2026年6月14日日曜日

20260614 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.16-19より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.16-19より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

言語とその表記
 日本語と中国語とは、系統を異にする言語で、その音体系も、語彙も、文法(語順、助辞、用語の語尾変化など)も、全くちがう。それにも拘らず、大陸文化との接触がおこったとき、日本語には表記の手段がなかったから、すでに高度に発達していた中国の文字が日本語の表記に用いられるようになった(中国の文字による日本語表記の現存する最古の例は、五世紀にさかのぼる)。中国の文字(漢字)は、表意文字で、一字が単音綴の一語を代表するから、その文字によって日本語を表記するためには、特別の工夫が必要である。すなわち一字の意を採って音を捨てる(相当する日本語の音をあてる)方法と、一字の音を採って意を捨てる(本来の表意文字を表音文字として使う)方法とがあって、その双方が併用された。後者の場合に、採用された中国音は、『古事記』および『万葉集』の例では、五、六世紀の中国南方の発音であり、『日本書紀』の例では、七世紀の北方音である。表音文字としての漢字=真名が簡略化されて、仮名がつくられ、頻に用いられるようになったのは、九世紀であった。その意味で平安朝前期は、日本語の表記法に関し、全く画期的な時代である。
 日本語の表記に漢字を用いた日本人は、また中国語の詩文を、日本風に読む方法も工夫した。返点によって語順を変え、送仮名によって日本語に固有な助辞や語尾変化をつけ加えたのである(訓読の漢詩、漢文)。この独特の中国文翻訳法に慣れた日本人は、みずから中国語の詩文を作るようになった。 
 少なくとも七世紀以後一九世紀まで、日本文学の言語には二つがあった。日本語の文学と中国語の詩文である。たとえば『万葉集』と『懐風藻』、『古今集』と『文華秀麗集』。ここで日本人の感情生活が、外国語の詩作ではなく、母国語の歌に、はるかに豊かに、はるかに微妙にあらわれていたことは、いうまでもない。しかし散文では、そのときすでに、事情がちがっていた。たとえば『歌経標式』は、詩歌の理論を語って、『文鏡秘府論』の理路整然たるのに及ばない。また時代が下れば、詩歌においてさえも、中国語による表現の意味は重きを加えた。たとえば室町時代の抒情的世界は、連歌のみによって代表されるのではなく、また同時に五山の詩僧の作品によっても代表される。『菟玖波集』と『狂雲集』と、いずれに一時代の詩的精神がみなぎっていたのか、にわかにこれを決し難い。いわんや徳川時代についてはなおさらである。このような事情は、中世の欧州文学におけるラテン語の併用を思わせるだろう。しかし彼我の大きなちがいは、ラテン語と欧州諸語(若干の例外を除いて)とが、中国語と日本語の場合ほど言語学的に隔っていなかったということである。またおそらくそのことに関連して、文芸復興期以後、ラテン語の文学は次第に近代欧州語の文学のなかに吸収されていったが、日本では文学の二カ国語併用が明治時代までつづいたということである。
 二カ国語併用の歴史は、当然、漢文脈とその語彙の日本語文への影響を生み、また逆に日本語の影響をうけた日本人独特の漢文を生んだ。前者の例は、すでに『今昔物語』にみられるし、後者の例は『明月記』にもみられる。殊に日本文のなかに、漢文の影響の強い文体と、口語にちかく漢文の影響の少ない文体とを生じたことは、日本語文学の表現力の拡大に測り知ることのできない貢献をしたといえる。明治以後の日本社会が西洋の概念を輸入する必要に迫られたときに、長い間に日本語のなかに吸収消化されていた漢語が、どれほど大きな役割を果たしたかは、今さらいうまでもないだろう。近代の日本は、漢字の組合せによる新造語で、ほとんどすべての西洋語を訳し了せたという点で、西洋語をそのまま採り入れることを余儀なくされた他の多くの非西洋文化と、著しい対照をなしている。そのことは、おそらく決定的に、この国のいわゆる「近代化」に役立った。しかし他方では、新造語の氾濫によって、日本語の伝統的な味わいを損い、そのために文学、殊に詩作に、複雑で困難な問題を提出することになったのである。

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