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2026年2月27日金曜日

20260227 文章作成の根源にあるものについて:読書の習慣と記号接地③

 以前にも述べましたが、当初私は、北海道から南紀白浜への転勤が大変に嫌でしたが、否応なく始まったそこでの生活を通じ、地域の自然風土や歴史文化に興味を持つようになり、それが、かねてよりの大学院進学への希望と歯車が噛み合い、動き出し、そして県北部の和歌山市に在住することになりました。つまり、はじめは、都市からは遠く、南方的な自然が横溢とした南紀に住み、次に、大都市である大阪府にほど近い、県庁所在地の和歌山市に在住したことになります。そして、この在住の順序は、現在考えてみますと、前出、コンラッド著「闇の奥」の記述に惹かれたことにも関連があるように思われるのです。と云いますのも、直近の投稿記事にて「歴史が同一地域の上で、類似・継続した価値観、感覚を遺しつつ積層していることを実感として得ることが出来た…」と述べましたが、これは、紀伊半島西南部を流れる、北から紀ノ川、有田川、日高川、南部川、会津川、富田川、それぞれの河川流域で歴史の積層の様相が認められ、また、歴史の推移についても、流域毎に類似する点もあれば、異なる点もある様相が認められたからであると云えます。そして、現代でのその様相もまた同様であり、たとえば、紀ノ川であれば地域で最も栄えている和歌山市を流れ、次いで有田川であれば、紀ノ川下流域ほどには栄えてはおらず、川を南北から挟む紀伊山地から延びた山並みには、一面に蜜柑の樹が植えられており、その花が咲く5月頃の有田市や少し上流の有田川町では、以前述べた2月下旬頃のみなべ町の梅の花の薫りのように、さらに規模も大きく、蜜柑の花特有の、あの爽やかで甘い薫りが地域一帯を包み込むのです。つまり、有田川下流域一帯は、紀ノ川のそれと比べ、より自然が多く、他方、建造物が少なくなり、また、それら建造物も紀ノ川下流域と比べ、時代が遡るものが目立ちます。そこから、紀伊半島西南部を流れる各河川流域の景観をも含む様相とは、紀ノ川から有田川そして日高川と南下に伴い、その様相が示す時代も遡り、最南部に位置する富田川まで行き、その河口部に立ちますと「たしかに紀ノ川よりも河川の規模は小さいけれども、こうした景観は、往古、神武東征の頃の紀ノ川河口にも似ているのではないだろうか?」と考えさせられるのです。また、そうした考えは、有田川や日高川などを渡る際にも想起せられます。そうしますと、紀伊半島を和歌山市から南下して、途中、各河川を渡るに伴い、段々と時代が遡っていくような感覚を覚えるのではないかと思われるのです。実際、当時、私はそのように感じられ、その感覚は南紀白浜在住時では得られることはなく、その後、和歌山市在住時に紀ノ川大橋を自転車で渡っている時に、周囲の景色を見て、不図、そのように感じられたのです。そして、そうした感覚を保持しつつ、過日、引用記事として投稿したコンラッド著「闇の奥」導入部の記述、そして、それに触発されて私が作成した当ブログ投稿記事を読んで頂きますと、さきに「歴史が同一地域の上で、類似・継続した価値観、感覚を遺しつつ積層していることを実感として得ることが出来た…」と述べた、その背景にある感覚をもう少し、ご理解あるいは共感して頂けるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか?

*三交社刊 ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」
pp.19-21より抜粋
ISBN-10: 4879191620
ISBN-13: 978-4879191625

「僕は大昔のこと、1900年前、ローマ人が初めてここにやってきた頃のことを考えていたんだ―ついこの間のことのようにね。
 そのあと、この河から光明が流れ出て行くようになったんだ―騎士たちが出立して行ったと言うのかい?それでもいいさ。
 だが、それはね、平原を妬いて突っ走る野火、雲間にひらめく稲妻のようなものだ。われわれ人間の生なんてはかないものだ―せいせいこの古ぼけた地球が回り続ける限り、それが続くことを祈ろうじゃないか。
 しかし、暗黒はついこの間までこのあたりを覆っていたんだ。まあ想像してごらんよ。地中海に浮かぶ―ああ、なんて言ったっけな―そうそう、トライトリームという立派なガレー船の副長だった男が、突然、北辺に行けと命令された時の気持をね。
 急いでゴール人の地の陸路横切って北海に出て、古代ローマの軍団の船の一艘の司令を任されるわけだ。
 物の本にあるところを信用すれば、彼らはそうした船を、一月か二月のうちに、何百と造ったものだそうだ―ずいぶんと器用な連中だったに違いないね。
 さて、世界の最果て、鉛色の海、煙色の空、六角アコーディオンと同じくらいの堅牢さしかない船―その船に兵糧、兵士、その他あれこれを積んで、その船長がこのテムズを遡ってくるところを想像して見たまえ。砂州、沼沢、森林、蛮民、―文明人の口に合うものなどほとんどなく、陸に上がっての楽しみもない。あちらで、またこちらで、まるで干し草の大束のなかの針みたいに、荒野のなかで消息を絶つ野営隊もあった。
 ―寒さ、霧、嵐、疫病、流浪、そして死、―空気のなかにも、水のなかにも、薮のなかにも、死がそっと潜んでいるのだ。
 兵士たちは蠅のように死んでいったに違いない。だが、もちろん、船長は任務完遂、それも、あれこれ思い惑うこともなく見事にやってのけたのかもしれない。
 彼らこそが暗黒に立ち向かうに十分な強さを備えた男たちだった。
もし、ローマにいくらかのよいコネがあり、このひどい気候風土を生き抜いたあかつきには、やがてラベンナの艦隊への昇進もあろうという思いに元気づけられることもあっただろうよ。
 あるいはだな、トーガを身にまとった人品いやしからぬ少壮のローマ市民が―さいころ遊びでもやり過ぎた挙句ににさ―一旗揚げ直してみるともりで、知事とか、収税吏とか、はたまた商人などに混じる一行に加わって、この土地にやって来たところを想像してみよう。
まず沼地に上陸し、森や林を抜けて、やがてどこか内陸の駐屯地にたどり着く。そこで、彼は未開地の荒涼さ、全くの荒涼さがすっぽりと彼を包み込んでしまったと感じるのだ、森のなか、ジャングルのなか、そして野蛮人の胸の奥にうごめいている荒野の神秘な生命のようなもの全体が、ひしひしと身に迫ってくる。
 そうした神秘に参入する儀式や手ほどきなどありはしない。彼はその理解を絶したもののただ中で生きてゆかねばならず、それはまた、嫌悪すべきことでもある。
ところが、その神秘はある魅惑も備えていて、それが彼の心にじわりじわりと作用を及ぼしてくる。
 嫌悪感の蠱惑とでも言えようか。思っても見たまえ。日々につのる後悔、逃げ出したいとあせる気持、それができない腹立たしさ、結局は屈服し、ただ憎悪が残るのだ」

*ラッセルにはじまりコンラッドに至るまで…M2病の妄想?

「この当時は当然の如く、主に民俗学、考古学関連の書籍を読んでおりましたが、それだけではどうも自身の述べる事柄の論拠が乏しいと思われたのか、こうした思想、哲学関連の著作をも読む習慣が身に着いたのではないかと思われます・・。

ちなみにこうした議論を通して知り、自分なりにある程度精読した記憶があるのはオルテガ、フレイザー、バタイユ、コンラッドなどであり、中でもコンラッドに関しては、その著作『闇の奥』(Heart of Darkness)になみなみならぬ関心を抱き、当時その和訳が岩波文庫版と市場に出回っていないものの二種があり、前者に関しては既に入手、既読であったのですが、後者を手に入れるために、自分なりに苦心した記憶があります・・。
加えて、当ブログにおいて一記事として抜粋引用している著作(闇の奥)冒頭部分をそれまでの研究にて知り得た古代史、紀伊半島の歴史に当て嵌めて、さきの議論あるいは雑談などの際に述べていたことが思い起こされます・・(苦笑)。
それは以下のように・・

