pp.42-46より抜粋
ISBN-10 : 4122068606
ISBN-13 : 978-4122068605
文章を味わう習慣
歌舞伎に行きますと、ときどき侍が悠々たる恰好で出てきて、見台に本を置いて「どりゃ書見をいたそうか」と言って本を読み出します。
われわれはこんなふうに本を読むことはほとんどありません。昔はわれわれが字引を枕にしたり、お尻に敷いたりすると親に叱られたものですが、いまではそんなことを叱る親はありますまい。泉鏡花氏は、ほんのちょっとした字の書いてある新聞の切れはしでも、およそ字の書いてあるものは粗末に扱うことをしなかったと言いますが、いまのマス・コミ時代に、そんなに文字を大切にしていたら身がもたなくなるでしょう。週刊誌は読み捨てられるのが運命であり、三つ四つの駅を通過する通勤の電車のなかで、それは隅から隅まで目を通されて網棚に残されます。この情勢がますます激しくなることは必然的であって、私は外国の飛行場の待合室で、大きい「ライフ」が椅子の上に置かれているのを忘れものと思って人に呼びかけたことがあります。すると立って行った人は、それは捨てたのだと言ってすましていました。「ライフ」のようなアート紙の大判の立派な雑誌は、日本ではまだ大切にするでしょうが、アメリカでは週刊誌と同じように扱って、ペラペラッとめくられてたちまち捨てられてしまう運命にあります。
このような時代に次第に文章を味わう習慣が少くなるのは当りまえと言えましょう。しかし昔の人は小説を味わうと言えば、まず文章を味わったのであります。今日、小説の読者は、ちょうど自動車で郊外を散歩するようなもので、目的地が大切なのであって、まわりの景色や道端の草花やちょっとした小川の橋の上で釣をしている子どもの姿も、そういうものは目にとめずに、目をとめたにしても一瞬のうちに見過してしまいます。しかし昔の人は本のなかをじっくり自分の足で歩いたのです。交通機関のない時代としては無理もありません。歩けば歩くなりにいろいろなものが目を惹きます。歩くこと自体は退屈ですから、目に映るもの一つ一つを楽しみ味わうことが、歩くことの喜びを豊富にします。私はこの「文章読本」でまず声を大にして、皆さんに、文学作品のなかをゆっくり歩いてほしいと申します。もちろん駆ければ十冊の本が読めるところが、歩けば一冊の本しか読めないかもしれません。しかし歩くことによって、十冊の本では得られないものが、一冊の本から得られるのであります。小説はそのなかで自動車でドライヴをするとき、テーマの展開と筋の展開の軌跡にすぎません。しかし歩いていくときに、これらは言葉の織物であることをはっきり露呈します。つまり、生垣と見えたもの、遠くの山と見えたもの、花の咲いた崖と見えたものは、ただの景色ではなくて、実は全部一つ一つ言葉で織られているものだったのがわかるのであります。昔の人はその織模様を楽しみました。小説家は織物の美しさで人を喜ばすことを、自分の職人的喜びといたしました。
しかし現代では文章を味わう習慣よりも、小説を味わうと人は言います。彼の文章がいいという言葉はほとんど聞かれず、彼の小説はおもしろいと言われます。ところが文章とは小説の唯一の実質であり、言葉はあくまでも小説の唯一の材料なのであります。あなた方は絵を見るときに色彩を見ないでしょうか。ところが言葉は小説における色彩であります。あなた方は音楽を聴くときに音を聴かないでしょうか。ところが言葉は小説における音譜なのであります。さっきからたびたび繰り返したように、文章を味わう習慣は、民衆のあいだでは長いこと耳から味わう習慣となっておりました。それからまた貴族のあいだでは目で味わう習慣になっておりました。目にしろ耳にしろ、日本の古典には味わわれるような文章がたいへんに多い。いわゆる美文と称されるものはその代表的なものであって、内容などはどうでもよく、ただ味わうために作られた、ちょうど見るための美しい日本料理のようなものであります。われわれはなんでも栄養があるものしか取ろうとしない時代に生れていますから、目で見た美しさというものをほとんど考えませんが、文章というものは、味わっておいしく、しかも、栄養があるというものが、いちばんいい文章だということができましょう。文章の味には水からウィスキーまで、さまざまなものがあります。また油揚げからビーフステーキまで、さまざまなものがあります。そのどの味が最上のものだということを私は言おうとするのではありません。しかし文章の味には、味わってわかりやすい味もあれば、十分に舌の訓練がないことには味わうことができない味もあります。これから私はたくさんの例文をあげて、それぞれの文章の味を解説して行こうとするのですが、日本語のいかに堪能な西洋人でも、森鷗外や志賀直哉の文章がわかりにくいのは、それがきわめて微妙な味、水に似た味わいをもっているからにほかなりません。もちろん水に似た味わいは、食通が最後に玩味するものでありますが、濃い葡萄酒やウィスキーに似た味わい、一例が谷崎潤一郎氏の文章の味わいも捨てられないものであります。
