部のほとんどない絶壁頭が、その広い肩のうえに、ほぼ垂直に鎮座していた。頭髪は濃く、漆黒だった。極度に粗いガサガサの毛質の、坊主がりにされた毛は、雄豚の背中の剛毛のように、堅く、こわばって、空中に突きだしていた。両腕は異例なまでに長く、ほとんど膝にとどかんばかり。反対に足のほうは、ばかに短くて極端に太く、ひどいガニ股になっていたから、われわれといっしょに収容所に入れられていた水兵たちは、ハラのことを、〈旧式短剣足〉(「旧式短剣)は、短い弓形の護身用短剣で、昔の海軍水兵は、これを戦闘の際に使用した。今日では、海賊の絵などに、しばしば見られる)と呼んでいた。口のなかには、薄黄色い、巨大な、丹念に総金縁にした歯がズラリと雁首をならべていたが、顔のほうは、ほとんど真四角に近く、額は狭くて、どことなく類人猿を思わせた。ところが、ハラの両眼ばかりは、実にすばらしく美しく、容貌や容姿と、まるで何の関係もないようだった。彼の両眼は、日本人にはまれなほど大きな、つぶらな瞳で、光と光輝を帯び、ごく上等のシナの翡翠のような、暖かな、いきいきした、輝きをもっていた。美しい両眼のおかげで、この恐るべき男が、どれだけ滑稽に堕さずにすんでいたか、まことに驚くべきものがあった。その両眼をちょっとのぞきこんだだけで、からかう気持ちは消えてなくなってしまうのだった。この歪くれた男は、どことなくヨーロッパ人の理解を越えた、献身的な、完全に無私の人物なのだということが、その瞳をちょっとのぞいただけで納得がいくのだった。
そのハラの両眼に、最初にわれわれの注意をむけさせてくれたのは、実に、ハラの手にかかって、いちばん酷い目にあったジョン・ロレンスなのだ。おそらくロレンスは、ハラのために殺された人をのぞけば、もっとも酷い目にあった男であろうが、ある日、獄内で、ものすごく撲たれたあと、彼がこう言ったのを、わたしは今でもはっきりと覚えている。
「いいかね、君がハラという男について忘れてはならないことはだ」と彼は言った。「彼は個人でもなければ、ほんとうの意味で人間でもないということなんだよ。」さらに言葉を続けて、彼はこう言ったのだった。ハラは生きた神話なんだ。神話が人間の形をとって現れたものなんだ。強烈な内面のヴィジョンが具現したものなんだ。日本人を一致団結させ、彼らの思考や行動を形づくり、強く左右する、彼らの無意識の奥深く潜む強烈な内的ヴィジョンの具現なんだ。2600年にわたるアマテラスという太陽の女神の支配の周期が、ハラの内面で燃えさかっていることを忘れてはいけない。古代日本の内に深く眠る民族の魂の、気づかれないほどひそやかなささやきに、自分ほど忠実で忠誠心ある者はないと、ハラは確信しているんだ。民族の魂の励ますようなささやきを、心のうちに受け入れるほど、ハラという男は、おのれを虚しくできる。単純な無教育な男であるハラは、高等教育などのつけ入る余地のない原始のままの高潔さをそなえた田舎者なんだ。昔の神話や伝説をすべて本気に信じこんでいればこそ、なんのためらいもなしに、人を殺すことができるんだ。つい前の被、ハラはロレンスにある体験を話して聞かせたばかりだった。それは、満州で、シナ軍が線路に仕掛けた地雷を知らずに、日本兵を満載した列車が驀進していったところ、突如、列車は宙につりあげられて、ふしぎや、地雷の届かぬとなりの線路にまた無事におろされたという話で、これもアマテラスという太陽の女神のご加護だったという。「とにかく、彼の両眼をちょっとのぞいてみることだ」とロレンスは言った。「あの瞳には一点の下劣さも不誠実さの影もさしていない。太古の光を宿しているだけだ。現代の油を補給され、光を増した、明るく輝く太古の光がね。あの男には、なんとなく好きになれる、尊敬したくなるなにかがあるな。」
この最後の言葉は、当時のわれわれにとっては、あまりにも異端の考えだった。私は、すぐさま抗議を申し込んだ。ロレンスが何と言い、何と釈明しようとも、ハラという人物に関してわれわれの抱いていた〈白の野獣〉いや〈黄色の野獣〉という考えをぬぐいさるものではなかった。わたしはロレンスの言葉をうけつける気になれなかった。」
株式会社新思索社刊 L・ヴァン・デル・ポスト著 由良君美・富山太佳夫訳「影の獄にて」
ISBN-10: 4783511934ISBN-13: 978-4783511939