『僕は大昔のこと、我が国の初代天皇(大王)に率いられた一団がここにやってきた頃のことを考えていたんだ・・ついこの間のことのようにね・・。
そしてあとの時代、この紀の川の河口から髪を角髪(みずら)に結い、胡服に身を包み、直刀を杖立てた連中にはじまり、鎧兜姿に太刀を履いた連中がそれぞれ船団を組んでこの港、当時は雄ノ湊とか徳勒津とか云ったらしいけれども、そこからさまざまな事情を背負いつつ出立して行ったわけだが、それはね、青々とした水田、畑を走る一陣の風あるいは一瞬の稲妻のようなものなんだ・・。
われわれ人間の生なんてはかないものだーせいぜいこの古ぼけた地球が回り続けるかぎり、それが続くことを祈ろうじゃないか。
しかし、我々が今でも知り得ない世界はついこの間までこのあたりを覆っていたんだ・・。
まあ想像してもごらんよ、九州の東海岸にいた航海術に長けた連中が・・そうそう、そういえば当時の我が国には、外洋航海を目的とするような構造船はなくて、大型の丸木舟に舷側板を立てたような船だけであったらしいけれども、そうした船で瀬戸内海を東に抜けて今の大阪か奈良あたりに向かうと決まった時の気持ちをね・・。
それはいわば、自分達とは全く違う不可解な形をした青銅祭器を祀っているような連中の間を抜けて・・いや、そうした連中の真っ只中に行くわけなんだが、それでもこの当時九州東海岸にいた連中はとても勇ましかったようで、ものの本などによると、古代有数の軍事部族であった大伴氏や佐伯氏などは、ここに出自を持っているらしいのだがね・・。
ともあれ、彼等がこのあまり堅牢とはいえない、まあ準構造船とでも云えるような船に兵糧・武器その他あれこれを積んで、どうにか瀬戸内海を抜け、そうだな当時の大阪、河内平野一帯に広がっていた潟湖である河内湖に入り、その流れ込みの淀川のデルタ地帯に上陸したところあたりを想像してみたまえ・・。
砂州、沼沢、故地とは違った植生の森林、自分達とは異なるイントネーションの言語、衣服・・それまで自分達が慣れ親しんだ文化が見当たらなく、陸に上がっても狡猾な罠があったり、毒矢で射られたりして、この航海で見知った仲間達が日を追って減っていったに違いない・・。
こうした環境では、水、森林、草原、藪のなかにも、死がそっと潜んでいるのだ。
だが、もちろんそれでも彼等は特に思い惑うこともなく上陸地点を慎重に選定しながら、時には敵対部族とも戦いながら、更なる航海を続け、また上陸後は上陸後で険しい山道を通り抜け、どうにか目的地に達することが出来たのであろう・・。
彼等こそがこうしたまったく見知らぬ土地に立ち向かうに十分な強さを備えた連中だったのだ。
そして、もし、この一連の長く続く航海、在来部族との諍い、そして、この慣れない気候風土を生き抜いたあかつきには、この航海の目的地でもあり、そして、いずれは此処が己が居地ともなることもあろうという思いに元気づけられることもあっただろうよ・・。』」

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。

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ISBN978-4-263-46420-5

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2026年1月19日月曜日

20260119 東浩紀による新著『平和と愚かさ』を読んで思ったこと

東浩紀氏による新著「平和と愚かさ」で述べられる「平和」とは、昨今の不安定な世界情勢の中で多く論じられるような、正義の完遂や政治的安定といった観念的な地平を指すものではなく、むしろそれは、政治や戦争について考えを巡らせる必要性すらない、いわゆる「平和ボケ」の中に安住し得る状態を指していると云えます。

昨今の我が国において「平和ボケ」という言葉は、危機意識の欠如を意味する否定的な文脈で用いられることが多いと云えます。しかし東氏は、本著においてこの状態に積極的な価値を見出し、メタ的に「思考しなくても良い自由」という核心を突こうとしているように思われます。

また、本著のもう一つの鍵となる「愚かさ」も、単に知的能力の不足や欠如を意味すると云ったものではありません。ここで東氏が指摘しているのは、正義や平和をめぐる思考が明晰化され、論理の連環が強固になればなるほど、かえって対立は先鋭化し、戦争という「合理的解決」へと収束してしまうのではないかという、逆説的なジレンマです。

たとえば「戦争を止めるべきだ」という主張が正論であったとしても、それを論理的に徹底し、あらゆる反論を封殺しようとすれば、最終的には「敵を殲滅する以外に平和への道はない」といった極端な帰結を招きかねません。つまり、論理性とは往々にして、我々を逃げ場のない闘争へと追い込む、チキンレースのような側面を持っているのだと云えます。

それを踏まえますと、本著で説かれている「愚かさ」とは、こうした論理性の否応のない進展を意識的に抑制しようとする態度であり、事実と論理性のみで全てを判断しようとする現代的な知的態度に対して、敢えて「考えないで済む領域」の重要性を説いているのだと理解することが出来ます。

また、平和や正義を強く論理化しようとする行為態度は、現代社会における「効率性(コストパフォーマンス)」の追求とも不可分であると云えます。効率を最大化し、無駄を徹底的に削ぎ落とした先にあるのは、数値化はし得ないものの充実した生の営みや、曖昧な情緒性の排除です。そして戦争もまた、究極的には政治的なコスト計算の帰結として選択される「解決策」という側面を持っています。もし我々が、あらゆる事象を論理性と効率性のみで判断しようとするのであれば、どこかで「究極的な破壊」が合理的な選択肢となる危険性を否定することは出来ません。

こうした視座から、本著での東氏の見解は、その手前で踏み止まり、言語化し得ない日常の喜びを享受出来る「余白」を維持することの重要性に集約されていると云えます。それは、効率化一辺倒の現代文明に対する、極めて根源的な批判でもあります。

さらにこの見解は、社会における「無用の用」の再評価とも評し得ます。我々が常に政治や平和について考える必要がなく、むしろ、それらの思考から解放され「考えないで済む領域」が確保されていること自体が、その社会の平和の程度を測る一つの指標となるのです。

もっとも、東氏は「考えないで済む状態」を無条件に称揚しているわけではありません。為政者や考える必要性のある方々が思考を放棄してしまえば、社会の秩序は容易に崩壊します。その意味で、東氏の議論は単純な非武装論や、政治的無関心の免罪符とは一線を画しています。本著で述べられる「愚かさ」とは、単に思考を止めることではなく、思考そのものが孕む「暴力性」を自覚し、それを出来るだけ自然に抑制しようとする態度であると解釈するのが妥当でしょう。

加えて、本著の重要な洞察の一つは、「平和」と「反戦」の峻別にあります。東氏の定義によれば、「反戦」とは戦争に対抗する能動的な政治行為であり、そこには常に「敵」や「対立」の構造が伴います。これに対して「平和」とは、そもそも戦争という概念が意識の遡上にすら上らない、忘却された状態を指します。

ここから「平和は思考不可能であり、記述不可能である」という逆説が導かれます。「私たちは今、平和だ」と言語化した瞬間、その平和は他者との比較や訂正可能性に晒され、政治的議論の客体へと変質してしまいます。平和とは、幸福と同様、語ろうとした瞬間に手の中から零れ落ちていく性質のものなのです。

『平和と愚かさ』は、読者に対して明快な結論や指針を提示する種類の著作ではありません。紀行文を思わせる比較的柔らかなその文体は、読者に思考の速度を落とさせ、読んだ文章の内容を自らのペースで咀嚼・反芻する時間を与えてくれます。

スピードと効率性が求められ、SNS等で「レスバ」や「論破」の応酬が繰り広げられる、末世とも見える現代社会において、東氏の「読み手に委ねる」という態度そのものが、ある種の洗練された思想的実践であるようにも感じられました。

平和を声高に主張することにより、却って平和を壊してしまう我々自身の「思考の型」を自覚し、正義を掲げる熱によって、私たちはあまりにも多くの「日常にある余白」を焼き払ってきたのではないでしょうか?失われてしまった、そうした場所を示し、今なお過熱し続ける世界に水を差すことこそが、本著の持つ大きな価値であると思われました。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。

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2025年12月30日火曜日

20251229 ベートーベン:交響曲第9番の思想的射程と現代的意義について

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによる交響曲第9番ニ短調、作品125は、音楽史において独特の地位を占める作品であり、その最大の特徴は、終楽章に声楽を導入した点にあります。器楽を基盤として発展してきた交響曲の形式に、声楽を組み込むという試みは、当時の交響曲の様式からは逸脱するものでした。そして、その独自の構造ゆえに、本交響曲は音楽史における一つの転換点として位置づけられていると云えます。

本交響曲の構想は1818年頃から始まり、実際の執筆は1822年末から1824年初頭にかけて行われました。先述の終楽章にある声楽の歌詞には、フリードリッヒ・フォン・シラーが1785年に著した頌歌「歓喜に寄す」が採用されています。この詩を音楽化することは、ベートーヴェンにとって長年の願いであり、それが最後の交響曲において結実しました。