われわれはいまや空想的な飾りだけの文章を美しいとは言いません。しかしそうかといってお役所の通達のような文章をも美しいとは言いません。飾りがなくって、しかもお役所の通達のようではないもの、そのような文章の味は、一面それを味わう側も進化していると言えるかもしれません。しかしそのような文章の味が、微妙なものを求められれば求められるほど、一般の民衆の文章の好みと、さきほど言ったリズールの味わい好む文章とが、ますます離れてくることはいたしかたないことで、ここに例はあげませんが、私は大衆に愛好されている、むしろ熱狂されている作家たちの文章のなかに、実に下卑た悪文の数々を見出すことができるのであります。それに較べると近松や西鶴を喝采した時代の民衆は、はるかに精妙な舌をもっていたと言わなければなりません。文章の美の平均水準からいうと、近松のような装飾的な文章が、いまや古くなり、無意味になったと言いながら、そういう文章を好んだ時代の方が、少くとも文章を味わう習慣を、その喜びを深く知っていたということは言えるのであります。
このような時代に次第に文章を味わう習慣が少くなるのは当りまえと言えましょう。しかし昔の人は小説を味わうと言えば、まず文章を味わったのであります。今日、小説の読者は、ちょうど自動車で郊外を散歩するようなもので、目的地が大切なのであって、まわりの景色や道端の草花やちょっとした小川の橋の上で釣をしている子どもの姿も、そういうものは目にとめずに、目をとめたにしても一瞬のうちに見過してしまいます。しかし昔の人は本のなかをじっくり自分の足で歩いたのです。交通機関のない時代としては無理もありません。歩けば歩くなりにいろいろなものが目を惹きます。歩くこと自体は退屈ですから、目に映るもの一つ一つを楽しみ味わうことが、歩くことの喜びを豊富にします。私はこの「文章読本」でまず声を大にして、皆さんに、文学作品のなかをゆっくり歩いてほしいと申します。もちろん駆ければ十冊の本が読めるところが、歩けば一冊の本しか読めないかもしれません。しかし歩くことによって、十冊の本では得られないものが、一冊の本から得られるのであります。小説はそのなかで自動車でドライヴをするとき、テーマの展開と筋の展開の軌跡にすぎません。しかし歩いていくときに、これらは言葉の織物であることをはっきり露呈します。つまり、生垣と見えたもの、遠くの山と見えたもの、花の咲いた崖と見えたものは、ただの景色ではなくて、実は全部一つ一つ言葉で織られているものだったのがわかるのであります。昔の人はその織模様を楽しみました。小説家は織物の美しさで人を喜ばすことを、自分の職人的喜びといたしました。
しかし現代では文章を味わう習慣よりも、小説を味わうと人は言います。彼の文章がいいという言葉はほとんど聞かれず、彼の小説はおもしろいと言われます。ところが文章とは小説の唯一の実質であり、言葉はあくまでも小説の唯一の材料なのであります。あなた方は絵を見るときに色彩を見ないでしょうか。ところが言葉は小説における色彩であります。あなた方は音楽を聴くときに音を聴かないでしょうか。ところが言葉は小説における音譜なのであります。さっきからたびたび繰り返したように、文章を味わう習慣は、民衆のあいだでは長いこと耳から味わう習慣となっておりました。それからまた貴族のあいだでは目で味わう習慣になっておりました。目にしろ耳にしろ、日本の古典には味わわれるような文章がたいへんに多い。いわゆる美文と称されるものはその代表的なものであって、内容などはどうでもよく、ただ味わうために作られた、ちょうど見るための美しい日本料理のようなものであります。われわれはなんでも栄養があるものしか取ろうとしない時代に生れていますから、目で見た美しさというものをほとんど考えませんが、文章というものは、味わっておいしく、しかも、栄養があるというものが、いちばんいい文章だということができましょう。文章の味には水からウィスキーまで、さまざまなものがあります。また油揚げからビーフステーキまで、さまざまなものがあります。そのどの味が最上のものだということを私は言おうとするのではありません。しかし文章の味には、味わってわかりやすい味もあれば、十分に舌の訓練がないことには味わうことができない味もあります。これから私はたくさんの例文をあげて、それぞれの文章の味を解説して行こうとするのですが、日本語のいかに堪能な西洋人でも、森鷗外や志賀直哉の文章がわかりにくいのは、それがきわめて微妙な味、水に似た味わいをもっているからにほかなりません。もちろん水に似た味わいは、食通が最後に玩味するものでありますが、濃い葡萄酒やウィスキーに似た味わい、一例が谷崎潤一郎氏の文章の味わいも捨てられないものであります。
われわれはいまや空想的な飾りだけの文章を美しいとは言いません。しかしそうかといってお役所の通達のような文章をも美しいとは言いません。飾りがなくって、しかもお役所の通達のようではないもの、そのような文章の味は、一面それを味わう側も進化していると言えるかもしれません。しかしそのような文章の味が、微妙なものを求められれば求められるほど、一般の民衆の文章の好みと、さきほど言ったリズールの味わい好む文章とが、ますます離れてくることはいたしかたないことで、ここに例はあげませんが、私は大衆に愛好されている、むしろ熱狂されている作家たちの文章のなかに、実に下卑た悪文の数々を見出すことができるのであります。それに較べると近松や西鶴を喝采した時代の民衆は、はるかに精妙な舌をもっていたと言わなければなりません。文章の美の平均水準からいうと、近松のような装飾的な文章が、いまや古くなり、無意味になったと言いながら、そういう文章を好んだ時代の方が、少くとも文章を味わう習慣を、その喜びを深く知っていたということは言えるのであります。
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