2024年6月28日金曜日

20240627 株式会社筑摩書房刊 宮台真司 速水由紀子 著「サイファ 覚醒せよ!」pp.156-158より抜粋

株式会社筑摩書房刊 宮台真司 速水由紀子 著「サイファ 覚醒せよ!」pp.156-158より抜粋
ISBN-10 : 448086329X
ISBN-13 : 978-4480863294


 たとえば僕は、この間「アメリカン・ヒストリーX」という映画を見ましたけれども、この映画には「表現」と「「動機づけ」の関係をめぐて大きな弱点がありましたよね。「NIGHT HEAD」とよく似ていて、能動的な兄と、受動的な弟という黄金パターンですが、父親を黒人に殺されたのがきっかけでネオナチのリーダーになった兄の影響で、弟もネオナチにかぶれているという設定です。ところが兄は三年間刑務所に行ってシャバに出てくると、既に転向していてネオナチを捨てている。誰もがいぶかしむわけですが、ある日、弟を読んで「自分は刑務所で白人からも黒人からも疎外されて殺されかけたが、それを一人の黒人に助けられた。彼がいなかったら自分は死んでいた」という物語を語って聞かせます。するとわずか三十分で弟がオルタネーション(翻身)するんですね。弟は「わかった」とか言って、兄貴と一緒に部屋のネオナチ、ヒットラー、鍵十字のポスターをビリビリ破くわけです。

 それを見て、僕は頭を抱えました。「兄が語る程度の物語で、弟が翻身することなどありえない」と思ったわけです。少なくとも僕はまったく説得されなかった。もし説得された観客がいるとすれば、欧米の近代社会に生れ育ってヒューマニズムの確固たる信念ー物語への信奉ーを予め抱いているような連中に限られるでしょう。僕たち日本人はそういうヒューマニズムという信念を持っていませんから、多くの人は兄の語る陳腐な物語程度で説得されることはありえず、当然のことながら違和感が残るわけです。

 つまり、「表現」の中身に納得して、弟が翻身したという話になっている点が、僕たち的には無理があるんです。僕だったら、演出の仕方を全く変えるでしょう。具体的には、弟から見て、兄の語る物語はよく分からないけれど、翻身する前の兄より翻身後の兄貴のほうが「何だかすごく」見え、その理由の分からない「すごさ」に感染して翻身する。という具合に演出するはずです。言い換えれば、「表現」ではなく「表出」のレベルで共振するという描き方になるはずなんです。

速水 私も見ましたたが、兄は負け犬に見えましたね。

宮台 ムショから出てきた後の兄の外見はみじめに見えましたよね。でもそれはOKなんです。というか、そのほうがいい、兄が単にみじめに落ちぶれたのだと思ったら、兄が「本当のこと」を喋りだした途端に、「いや、違う。兄貴の言うことは分からないけど、今の兄貴のほうが全然すごい」というふうに「すごいものに感染する」「聖性にうたれる」体験が弟を訪れる。落ちぶれたように見えたほうが、突如降臨した聖性を際だたせるには都合がいいんです。

「すごいものに感染する」ということ

 それは近代表現が覆い隠しがちな、アジアの民族に限らず人間が誰しも持っている感受性の次元に対応しているわけですよ。逆に言えば、僕たち日本人だってもちろん物語や意味に動かされることがあるわけで、「表現」次元で動機づけを獲得することはありえます。しかし、どうもここ数十人の短い間に、僕たちは「表出」次元で感応することのー「名状しがたいすごいものにうたれる」経験のー限りないエクスタシーを、変な話、忘れはじめているようなんですね。