1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場で行われた初演では、ミヒャエル・ウムラウフが実質的な指揮を執り、聴力を喪失していたベートーヴェンはテンポを指示する役割で舞台に立ちました。終演後、聴衆の反応を認識できなかったベートーヴェンに対し、独唱者が客席の方へ向き直るよう促したことで、彼が初めて大喝采を認識したという記録が残されています。

また、本交響曲の背景には、当時の政治状況が深く関与しています。シラーが「歓喜に寄す」を執筆したのはフランス革命直前の啓蒙主義的な時代(1785年)でしたが、本交響曲が初演された1824年は、ナポレオン失脚後のウィーン体制下、宰相メッテルニヒによる保守反動的な政治体制が欧州を覆っていた時代でした。

こうした背景において、本交響曲は純粋な祝祭音楽とは異なる思想的性格を持ちます。終楽章冒頭において、先行する楽章の回想がバリトンの独唱によって否定される構成は、それまでの器楽的文脈を一度遮断し、新たな方向性を模索する転換点として機能しています。これは、既存の社会秩序や価値体系が限界に達した地点から、普遍的な共同性を再構築しようとする試みであるとも解釈出来ます。

また、当交響曲の作品構造は、内的苦悩から人類的な歓喜への移行を表現しています。第一楽章の不安定な導入、第二楽章の鬱勃とした律動、第三楽章の瞑想を経て、第四楽章において初めて「歓喜」が言葉として提示されます。

このプロセスは、歓喜が最初から与えられたものではなく、分裂や葛藤を通過した後にのみ到達し得るものであることを示しています。つまり、ここで描かれているのは、楽観的な調和ではなく、厳しい現実を前提とした上での生の肯定であると云えます。

後世、ニーチェがその処女作『悲劇の誕生』において本交響曲を論じたことは、第九の思想的解釈を深める一助となりました。ニーチェは同著の第1節において、ベートーヴェンの「歓喜に寄す」を、個の境界が崩壊し万物が根源的な一体感へと回帰する「ディオニュソス的陶酔」の象徴として引き合に出しています。彼にとって当交響曲の終楽章は、苦悩や混沌を否定するのではなく、それらを包含した上で生を全肯定する力を具現するものでした。構築された形式の中で、情念と理性、個と全体が均衡を保つその姿は、きわめて高度な精神的営為であると云えます。

そして、この視座は現在の分断され、不安定化した世界情勢においても有効な示唆を与えてくれます。国家間の対立や価値観の相違などが顕在化している現在、当交響曲が提示する「歓喜」は、既に完成された調和を謳歌するものではなく、むしろ、世界が分断され、不安定化している地点から、それでもなお共存の可能性を構想し得るかという問いとして機能するのではないかと考えます。

さらに、当交響曲が初演から200年以上経た現在も世界各地で演奏され続ける理由は、当交響曲が安定した世界の祝祭音楽的なものではなく、不安定な世界においてこそ参照されるべき思想的課題を我々人類に提示し続けているからであると考えます。救いが保証され得ない厳しい状況から、いかにして我々は歓喜を見出し得るのか。その問いは、今もなお現代社会に対する解決が困難な問題(アポリア)として提示され続けていると云えるのではないでしょうか?

Beethoven: The Ideological Scope and Contemporary Significance of Symphony No. 9

Ludwig van Beethoven’s Symphony No. 9 in D minor, Op. 125 occupies a unique place in the history of music. Its most striking feature is the introduction of vocal music in the final movement. To incorporate voices into a form that had developed as purely instrumental was a clear departure from the conventions of the symphony at the time. For this reason, the Ninth Symphony is widely regarded as a turning point in the history of Western music.

Beethoven began to conceive the work around 1818, and he composed it between late 1822 and early 1824. The text sung in the final movement is drawn from Friedrich von Schiller’s 1785 ode “An die Freude” (“Ode to Joy”). Setting this poem to music had been one of Beethoven’s long-held ambitions, and it was in his final symphony that this aspiration was finally realized.

The premiere took place on May 7, 1824, at the Kärntnertor Theater in Vienna. Michael Umlauf effectively conducted the performance, while Beethoven—by then profoundly deaf—stood on stage giving tempo indications. When the music ended, Beethoven was unable to perceive the audience’s reaction. According to contemporary accounts, one of the soloists turned him toward the audience so that he could see the overwhelming applause.

The political background of the work is also significant. Schiller wrote “Ode to Joy” in the intellectual climate of the Enlightenment, shortly before the French Revolution. By contrast, the symphony was premiered in 1824 during the post-Napoleonic era, when Europe was dominated by the conservative order enforced under the leadership of Metternich.

In this context, the Ninth Symphony cannot be understood as simple celebratory music. At the opening of the final movement, motifs from the preceding movements are recalled and then rejected by a baritone soloist. This gesture interrupts the established instrumental narrative and marks a decisive break, opening the way toward a new direction. It can be interpreted as an attempt to reconstruct a form of universal human community at a moment when existing social orders and value systems had reached their limits.

The overall structure of the symphony traces a movement from inner struggle toward a vision of human joy. The uneasy opening of the first movement, the surging vitality of the second, and the meditative character of the third all precede the final movement, in which “joy” is articulated for the first time through words. Joy is not presented as something given from the outset, but as something that can be reached only after passing through division and conflict.

What is affirmed here is therefore not an easy or optimistic harmony, but a form of affirmation grounded in harsh reality. Joy emerges not through the denial of suffering, but through its inclusion.

The later reception of the work was deepened by Friedrich Nietzsche, who discussed the Ninth Symphony in his first book, The Birth of Tragedy. Nietzsche refers to “Ode to Joy” as an expression of Dionysian ecstasy, in which the boundaries of the individual dissolve and all beings return to a fundamental unity. For Nietzsche, the final movement does not negate suffering or chaos, but gives form to a force that affirms life by embracing them. Within a carefully constructed musical form, passion and reason, the individual and the whole, are held in tension and balance. This represents an exceptionally high level of spiritual achievement.

This perspective remains relevant in today’s divided and unstable world. At a time when conflicts between states and clashes of values are increasingly visible, the “joy” presented in the Ninth Symphony does not celebrate a harmony already achieved. Rather, it functions as a question: whether it is still possible to imagine coexistence from a point of fragmentation and instability.

The fact that this symphony continues to be performed worldwide more than two centuries after its premiere suggests that it is not music for a stable and settled world. Instead, it persistently confronts humanity with a set of intellectual and ethical challenges that become most urgent precisely in times of uncertainty. From conditions in which no redemption is guaranteed, how are we to find joy? This question continues to confront modern society as an unresolved aporia.

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


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2025年12月16日火曜日

20251215 師匠の講演前夜での予演および駄弁りと、当ブログの備忘録的性質について

 昨日投稿の記事は、これまでブログ記事作成を休止していた反動によるものであるのか、比較的一気呵成に作成することが出来たと云えます。また、ブログ休止中であっても、記事のネタになりそうな現実の出来事はそれなりにありますので、それらについても忘れないように、何処かに書き記しておく必要があると思われます。しかし現在、ブログを休止していますと、当ブログ副題で述べた通りの「主に面白いと思った記述、考えたことを記します。自身の備忘録的な目的もあります。」という一文が、実際にそのままの意味であったことに、改めて気が付かされます。

 つまり、さきのような現実の出来事を、ある程度抽象化して文章にすること自体が、その出来事を忘れないための手段であったことに、今さらながら思い至るのです。

 さて、ここまで文章を作成していて思い出された記憶は、去る12月6日(土)に関与させて頂いた学会に関するものです。こちらの学会は比較的新しい歯科医学分野の学会であり、その学術大会は、今回で第11回目を迎えます。そして、この学術大会では、以前より、歯科理工学分野の師匠を教育講演講師としてお呼び頂いていますが、今回も師匠は新たにネタを仕込み、スライドを作成され、講演前日の夕方には会場近くのホテルに入られていました。
 
 そしてその日、学術大会の用務を終えた私と、診療を終えた都内で開業されている門下の先生(私の兄弟子にあたります)を呼び出し、宿泊先のホテルで、作成したスライドを予演のように我々に聞かせるのです。その後、我々の意見を聞き、それが議論を通じて妥当であると判断されますと、スライドに加筆修正をしたり、画像データを差し替えたりされます。そうした様子を見ていますと、師匠は既に70歳をとうに過ぎているにもかかわらず、他者からの見解を度々求め、ご自身の作成スライドに躊躇なく手を加えることが出来ることに毎回のように感心させられます。

