2016年2月26日金曜日

20160226

A「先日来の風邪のため、ここ数日ほとんど書籍を読んでおりませんが、それによって不図思ったのですが、ある程度の期間、書籍を読んでいないと、自身の読書を含めた、言語により整理、制御されている様々な記憶の中に入ってゆくことがスムーズに行かなくなるのではないかと思いました・・。
そして、それは私としてはなかなか面白い発見であったと思います()。」


B「・・ええ、ひとことで記憶といいますと、何だか物理的な実在を占めるものを想像してしまいますが、そうではないですね・・。
とはいうものの学問、勉強などをして得られた情報とは、一体どのようにストックされているのでしょうかね?
また、それと関連して、何か大きな心理的ショックを受けると記憶が無くなると聞きますが、おそらくあれは記憶そのものがなくなるのではなくて、記憶にアクセスするための「何か」が機能しなくなるということではないかと思います。」


A「ええ、私も以前そのようなことを聞いたことがあります。
またそれと類似したことを異なる視点で描いたものが夏目漱石の「夢十夜」の第三夜ではないかと思います・・。
しかし、あの物語の視点にて「記憶」なるものをとらえてみますと「我々が古くからの記憶を蓄積していないことは幸せなことであるかもしれない。」とも考えさせますね・・。
また、その意味において、歴史を知る、学ぶということは、心の自然現象の一つの側面である「忘却」に敢えて抵抗する行為であるのかもしれません・・。
そしてそれ故、古来より歴史といった学問が主に男性のものであるとされてきた原因であるのかもしれません・・。」


B「・・うーん、そういったことは多分、国、地域などの文化によって大分偏差があるとは思いますが・・。
とはいえ、そうしたことを近現代史で考えてみますと19世紀あたりから列強と呼ばれ、そして現在もなお先進国とされる国々においては、やはり自国の歴史に対し何といいますか確固たるものを持っているように思えます。
たとえ何度か大きな敗戦を味わったとしても・・。
その意味において我が国は太平洋戦争に敗れはしましたが、歴史などにおいてはそうしたことを過度に引きずる必要はないと思うこともあるのですが・・。
あるいはまた、これは過度に敗戦を引きずっているのではなく、さきほど述べました太平洋戦争の敗戦という大きなショックによって国全体が過去の記憶にアクセスする「何か」が機能していない状態であるのかもしれません。
そして、この「何か」とは、おそらく戦後までは時代を通じ割合自然に社会に継承され続けたものであったと思うのですが、現在に近づくにつれ、急速に失われていったのではないかと思います・・。
またそれは、様々な科学技術の進化発展とも何かしらの関係があるのではないかと考えます・・。
まあ、そうであれば、これはある意味普遍的、世界的な現象であるのかもしれませんが・・。
ともあれ、そのような意見を述べると、アナクロニズム、反動復古主義者であるとかのレッテルを貼られるのが通例であるのですが、現在の様々な状況を見てみますと、どうもそれだけでは済まされないような感じを受けます・・。
また、たとえ少数ではあっても、そのような主張をする人間がいても良いのではないかと思います・・まあ、それも一種の多様性ではないでしょうか()?」


A「・・戦後日本社会とは、ショックによる記憶喪失状態ということですか・・。
そうした意見は三島由紀夫、会田雄次あるいは岸田秀あたりが書いていたように思いますが、今現在そういわれてみますと、分かるような気がしますね・・。
また敗戦により失われた歴史の記憶を代替するものが戦後日本社会において興隆し、今現在世界的な文化となったともいえる漫画、アニメであるのかもしれませんね・・。
そうしますと、これは名誉なことであるのか、皮肉なことであるのかイマイチ判然としませんね・・()。」


B「ああ、戦後日本の漫画、アニメに対するそうした考えは、以前私のブログに少し書いたことがありましたが、当時はたしか「現代の神話」と表現していたのではないかと思います・・。
しかし、今のAさんの表現の方がわかりやすく、的確であるかもしれません・・。
そうしますと我々戦後の日本人とは、実際にあった歴史に対し代替となる異なった文化を創造し、それが海外にも受けているということになるのですが、それもまた我が国においてよく見られる「換骨奪胎」「見立て」に通じるものがあるのかもしれません・・。
しかし、そのように考えてみますと、この根っことは思いの他に深く、近代以前にさかのぼるかもしれませんね・・。」


A「ええ、そのようなヒット・ポイントをずらして、ショック、ダメージなどを最小限にしようとする試みとは、長年に渡る文化的な営みの結果として形成されたのだと思います。それは、そうですね・・万葉集やそれ以前の歌垣の際の相聞歌などに淵源があるのかもしれません・・(笑)。
しかし残念なことは、そうした自身が属する文化の持つ特徴、特性に関しての歴史、文化的な背景を日常会話に近いレベルにて能動的に活発に本音で話し合う機会が少ないということです・・。
そして、そのようなことから、さきほどのBさんの発言が出てきたのではないかと思います・・。
あるいはこうしたことは「議論文化の成熟」といったことに因るものなのでしょうか?
まあ何れにしましても言語、コトバの問題ではあるのですが・・。」

「一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。」