本日の首都圏は日中を通じて温暖であり、既に冬は過ぎたように感じられました。しかし同時にここ最近は、新型コロナウィルス感染症の変異種の感染者数が増加しつつあるとのことから、相変わらずの油断の出来ない不安な状況と云えます・・。
さて、昨日の投稿記事は、思いのほか多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。そして、当記事では、主に我が国にて人が人に対応する際の「癖」のようなものを書いたと云えますが、そこから思うことは、我が国にはどうしたわけか、人間に対する考え全般に、あまり思想的な厚み、歴史を経て蓄積されたものが乏しく、あるいはまた、古来より我が国の社会とは、それで済む、分かり合える社会であったようにも思われるのです。
それは「そうしたことを考える機会が歴史を通じて乏しかった」というよりも、さらに深いところの「そうしたことを考えてしまう性質が乏しかった」のではないかと、ボクには思われるのです。(巨視的には民族的な均質性ゆえにか?)
以前読んだ書籍に、たしか19世紀始め頃、帝政ロシアの船が蝦夷地(北海道)周辺にポツポツと出没する頃になりますと当時、蝦夷地を治めていた松前藩か幕府出先機関が、この地の更なる警備強化の命を受け、何れかの数人が蝦夷地北方の海岸付近に見張り小屋を建て外国船に対する警備をすることになったのですが、その記述によりますと、彼等は本州と比較すると寒さの厳しい蝦夷地であっても、あまり寒さを防ぐといった居住についての工夫などはせず、そのまま次第に寒さのため衰弱していったとのことでした。おそらく、全てそうであったとは思われませんが、しかし、往々にして、江戸時代のお侍さんとは、このような感じであったのではないかとも思われるのです。また、そうした振舞いとは、ひと昔前、昭和あたりには珍しくなかった「全く家事をしない一家の主人」にも親和性があり、これらは同じ精神的な系譜上にあるように思われます。
こうした態度は、見方次第でさまざまな表現が出来ると思われますが、一つには「潔い」といったコトバで表すことも出来るのではないかと思われます。そうしますと、それは太平洋戦争時の旧日本軍による決死的な攻撃の背景にある精神構造にも類似すると思われてきます。端的にそれらは「自分の生への執着を少なくし、任務完遂には執着する」といった、ある種、自己犠牲的な精神とも見受けられますが、この精神は、さまざまな組織において、特に従業員や被治者が持つべき徳目としては極めて有効であることから「任務完遂は誰・何のため?」といったことはあまり考えられることはなく、現在に至るまで(金科玉条のように)生き永らえているのだと思われます。
しかしながら一般的に「ヒトは自分がされたことを他者に対しても行う」と云われることから、こうした精神構造を持つ方々が、人々を治めるようになりますと、まさに無意識のうちに、その従業員や被治者に対しても自己犠牲を強いるような施政になることは火を見るよりも明らかであるとも思われるのです・・。
そのように考えてみますと、身体的な快適さを求めることも特に悪いことではなく、また、そこでさまざまな経験を経ることにより「快適さ」の質なども実感を通じて理解出来るようになるのではないかと思われるのです。
そして、そこで初めて「自己犠牲」と「快適さの追求」のバランスを取ることが出来るようになると思われるのですが、しかし、ここでとても重要であると考えるのが、この二つを理論的に結節させる観念・思想の存在です。
おそらく、歴史を通じ我が国の社会では、この観念・思想が不在であるか、あるいは普遍的なものが存在しないのではないかと思われるのです。(ガラパゴス?)
そして、多くの人々は薄々気が付いていたのかもしれませんが、それがないことが明らかになってしまったのが丁度、新型コロナウィルス感染症に社会全体が見舞われている現在といったところではないでしょうか?
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。