 実際、そのことを師匠に尋ねてみますと、概ね次のように返答されました。

「最近はだいぶ普及してきた云うてもやな、まだまだジルコニアは分かってへんことも多いんや。それでな、一番アカンのは、よう分からンままに、科学的な根拠もない憶測みたいなンが、業界やら学会やらに、割と広う出回ってしもてることや…。
せやからな、この学会で教育講演やらせてもらえるンは、ワシにとってはホンマに有難い機会なんや。
それでや、お前らみたいに気ぃ使わんでエエ連中に、いっぺん作ってきたスライドの内容を聞かせて、その反応を見てな、これはイケる、これはアカン、云うてもろて、それをまたスライドに落とし込む。まあ、そういう作業がな、ワシにとっては結構大事なンや。」

さらに、体力や学会などでの立ち振る舞いについては、次のようにも述べられていました。

「ワシもな、前に比べたら、体力は確実に落ちてきとる。せやけどな、まだ60分や90分くらいの講義や講演やったらイケる。ただな、元の体力が落ちとる分、余計なとこで消耗したくないンや。

学会のパーティ云うたら、エライ先生もようけ来てはるやろ。それに、よう知らん先生にも、それなりに気ぃ使わなアカン。

そんなンするくらいやったらやな、お前らみたいに、気ぃ使わんでエエ連中相手に、いろいろ喋っとる方が、よっぽど楽やし、その分、講演の方にも気持ちがちゃんと向くんや。」

この師匠のスタンスは以前と変わらないものであると云えますが、学会発表であれ、講義や招待講演や教育講演であれ、自らの知見に基づき、科学的に妥当と考えられる見解を、出来るだけ分り易く伝えようとする、その一貫した行為態度には、私自身も多少なりとも学ぶところがあったのではないかとも思われます。あるいは、それが少しでも根付いたからこそ、当ブログは、なんとか10年以上継続することが出来たのではないかとも思われます。

ちなみにこの時、最近刊行された歯科専門雑誌に掲載された師匠の執筆記事について、「お前、読めえ!」と云われ、続いて同席していた先輩からも「俺の記事も読めえ!」と云われました。そこで私は、「分かりました。次の休みに水道橋のシエン社に行って、立ち読みして、面白そうでしたら購入します」と返事をさせて頂きました。そして、去る11日(木)の休日に御茶ノ水駅で下車し、駿河台を下って靖国通りに出て、神保町の古本屋街沿いを九段下方面へ少し歩き、神保町交差点で右折して白山通り沿いに水道橋方面へ進み、JR水道橋駅の高架を過ぎて後楽園方面への交差点を渡る手前で左折すると、マクドナルドやココイチを過ぎた辺りの左手に、歯科系書籍の専門店として界隈では知られているシエン社があります。

そこで、他の歯科系雑誌や書籍をしばし立ち読みした後、件の雑誌を手に取り読んでみますと、やはり面白いと思われましたので、購入させて頂きました。また、購入時に領収書の作成をお願いしたところ、そこからシエン社さまの相談役の方と多少話が盛り上がってしまいましたが、ともあれ、師匠から勧められた書籍は購入し、その後拝読させて頂きました。内容は、師匠が常々述べられている世界規模での歯科医療の様相や、その推移が、材料学あるいは工学的見地から述べられており、特に業界に関与される方々は、興味深く読むことが出来るのものと考えます。

また、ここまで文章を作成していて、さらに思い出されたことがあります。それは、過日、国際関係論や公衆衛生、医療政策分野などに造詣が深い別の先生から、電話口にて自著を勧めて頂いたことです。後日、こちらの著作も購入して拝読させて頂きましたが、これもまた大変興味深い内容が述べられており、いずれ改めて引用記事を作成させて頂く予定です。

このように、ブログ記事のネタとなりそうな現実の出来事は、それなりに生じています。しかし、いざそれらを記述しようとしますと、どうも、この文章のように、何やらゴタゴタした文章になってしまうようです…(苦笑)。後日、改めて加筆修正を行うことになると思われますが、とりあえず、今回はこの辺で区切らせて頂きます。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


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2025年12月15日月曜日

20251214 2400記事への到達後に思ったこと:1万時間の法則から

去る11月にブログ総投稿記事数が目標としていた2400記事に到達し、そこから自作文章での新たなブログ記事はあまり作成しておらず、また、引用記事はいくつか作成しましたが、それらは10記事もありません。他方、文章を作成する機会はコンスタントにあるため作成していますが、当ブログが目標に到達して一旦休止となったためであるのか、その文章作成も以前ほど身が入らなくなってきた感じが少しあります。しかし、それは恒常的な変化ではなく、またしばらく休止期間を設けることにより、以前よりも、より充実して上達した文章作成が出来るようになるのではないかと思われます。この休止期間の中にあっても、人工知能に頼らずに、時々はこうして文章を作成することは、それなりに重要であると思われるため、こうして新たな記事作成を試みています。また、作成を始めてから、ここに至るまで比較的スムーズに出来たことは、自分としては安心を感じますが、一方で、さらに投稿の頻度を上げた方が良いのではないかと危惧する部分もあります。とはいえ、新規での記事作成を行わないことによって生じる、こびり付くような不快感は、過日の2400記事到達により、ありません。そして、このことが到達前後で最も大きく変わったことであると思われます。

また、そのように考えてみますと、当ブログはもう終えて閉じるべきであるのかとも思われるところですが、それと同時に2500記事程度までは、そこまで大きく苦労をすることなく到達出来るようにも思われるのです。それ故、休息期間は今しばらく継続して、具体的には来年の3月末頃までは基本的に休止し、その間も時々は文章の作成自体を忘れないように、このように新規での作成を心掛けたいと考えています。

そういえば、このブログ記事作成の休止期間に、どうしたわけか「1万時間の法則」という言葉を耳にする機会が何度かありました。そこで、その意味をネット検索で調べてみますと、これは単純に「時間を積み重ねれば熟達する」という意味ではないことが分かりました。むしろ、意味のある練習を長期にわたり継続することで技能や思考が一定の水準に達する、という趣旨での経験則であり、「1万時間」という数字も多分に象徴的な値に過ぎません。それよりも、その本質は、長期的な継続を通してしか得られない変化があるという点にあり、これは多くの領域に通底する考え方であるように思われました。

また、当ブログについて考えてみますと、その価値は論文のように投稿先雑誌毎の評価指標により数値化されるわけでもなく、スポーツのように点数や審査員による判断があるわけでもありません。そのため、特定の記事やブログ全体の意味を、どのように位置づければよいのか分からず、曖昧な不安を覚えることもあります。その点で、この「1万時間の法則」は、明確な指標を持たない営みの価値を測るための、ひとつの座標軸になるのではないかと思われました。

とはいえ、文章表現の熟達は「書けば書くほど上達する」といった直線的なものではなく、むしろ長く継続するほどに、自らの未熟さや無知に気付いてしまうといった側面があります。さらに、ある程度継続しますと、ブログ記事の作成といった行為自体の意味を問い直したくなる時期も訪れます。やがて継続の理由も、技術向上や成果の可視化といった外的指標では測定され得ず、むしろ「文章の作成を通して思考が組み換えられ、世界の見え方がわずかに変わっていく」内的な効果に重点が移っていくのではないかと思われるのです。

近現代史や国際関係論や考古学、古代史あるいは民俗学といった分野に触れるたびに、それらは思考の層となり、徐々にこれまでとは異なった景色へと導いてくれます。そして、文章の作成とは、単に知識を扱う技術ではなく、世界を認知する方法そのものを再構築する営みであると云えるのかもしれません。その過程で、これまで所与・自明であった前提や価値観が次第に揺さぶられ、やがて自らの思考そのものが、いつの間にか変化していることに気付かされます…。

長期的に取り組むほど、継続は「上達のため」だけではなく「対象への理解を深めるため」に行われるようになります。文章化することは、対象の構造を理解するための方法であり、思考を透明化する媒体でもあると云えます。文章化することにより曖昧であった概念が言語としての輪郭を持ち、推敲を通じ、さらに明晰化されます。そして、こうした循環を何度も反復することで、意識の奥に沈んでいた思考が徐々に結晶化していくのではないかと考えます。

そして、この視座から「1万時間」を見直してみますと、それは単に熟達の到達点を示す数字ではなく、「ある程度の継続期間が思考をどのように変化させるか」を示す象徴とも見えてきます。長期にわたる継続的活動は、自覚され得る成長を直線的に保証するものではありませんが、同時にそれは、さまざまな質の時間を含み込みつつ、緩徐的に認知の構造を変化させます。それ故、成長を実感できない時期も、不意に新たな、そして明晰な視野が開ける瞬間も、同じ時間の連続線上に位置付けられるものと云えます。時間が精神に及ぼす作用とは、多くの場合、そのように複雑で非線形なものであると云えるでしょう。

