この記事は主に自身の経験およびそこから生じた個人的な見解について述べた次第ですが、こうした見解が今後出来るだけ広く拡散してくれたら面白い社会になるのではないかと思いますが、これを読まれた皆様は、どのように考えますでしょうか?
加えて、予め正直に申し述べておきますと、このブログ記事(20160811)にて記されている、学会発表などの場において用いられる英語についての見解とは、特にオリジナルといったわけではなく、以前より師匠をはじめ周囲の方々が述べられていたことであり、私もまた自然とそれに賛同するようになった次第です。
また、これを端的に申しますと「海外留学により流暢、キレイに話すことができるようになった英語能力と、自国内での研鑽によって培われた傍から聞くと、幾分いかめしく、古風な論文英語での能力とは、前者に比べ後者が決して劣るものではなく、むしろ第一義的に我々は日本人であることから考えると、こちら(後者)の方が、それを得るための労苦などから勘案すると、より価値があるのではないであろうか?」ということになります。
また、これを端的に申しますと「海外留学により流暢、キレイに話すことができるようになった英語能力と、自国内での研鑽によって培われた傍から聞くと、幾分いかめしく、古風な論文英語での能力とは、前者に比べ後者が決して劣るものではなく、むしろ第一義的に我々は日本人であることから考えると、こちら(後者)の方が、それを得るための労苦などから勘案すると、より価値があるのではないであろうか?」ということになります。
その意味において、昨日のブログ記事に記された研究者、院生(?)の発表態度とは、私に感銘を与えるものであり、且つ、その発表内容が(私にとっても)比較的分かりやすく、明晰であったことを考えると、益々その感を強くさせます。
そのように考えてみますと、古より現代に至るまで外来語の習熟を余儀なくされた我々およびその祖先等は、古においては隣国の文字言語である漢文を訳しながら読むことを学び、また近代以降に多く流入した西欧各言語においても、概ね同様の態度を以って接しました。その結果、再生産されるものとして、日本風の漢文および同様の英文といったものが生じ、また、そうした文化(?)とは、現在もなお脈々と生き続けているのではないかと思います・・。また、他面において、明治維新以降、太平洋戦争の敗戦、あるいはその後しばらくまでの医学教育におけるドイツ語においてもまた、同様のことがいえるのではないかと思います。しかし、何れにせよ、これら日本風の外来語による会話、文章にて、その意味が精確に相手に通じるのであれば、特に問題はないのではないでしょうか・・?
そして、こうしたことを国内に当て嵌めて考えてみますと、各地方における訛りにおいても本質的には同じであり、とりあえず意味が精確に通じれば良いのではないかとも思われますが、如何でしょうか・・?
・・・その点面白いことに、大学というところは基本的に関東弁、標準弁が用いられるところであり、教員、学生さん等は様々な出身地を持っているはずなのですが、大抵何故か皆さん、関東弁・標準弁を用いておりました・・。
・・・そして、ここまで記していて、不図以前抜粋引用しました中井久夫の文章が想起されましたが、もしかすると、ここに何かしら関連があるのかもしれません・・。
ともあれ、それを下に示します。」
中井久夫著「アリアドネからの糸」みすず書房刊pp.134-137より抜粋
「身体の外傷は八ヶ月すれば有機化されるが、心の外傷は恒久的に治癒しないことがありえる。」ということもできるであろう。なお、覚醒剤を使ったことのある者が長年経ってから起こす覚醒剤を使った時の異常体験のフラッシュバックも、古型の記憶の装置となんらかの関係にあるものであろう。いっぽう、新型の記憶は極限状況においては麻痺する。
これら侵入症候群と対をなすとされている麻痺・狭窄症状numbing or constrictionであると私は思う。そして、一般に考えられているように両者は交代して現れるのではなく、古型の記憶の賦活が目立つが、新型の記憶の麻痺が目立つかの相対的な違いにすぎないと私は思う。おそらく、古型の記憶はヒト以前に遡るであろう。
ゾウがかつて苛めた相手を何十年か後に攻撃したという話がある。
これに対して新型の記憶は成人言語性の成立以後である。
つまり、言語と結びついていてヒトだけである可能性がある。では人類史上いつごろのことであろうか。
その歴史的時期は不明であって、ある人は非常に古い時期にこれを措定するであろうが、無文字社会における成人文法性のあり方、そこにおける個人史の形と意味についての研究があまりに不足していること、無文字社会への共感が得にくいことのために、私はこれ以上深入りすることは避けたい。