ともあれ、そうしたことから、対象が変わらなくても、ある程度の期間をかけて向き合えば、その対象の見方や理解の仕方は変わっていきます。その意味で、文章の作成とは、その過程において認知の癖や偏りに気付き、それを調整する手掛かりが示され、内面での調和を取り戻す行為でもあるとも云えます。そして、その継続とは、こうした自己の再編成が緩やかに進行することであり、あるいはむしろ「1万時間」という区切りを越えてから、より本質的な変化が生じるのかもしれません…。

そうしますと、重要であるのは「1万時間」という数字そのものではなく、その継続した時間の中で何が変わり、何が見えるようになり、世界との関係がどのように変化したかということであると云えます。そこから、文章の作成とは、自らが世界に触れるための営みであり、そして、時間をかけて、その精度を研ぎ澄ませることが、世界に触れ、自らの考えを整える営みと云えるのではないかと思われます。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。
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ISBN978-4-263-46420-5

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2025年11月26日水曜日

20251125 株式会社かや書房刊 篠田英朗著「地政学理論で読む多極化する世界:トランプとBRICSの挑戦」pp.129-132より抜粋

株式会社かや書房刊 篠田英朗著「地政学理論で読む多極化する世界:トランプとBRICSの挑戦」
pp.129-132より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4910364854
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4910364858

中国は大陸からの脅威と海洋からの脅威の両方に備えなければならないという点で、典型的な「両生類(amphibia)」である。大陸国家(land power)としての性格と、海洋国家(sea power)としての性格を、併せ持つ。この特性は、ロシアのような典型的な大陸国家とは、大きく異なっている。しかもインドのようにチベット山脈に守られながら、海洋に突き出た半島部に存在する半島国家とも、異なっている。

 歴史上、かつて「両生類」と言えるが、世界有数の大国となった国があた。1871年統一以降のドイツである。ドイツは、東欧のプロイセン主導でヨーロッパ大陸中央に位置し、東欧その他の大陸各地域に影響力を行使しやすい性格を持っていた。他方、バルト海のみならず北海にも面し、ライン川のような大規模河川も持ち、海洋にも影響を与えうる地理的性質も持つ。実際に、ドイツは、陸軍も海軍も、欧州有数の強力な軍隊とした。ここに「ドイツ問題」、つまり欧州大陸の中央部に最大の人口と国力を持つ大国が生れて従来の勢力均衡政策が通用しなくなってしまった、という問題が生まれた。これによって、19世紀までのバランス・オブ・パワーの仕組みが時代遅れなものになって崩壊し、二度の世界大戦を引き起こした。

 21世紀になってからの中国の超大陸としての台頭は、二度の世界大戦の前の時期のドイツの世界の大国としての台頭を想起させる。21世紀東アジアにおける「ドイツ問題」と言って過言ではない。東アジアにおけるアメリカの存在が、均衡を維持するための方策のカギになるが、急速に拡大する中国の勢力を考えると、均衡維持は簡単ではない。

 ドイツの台頭を伝統的な「バランサー」であったイギリスが受け止めることができなかったように、21世紀の中国の超大国としての存在を、旧来の覇権国であるアメリカも受け止めることができない、と考える者は「トゥキュディデスの罠」を強調して、米中戦争は不可避であるという見方に傾く。「トゥキュディデスの罠」とは、新旧の覇権国の間の相互不信から対立が深まって戦争に発展していく現象のことだ。

 20世紀初頭のドイツと現在の中国が似ているのは、「両生類」の国家が世界有数の大国として台頭した点だ。「両生類」国家は、大陸と海洋の両面で、自国に有利な戦略をとれる優位性を持つ。他方、最大の弱みは、内陸の他の大陸国と、海洋国家との間の挟み撃ちに遭う恐れがある点だ。かつてのドイツの場合には、二度の世界大戦で、大陸国家で、大陸国家ソ連(ロシア)を米英の海洋国家の挟み撃ちにされた。その後、第二次世界大戦後も、海洋と大陸の双方向からの封じ込めによって、大国としてのふっかるの可能性を抑え込まれた。

 これを現在の中国にあてはめると、米ロの大同盟が形成されて、挟み撃ちにされてしまうと、非常に苦しい、という観察が導き出される。米ロの挟み撃ちにされると、どちらにも影響力を拡張できないばかりか、両面からの挟撃に応じて始原を分割していかなければならなくなる。ドイツはこの負担に耐えられず、二度の世界大戦で敗北した。

 かつて15世紀の明朝の時代に、鄭和提督は7回にわたるインドやアフリカにまで至る海外への大遠征を行った。欧州諸国の大航海時代が始まる前に、中国の西太平洋からインド洋にかけての地域における海洋覇権の可能性があったのである。しかし明の皇帝は突然、海外渡航を禁止し、艦隊を廃止した。北方の蛮族の侵入に備えるためであったと推定されている。両面作戦を避け、資源の集中投下を図ったのである。

 この観点から見ると、アメリカとの超大国間の緊張関係の管理を引き受けていかなければならない現在の中国にとって、大陸側の背後に控えるロシアとの良好な関係の維持は、死活的な意味を持つ。関係を損ねたら、アメリカとロシアに挟み撃ちにされる。逆に、もしロシアから攻められる恐れがなければ、資源を太平洋側に面した海洋の防衛にあて、台湾奪回統一もその路線にそって狙っていけばいいことになる。

 中国の軍事費は、2000年に約300億ドルだったが、2024年には約3140億ドルと10倍い所の規模になっている。その過程で、特に高い伸びを見せたのが、中国人民解放軍海軍(PLAN)である。中国海軍は、すでに艦艇数で世界最大と言われる。海軍への予算配分は、2000年代初頭の約10%から、2020年代には約30%に増加したと推定されている。これによって南シナ海や台湾海峡を越えて、インド洋や太平洋に展開することができる能力を整備し、「遠海防衛」戦略を進めている。有事の際の海上封鎖の可能性を排除し、アメリカとの超大国間の競争関係を勝ち抜く意図があると言える。なお中国の陸軍は、2015年に30万人の兵力削減を発表し、約200万人体制となった。予算配分としては、2000年代の約50%から、2020年代には約30%に減少したと推定されている。こちらは大陸側に仮想敵が存在していないという認識を反映した措置だと言ってよいだろう。

2025年11月25日火曜日

20251124 毎日新聞出版刊 黒川 清著「考えよ、問いかけよ「出る杭人材」が日本を変える」 pp.116-120より抜粋

毎日新聞出版刊 黒川 清著「考えよ、問いかけよ「出る杭人材」が日本を変える」
pp.116-120より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4620327557
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4620327556

 私が折に触れ読み返している本に、「ベルツの日記」があります。
 この本の中には、お雇い外国人学者として明治9(1876)年から26年間、東京医学校(現・東京大学医学部)で教鞭をとり「日本の近代医学の父」ともいわれたドイツ人医師エルウィン・ベルツが、日本在留25周年記念の祝賀会で来賓と学生を前にして行った次のような演説が収められています。
「わたしの見るところでは、西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思われるのであります。人々はこの科学を、年にこれこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んで、そこで仕事をさすことのできる機械であると考えています。これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの有機体でありまして、その成長には他のすべての有機体と同様に一定の気候、一定の大気が必要なのであります。」
「西洋各国は諸君に教師を送ったのでありますが、(中略)かれらは科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、かれらは科学の果実を切り売りする人として取り扱われたのでした。かれらは種をまき、その種から日本で科学の樹がひとりでに生えて大きくなれるようにしたのであって、その樹たるや、正しく育てられた場合、絶えず、新しい、しかもますます美しい実を結ぶものであるにもかかわらず、日本では今の科学の「成果」のみをかれらから受取ろうとしたのであります。この最新の成果かれらから引き継ぐことで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうとはしないのです。」エルウィン・ベルツ著トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳「ベルツの日記 上巻」岩波文庫、1979年)
 ベルツ先生の「(日本では科学の成果を)引継ぐだけで満足し、この成果をもたらした(科学の)精神を学ぼうとはしない」というこの苦言を、私はたびたび噛みしめています。それは、ベルツ先生がこの言葉を述べた当時から現在まで、日本のこの「病巣」が何の治療も施されないまま放置され、存在し続けているからです。
 明治維新後、それまで西欧から大きく遅れていた日本は、西欧の技術と工業を急いで導入し、生活レベルと軍事力で世界に追いつくために国家をあげて取り組みました。ベルツ先生が嘆いたように、日本は科学の真髄を学び、そこから学問として発展させる余裕も考えもなく、ただひたすら科学技術の成果を追い求めたのでしょう。
 そして、日本人の創意工夫のセンスと、何事にも勤勉に取り組む国民性が、急速な近代化の波に乗って後発国の成功物語を築き、ついには太平洋戦争へとつながっていきました。戦後はスクラップになった国をゼロから立ち上げ、外国の技術導入に取り組み、生来の勤勉さを発揮して高度経済成長を実現しました。
 しかし、こうした日本の成功と失敗の体験は、科学技術を国家観の中に取り込み、政策理念としての基礎を築くことには寄与しませんでした。ベルツ先生のいた明治からずっと、日本は科学の果実だけを追い求めるような国家なのです。
 日本は毎年のようにノーベル賞受賞者を輩出していますが、これは科学投資と研究理念の基盤固めが功を奏したわけではなく、個人的な能力が発揮された結果といえるでしょう。私には、日本人のノーベル賞が国家として科学技術創造立国を築き上げてきた成果の賜物という見方はできません。どちらかといえば、本流ではない方々が受賞しているように思います。
 私達の社会では、教育現場が依然として「理系・文系」と色分けされ、偏差値だけで大学進学の行方を決め、ひいては人生そのものを大きく左右する仕組みをつくってしまいました。
 国民もこれを受け入れたため、長きにわたって高等教育と研究の現場はタテ型に固定されてしまいました。その結果、この仕組みを打破してグローバル時代に適応した社会に再構築することを困難にしています。
 この日本的な「成功物語」で築き上げた科学の伝統を打破し、ベルツ先生が苦言を呈した状況から脱却するための方策を、私はここまでにいくつか提案してきました。
 最後に、「科学リテラシーのある政治家を多数、国会に送らねばならない」とも私は考えています。そして、政党の政策立案の段階から科学技術創造立国を構築する理念を盛り込み、国家の中枢に「ハコもの」ではない真の科学政策司令塔と、それを支える組織を確立するのです。
 「科学リテラシーを持つ政治家」といっても、いわゆる理系教育を受けてきた人を指すわけではありません。理系の人間が文学や芸能に才気を発揮することもあるように、文系の人間でも科学技術への興味とセンスを持っている人は必ずいるはずです。まずは、そうした人材の掘り起こしが急務なのではないでしょうか。

2025年11月12日水曜日

20251111 2400記事に到達して、現在読んでいる小説から

 去る5日に2400記事に到達し、そのあと数日間は、どうしたわけか眠気が抜けずに始終ぼんやりした状態が続きました。こうしたことは、これまで、あまりなかったことから、不思議に感じられましたが、それも数日のうちに収まり、現在は多少風邪気味ではありますが、概ね通常の状態に戻っていると云えます。

 ブログの更新はもう少し休みたいのですが、実際には、他でも文章を作成しており、また、ChatGPTを援用した文章の作成も相変わらず継続しています。そのため、当ブログから離れているといった実感はありません。10年間以上、当ブロガーにて文章を作成していますと、このフォームでの文章作成が習慣化してしまうのか、ブログに投稿する以外の文章作成も、このフォームで行うことがよくあります。おそらく、このフォームでの文章作成が落ち着くようになってしまったのだと思われます…(苦笑)。

 そのようにして作成した下書きの文章は今や300以上あります。そして過日、2400記事に到達したのを機に、それら下書きの整理のために閲覧していますと、それなりに面白く感じられ、続きを作成したいと思うものも複数ありました。とはいえ、これまで閲覧出来た下書きは30にも満たず、おそらく今後、整理を続けて行きますと、さきと同様、面白く感じられるものが、それなりに数多く見つかるのではないかと思われます。

 加えて、つい先日より、新たに小説を読み始めました。それは過日、複数の方々が「名作であると思う」と評価されていたためであり、書店で立ち読みをしてみますと、確かに興味深い作品であると思われたことから購入しました。読み進めて行きますと、かなり久しぶりの小説ということもあり、新鮮に感じられ、思いのほか早いペースにて読み進めることが出来ています。また、当作品は四巻ものの長編でありながら、一巻毎でも物語はひとまず結ばれており、これまであまり馴染みのなかった構成であると云えます。

 現在読み進めている第一巻の舞台は20世紀初頭(明治末~大正初期)の我が国です。また、作品で描かれる世界は、少し後(20年ほど)の時代を扱った野上弥生子の長編『迷路』や、武田泰淳による『貴族の階段』と近似したものが感じられますが、当作品では、特に、登場人物の会話が生々しく、場面毎にその雰囲気が立ち上がってくるようであり、そして、その為か、読んでいますと自然に引き込まれ、頁が進んでいるといった感覚があります。

 当作品の他にも、併行して読み進めている著作が幾つかありますが、そのなかでも、かなり久しぶりに読む小説である当作品には、未だ明確に言語化出来ませんが、何やら不思議な感じがあると云えます。そして、その感じがどのようなものであるかは、さらに読み進めてみますと、もう少しは明瞭化されると思われますが、とりあえずは、この感覚を味わいつつ読み進めて行こうと思います。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。


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2025年11月5日水曜日

20251104 黎明期の試作機である私について

 当記事を含めて、残り2記事の投稿により、当面の目標としている2400記事に到達します。さて、以前にも当ブログで述べたことがありますが、私は2007年に修士(経済学)を取得後、歯科技工専門学校に入学し、歯科技工士としての専門教育を受け、2009年に歯科技工士免許を取得して、歯科生体材料学を専攻分野として大学院博士課程に進学、2013年に博士(歯学)を取得しました。

 現在では、国内に4年制の歯科技工士養成課程を有する大学が2つあり、広島大学が2005年、東京科学大学(旧・東京医科歯科大学)が2011年に、それぞれ設置されています。それ故、私が博士号を取得した2013年当時、仮に最初の学士課程の入学生が順調に進学されていたとしても、博士課程3年目にあたる段階であり、修了には至っていなかったと見込まれます。つまり、その時点で修士課程を経て課程博士を修了した歯科技工士の事例はほとんど存在せず、私の修了は、ごく初期、あるいは日本初であった可能性もあると考えています。

 キャリアパスが整備される以前に、異分野の修士課程を経て、歯科技工士として進学が妥当と云える歯学分野の博士課程に進み、どうにか修了にまで至ったことは、巨視的に見れば、我が国の歯科技工士教育と歯学分野の学術研究とを結節する、ごく初期の試みであったと云えます。

 現在では、4年制大学での課程を卒業された歯科技工士の方々が、大学院修士課程、さらに博士課程へと進学する事例も聞かれます。そうした整備された道を歩まれてきた方々と比べますと、私などはまるで、黎明期の試作機、あるいは不格好な多砲塔戦車のような存在と云えるかもしれません(苦笑)。しかし、そうした時期であったからこそ、特有の創意や自由闊達さもまたあったのではないかと思われます。

 とはいえ、その過程には以前にも述べました通り、さまざまな困難があり、決して順風満帆なものではありませんでした。そうしたなか、2012年、教授(師匠)も准教授の先生もおられない状況で、担当させていただいた鋳造および鑞付けの歯科理工学実習では、研究室の先生方からご許可を頂き、人文的な話題を随所に交えながら実習を進めることができましたが、これは余程、自分の性質に合致していたのか「それまでの人生がこのためにあったのだ!」と感じられるほどの経験であり、それだけに、今なお強く記憶に残っています。

 それでも、学位取得後の道のりもまた、決して平坦なものではなく、まさに紆余曲折を経るものでした。黎明期の人間として、その不完全さなどネガティブな面全てを含めて、まあ自分らしい経路であったのではないかと思われるところですが、今後は、これまで培った経験を活かしつつ、若い世代の医療専門職の方々が、より自然に人文書に興味を持ったり、臨床と研究とを往還出来るような環境の整備に微力ながら関わりたいと考えています。

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2025年11月4日火曜日

20251103 和歌山と鹿児島と当ブログについて

 当記事を含めて、残り3記事の投稿により、当面の目標としている2400記事に到達します。さて、直近の投稿にて「ブログ開始当初から文章化したいと考えていることに、少しずつ、にじり寄っているようにも感じられる」と述べましたが、これは、開始当初の頃の文章作成への勢いを、葛藤や精神的な苦しさを伴うことなく再活性化しようとする試みであるようにも思われます。

 当ブログは、2013年の学位取得後、帰郷して2年ほど経た2015年に始めましたが、その契機は、文章作成そのものよりも、「それを行わなければならない」と思い込む、ある種の感情にありました。そして、その感情は、南紀白浜や和歌山で得られたものではなく、むしろ、その後の鹿児島での在住期間に醸成されたものであったと云えます。