ただ無文字言語と有文字言語との差には注目しなければならない。
ともあれ、それを下に示します。」
中井久夫著「アリアドネからの糸」みすず書房刊pp.134-137より抜粋
「身体の外傷は八ヶ月すれば有機化されるが、心の外傷は恒久的に治癒しないことがありえる。」ということもできるであろう。なお、覚醒剤を使ったことのある者が長年経ってから起こす覚醒剤を使った時の異常体験のフラッシュバックも、古型の記憶の装置となんらかの関係にあるものであろう。いっぽう、新型の記憶は極限状況においては麻痺する。
これら侵入症候群と対をなすとされている麻痺・狭窄症状numbing or constrictionであると私は思う。そして、一般に考えられているように両者は交代して現れるのではなく、古型の記憶の賦活が目立つが、新型の記憶の麻痺が目立つかの相対的な違いにすぎないと私は思う。おそらく、古型の記憶はヒト以前に遡るであろう。
ゾウがかつて苛めた相手を何十年か後に攻撃したという話がある。
これに対して新型の記憶は成人言語性の成立以後である。
つまり、言語と結びついていてヒトだけである可能性がある。では人類史上いつごろのことであろうか。
その歴史的時期は不明であって、ある人は非常に古い時期にこれを措定するであろうが、無文字社会における成人文法性のあり方、そこにおける個人史の形と意味についての研究があまりに不足していること、無文字社会への共感が得にくいことのために、私はこれ以上深入りすることは避けたい。
ただ無文字言語と有文字言語との差には注目しなければならない。
無文字言語は語彙が数千を越えることができないようである。
無文字言語に近い現代の方言の語彙もその範囲である。
また、文脈を形成し維持して、文を文脈から遊離させないために、反復や常套句を盛んに使用し、複合的な文章形成を避けるという点も特徴的である。方言が成人言語でないということはできないが、もっとも発達している日本方言である関西弁でも、それを使って今書いているような議論文を私は書けない。無文字言語の世界をわれわれは方言によってかいまみることができそうである。
古型の静止型記憶が成人期までどんどん積み重なっていったとすれば、それはちょうど未整理の写真が何年、何十年分も溜まったようなもので、そういう不精をしてしまえばアルバムに仕立てることが大仕事になる。
古型の静止型記憶が成人期までどんどん積み重なっていったとすれば、それはちょうど未整理の写真が何年、何十年分も溜まったようなもので、そういう不精をしてしまえばアルバムに仕立てることが大仕事になる。
新式の記憶が立ち現れる必要があったのは、ヒトの記憶容量の増大に促されてのことではあるまいか。ここで晩年のロラン・バルトが「(一枚一枚の)写真は未来を持っていない」といったのが思い合わされる。
古型の記憶は絶対音階の世界、新型の記憶は相対音階の世界にたとえられるかもしれない。絶対音階を持つことは音楽家には非常に重要な前提条件といわれるけれども、絶対音階を持った人の不幸もある。駅や百貨店で鳴っている音楽を私が聞き流せるのは相対音階しか持っていないからである。絶対音階を持ってしまった人にはすべて音程の狂った音に聞こえて苦しくてたまらないであろう。実際そういう少女のそういう訴えを聞いたことがある。ここで自閉症児が特定のサイクルの音に反応して落ち着かなくなることが思い合わされる。たとえば冷蔵庫を止めるとそれだけで問題が解消する。彼ら彼女らはひょっとすると絶対的音階優位の世界から脱皮できなかった人ではあるまいか。電話帳一冊をまるごと覚えられるという異能も「絶対音階」的な世界に属するものではなかろうか。」
古型の記憶は絶対音階の世界、新型の記憶は相対音階の世界にたとえられるかもしれない。絶対音階を持つことは音楽家には非常に重要な前提条件といわれるけれども、絶対音階を持った人の不幸もある。駅や百貨店で鳴っている音楽を私が聞き流せるのは相対音階しか持っていないからである。絶対音階を持ってしまった人にはすべて音程の狂った音に聞こえて苦しくてたまらないであろう。実際そういう少女のそういう訴えを聞いたことがある。ここで自閉症児が特定のサイクルの音に反応して落ち着かなくなることが思い合わされる。たとえば冷蔵庫を止めるとそれだけで問題が解消する。彼ら彼女らはひょっとすると絶対的音階優位の世界から脱皮できなかった人ではあるまいか。電話帳一冊をまるごと覚えられるという異能も「絶対音階」的な世界に属するものではなかろうか。」