 昨今も何度か、和歌山や南紀を題材とした記事を作成・投稿していますが、それらの作成を支える根源にある感情は、やはり鹿児島で得られたものであると云えます。南紀白浜および和歌山での在住期間は、いわば、そうしたことを感じ、考えるために学び、耕していた時期であり、その上に鹿児島での経験が種や雨、日光となり、当ブログが芽吹いたのだと云えます。

 以前にも述べましたが、元来、私はこうした文章を実名で継続的に公表するような種類の人間ではありませんでした。それが後になり、葛藤や苦悩を和らげるために文章を作成するようになったのだと云えます。そして、その背後には、何らかの「経験」がありました。それは、「自らの実感を伴った理解を言語化し、それを他者に伝える」という行為でした。

 こうした行為を繰り返すうちに、そこで得られた実感が、次第に私に「表現せよ」と促すようになりました。しかしながら、「表現せよ」と内面の声があったとしても、文章による表現を継続するためには、ある程度の内容が必要であり、その意味で、投稿頻度に多少の変動はあるものの、どうにか10年以上、当ブログを継続できたこと自体が、先の鹿児島で得られた経験の性質を示しているのだと云えます。

 とはいえ、これまでも述べてきましたように、鹿児島での経験は決して楽しいものばかりではありませんでした。兄の死、師匠の退職といった出来事が続き、全体としては苦い記憶のほうが多かったのではないかと思われます。それでも、そうした状況であったからこそ、「実感を伴った理解を言語化する」際の私の言葉に、ある種の切実さが付加されたのではないかとも思われます。その意味で、言語とは、単に記録のための手段ではなく、喜ばしくない経験に意味を与え、変換する機能をも併せ持つものであると考えます。

 現在、目指している2400記事への到達とは、おそらく、単なる通過点に過ぎません。しかし、そこに至るまでには、確かに私自身の歩みが刻まれています。実際、初期の投稿記事を読み返してみますと、現在のそれよりも、さらに稚拙なものが多いのは事実です。しかし、それら初期の文章があってこそ現在があるのだと云えます。

 おそらく、文章の作成という行為は、結論的な見解を得るためだけのものではなく、問いを持ち続けるためにあるのではないかと考えます。そして、その問いを持ち続ける限り、私はこれからも、何らかの形での文章作成を行うと思われます。

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2025年9月30日火曜日

20250929 我が国での包摂的制度の一つの具体像について

 1939(昭和14)年、米国の科学者・教育家であったアブラハム・フレクスナーは「役に立たない知識の有用性」(The Usefulness of Useless Knowledge)という論考を発表しました。同年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発し、全体主義の国々では、学問や文化、科学技術に対しての支配を強化していた時代に、彼はあえて「役に立たないもの」にこそ価値があると主張しました。それは単なる逆説的な挑発ではなく、人類の文明の存続を左右する普遍的な問題提起であったと考えます。

 この論考でフレクスナーが強調したことは、科学技術や芸術などでの創造は「役に立とう」という意図からではなく、純粋な好奇心から生まれるという事実です。19世紀に電磁波の存在を理論化したマクスウェルも、それを実証したヘルツも、そこからラジオや無線通信が生まれることを予想してはいませんでした。ファラデーの電磁気の研究もまた、社会的な応用を意図したものではありません。しかし、こうした一見「無駄」に見える営みこそが、後に人類の生活を一変させる発明や発見を生んできたのです。

 この視点を我が国の近代化と重ねてみますと、夏目漱石の「現代日本の開化」が想起されます。漱石は、明治日本の文明開化が外発的・皮相的なものであり、精神の成熟を欠いていると指摘しました。とはいえ、欧米列強に追いつくため急速に制度や技術を導入する必要があったことは事実です。しかし、その過程で「一見役に立たないもの」への寛容さが失われてしまいました。そして、漱石によるこの指摘は、明治期にとどまらず、現在に至るまで続き、近年の「コスパ・タイパ重視志向」とも連続していると云えます。

 加藤周一もまたその著作『日本人とは何か』において、同様の問題を指摘しています。明治政府は富国強兵を至上の目標に定め、官立大学を設けて、役人や技術者の効率的な養成を試みました。こうして知識人全般は、国家目的のために徹底して動員されて、文学や芸術や思想といった「役に立たなそうな領域」には目を向ける余裕を持ち得ませんでした。加藤はその象徴として、世界最大の戦艦(大和)を建造しながら、国民のための乗用車を量産できなかった我が国の工業環境を挙げています。そして、そこから「コスパ重視」志向によって知の多様性が省みられていなかった様子が理解出来ます。

 さらに加藤は、我が国の知識人の多くが自国文化への関心を失い、輸入文化の愛好に偏ってしまった結果、文化全般の歴史的厚みが乏しくなったと指摘しました。当然ながら、輸入した文化とは、我が国の土着文化との親和性が低く、そこからは、厚みのある文化芸術を育てることは困難であり、そのため、明治の文明開化から太平洋戦争の敗戦に至るまでと、戦後から今日に至るまで続いている思想・文学・芸術的な貧困があると加藤は指摘します。そしてこれは、漱石が「現代日本の開化」で批判した「外発的開化」とも通底するものがあると云えます。

 2024年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者ダロン・アセモグルは、政治学者ジェイムズ・ロビンソンと共著した『国家はなぜ衰退するのか』(Why Nations Fail, 2012)において、国家の命運を分けるのは制度の性質であると述べました。つまり、自由で多様な参加を保障する「包摂的制度」を持つ社会は長期的に繁栄しますが、「コスパ重視志向」のもとで利益や成果が一部に集中して、創造性を抑圧する「収奪的制度」に傾いた社会は、必ず衰退するということです。そこから、冒頭のフレクスナーが主張した「役に立たない知識の有用性」は、まさに包摂的制度における文化・学術的なものの価値とも通底するものがあると云えます。

 現代の我が国においては「コスパ重視志向」は、教育や研究の評価などにも浸透して、短期間で成果が見えるものが優先される一方で、基礎研究や人文学のような「すぐには役立たない営み」が軽視されがちです。その結果、長期的な発展可能性が閉ざされ、「失われた30年」と呼ばれる停滞の中で「衰退のスパイラル」に陥っているのではないかと考えます。

 しかしながら、我が国の文化にはまた別の側面もあります。それは、俳句や茶道のように、一見「無駄」に見えるものを尊ぶ伝統です。これらの文化は、実用性を欠いているように見えながら、人々の感性や生活の質を豊かなものにし続けてきました。そして、そのことは、フレクスナーが説いた「役に立たない知識の有用性」とも共通するものがあると考えます。そのため、もしも、こうした我が国古来からの伝統を再評価して、学問研究や制度設計などにも組み込むことが出来れば、我が国独自の取組みとして、包摂的な学問研究を含む文化全般をより創造的なものにすることが出来るのではないかと考えます。

 そこで、現代の我が国社会での課題に目を転じてみますと、具体的な施策としては、第一に基礎研究への長期的投資が不可欠であると考えます。医療や工学をはじめとする自然科学系・理系分野においても、すぐには成果が出ない探究を支えることが将来の大きな革新を生むと考えます。第二に、我が国が直面している超高齢化社会の現実を鑑みますと、医療介護系の専門職大学の新設も急務であると考えます。そこでは単なる職業訓練だけではなく、人文学や基礎科学への能動的な好奇心も重視して、現場での実践と学術研究を往還できるような人材を育成出来るような制度を整備することが重要です。さらに、これは基礎研究を含む「科学に従事する人」を育成するという意味においても有意義であると考えます。また、今後、我が国が直面する医療介護分野での課題と、それらへの対応とは、将来、同様の課題に直面する国々にとっても価値を持つことになると考えます。そして、そこに向けた各種基盤の整備や制度設計こそが、我が国において「包摂的制度」を具体化するものであり、そして長期的な繁栄への礎になるのではないかと考えますが、さて、如何でしょうか?

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2025年9月19日金曜日

20250918 大気の薫りと混然一体とした記憶の想起について  ー和歌山への訪問から自然と歴史についてー

 先週末から今週の月曜日にかけて、久しぶりに和歌山を訪問する機会を得ました。今回の滞在は和歌山市内に限られ、市外や南紀方面へ足を延ばすことはありませんでしたが、街なかの空気を吸うと、周囲の山々や海から流れ込む独特の大気の薫りが、かつて南紀や和歌山市内で暮らしていた頃の記憶や感覚を呼び起こしてくれます。そして、この感覚は、気力や忘れかけていた興味なども蘇らせて、心身を元気にしてくれるように思われます。また、対照的に、現在在住している首都圏では、こうした自然豊かな大気を感じられるような環境や機会は乏しく、さまざまな利便性の反面で、自然との距離が遠いように感じられます。

 これまでにも当ブログにて折に触れ何度か述べてきましたが、私がはじめて和歌山の自然環境に接し畏怖を覚えたのは、2001年に北海道から南紀白浜へ転勤した際でした。南紀白浜の関西圏有数の温泉地としての賑わいの背後には、黒潮からの波が打ち寄せる荒々しさと、紀伊山地(熊野)の南方的な鬱蒼とした照葉樹の森が広がっています。そして、その景観は、それまで、鼻で息を吸うと頭が痛くなるような寒い北の大地にいた私にとっては強烈なものであり、全てを包み込んでしまうような、その自然環境の前では、ただ立ち尽くすばかりでした。

 南紀白浜、その北隣の紀伊田辺市、さらに双方の内陸に位置する上富田町は、紀伊山地南西端の沿海部の中核地域であり、古い時代に「牟婁(むろ)」と呼ばれていたのは、この地域であったと推測されます。転勤後、この地名(西牟婁郡)をさまざまな書類や葉書や手紙に書くたびに、それまであまり縁がなく、また関心もなかった、その古風な地名の響きから、何と云いますか、本物の土俗的な歴史の厚みと、時間の隔たりに、ある種の違和感と驚きを感じていました。

 やがて、休日を利用して自転車や自動車で周辺地域を巡るようになりますと、古めかしい地名は「牟婁」にとどまらず、地域に多数あることに気が付きました。また、「牟婁」からさらに内陸に入りますと、熊野信仰の中心地域になります。そして、この「熊野」も「くまの」以外に「いや」と呼ぶ地名があったり、あるいは地名ではありませんが、能楽の曲「熊野(ゆや)」のように、文字と読みの対応関係が異なることを知り驚かされました。こうした経験は、我が国の古い言語と方言との関係や、口語と文語の歴史的な変遷、さらには地域性などについて考えさせる一つの契機になったと云えます。

 さらに、興味深いのは地名だけではありません。地域各地の遺跡や出土物なども、土俗的な歴史の厚みを物語るものと云えます。これまでに当ブログにて何度も題材としている弥生時代の青銅製祭器である銅鐸は、この「牟婁」地域、すなわち田辺・白浜・上富田からも複数出土しています。また、古墳時代に造営された古墳も、当地域に多数存在しており、その造営様式は紀北、すなわち紀ノ川下流域(和歌山市周辺)の古墳とは明らかに異なっています。それら地域の複数古墳は、むしろ、紀伊水道を隔てた対岸、徳島県(阿波)の古墳との類似性が指摘されており、このことは、古代での文化の伝播経路や交易ルートなどを検討するうえで重要な手掛かりであると云えます。

 ともあれ、そうしたことから南紀白浜や和歌山市での在住の頃を振り返ってみますと、自然と歴史が渾然一体となって息づいていたことを改めて実感させられます。内陸部ダム湖での釣行への運転時、周囲を見渡しますと、古くからあまり変わっていないであろうと思しき南方的な横溢とした自然の景観のなかに銅鐸出土地があったり、南紀白浜の白良浜北側に鎮座する熊野三所神社境内にある半ば自然と一体化したような火雨塚古墳を見ていますと、千年以上前からの時の流れや、人々の営みについて否応なく考えさせられます。そして、負け惜しみのように聞こえるかもしれませんが、こうした経験は、少なくとも私にとっては首都圏での生活では得がたいものであったと云えます。あるいは、元来、歴史などに興味を持つ性質であった私にとっては、前述のような自然と歴史が混然一体となった環境によって、歴史への興味が、より具体的なもの、あるいは、地に足のついたものへと深化したのではないかと思われるのです。

 そして、今回の短い滞在においても、こうした感覚がまた少し甦ったように感じられました。地域での大気の薫りが契機となり、自らの、そしてまた、太古から現代に至るまでの地域の歴史の営みに、また思いを馳せることが出来たように思われます。自然と人間、そして地域の記憶とも云える時間の重層性は、少なくとも私にとっては、和歌山と云う地域において特に顕著に感じられると云えます。また、現在、首都圏に在住する私にとって、この再認識・確認は、単なる懐古に留まらず、同時に、現在よりさきについて考えるための契機にもなったように思われます。

そういえば、吉田松陰による「西遊日記」に以下のような記述があります。

原文
『心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは触に従ひて発し、感に遇ひて動く。発動の機は周遊の益なり。』

現代語訳
『心はもともと生き生きしたもので、必ず動き出すきっかけがある。そのきっかけは何かに触発されて生まれ、感動することによって動き始める。旅はそのきっかけを与えてくれる。』

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。


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2025年6月29日日曜日

20250629 かつて在籍した研究室での雰囲気について

 さて、以前にも何度か当ブログにて述べたことがありましたが、私がかつて在籍していた研究室の長であった教授(師匠)は、歯学と工学の両分野で博士号を取得された、所謂ダブル・ドクターでした。そして、それ以外に特徴的であることは、英語が非常に堪能である点です。

 もっとも、事情に通じておられる方々であれば、大学の医歯薬理工系分野の教授が英語に堪能であることは、当然とまでは云わないにしても、自然なことだと受け取られるかもしれません。そして、そうした見解も踏まえた上で申し上げれば、師匠の英語で特筆すべきことは、口語においても非常に堪能であるという点です。

 このことは、おそらく師匠ご自身も自任されており、その反映として、当研究室では、毎週水曜日の朝8時から9時まで英論文の輪読会が行われていました。そして、おそらく、これが私にとって、鹿児島在住期の最初の試練であったと云えます。

 とはいえ、私は、それ以前のホテルのフロント勤務の頃や大学院修士課程の頃にも、英語に触れ、学ぶ機会・経験はある程度はありましたので、歯科系の英論文といえど、まったく「歯が立たない」ということはありませんでした。また、師匠や研究室の諸先輩方も「まあ、大丈夫じゃないか…?」程度には評価してくださっていたのではないかと思われます。

 そうしたこともあり、大学院入学から約半年後には、ポスター発表ではありましたが、人生初、海外(韓国)での学会発表の機会を頂くことが出来ました。

 とはいえ、当研究室では、海外での学会発表などは、さほど珍しいことではなく、師匠をはじめ研究室構成員の多くが、度々、海外での学術会議等の出席のために出張されていました。その様子から、「彼等は正式な所用として海外に行くために研究しているのではないか…?」と当時、少し邪推したこともありました…。無論、それは全般的には的外れな考えと云えますが、同時に、ごくわずかではあれ、そうした心情もなかったわけではないとも思われます。

 そして、そうした環境にて師匠が教授として在任されていた当時の研究室は、非常に活発で活気がありました。アカデミアや企業の方々、さらには研究熱心な開業歯科医師・歯科技工士の方々など、さまざまな来訪者が頻繁に研究室にいらっしゃっていました。

 さらに、先述の水曜朝の英語論文輪読会もあり、当時の研究室は端的に「賑わっていた」のだと云えます。

 また、偶然であるのか、当研究室の構成員は、教授をはじめ私に至るまで、血液型B型の男性が際立って多く、その主張の強い性格から、日常的に議論が絶えませんでした。ただ、それらは陰に籠るようなものではなく、双方が納得に至れば収束するといった性質のものでした。

 私はそうした様子を見て、以前に読んだ福澤諭吉による『福翁自伝』に描かれた適塾の活気ある雰囲気が不図、思い出されました。そして、そこから「学究的な空間」とは、古今東西を超えた普遍的なある種の性質や特徴があるのではないかと思うに至りました。

 また他方で、師匠の決して隠そうとされない郷音の河内弁が、会話の途中にて突如、比較的聴き取りやすい英語へと切り替わる様子に、何かしら「常ならぬもの」を感じ取っていたのではないかと思われるところもあります…。

さて、今回なぜこうした題材をブログ記事として取り上げたのかと申しますと、本日(6月28日)、師匠がまた、何らかの公の舞台に立たれると聞き及んだためです。そして今頃は、無事に、そのお役目を果たされたものと考えます。

 そしてこの機に、かつて師匠が率いられていた頃の研究室の様子を文章として記述するとともに、現在、私が英語の口語・文語に対して、つたないながらも何とか対応できている原点を振り返ることは、ささやかながら師匠への称揚ともなり、時宜にかなっているのではないかと考えた次第です。

今回も、最後までお読みいただき、どうもありがとうございます。


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