ラベル 薩摩 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 薩摩 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年11月5日水曜日

20251104 黎明期の試作機である私について

 当記事を含めて、残り2記事の投稿により、当面の目標としている2400記事に到達します。さて、以前にも当ブログで述べたことがありますが、私は2007年に修士(経済学)を取得後、歯科技工専門学校に入学し、歯科技工士としての専門教育を受け、2009年に歯科技工士免許を取得して、歯科生体材料学を専攻分野として大学院博士課程に進学、2013年に博士(歯学)を取得しました。

 現在では、国内に4年制の歯科技工士養成課程を有する大学が2つあり、広島大学が2005年、東京科学大学(旧・東京医科歯科大学)が2011年に、それぞれ設置されています。それ故、私が博士号を取得した2013年当時、仮に最初の学士課程の入学生が順調に進学されていたとしても、博士課程3年目にあたる段階であり、修了には至っていなかったと見込まれます。つまり、その時点で修士課程を経て課程博士を修了した歯科技工士の事例はほとんど存在せず、私の修了は、ごく初期、あるいは日本初であった可能性もあると考えています。

 キャリアパスが整備される以前に、異分野の修士課程を経て、歯科技工士として進学が妥当と云える歯学分野の博士課程に進み、どうにか修了にまで至ったことは、巨視的に見れば、我が国の歯科技工士教育と歯学分野の学術研究とを結節する、ごく初期の試みであったと云えます。

 現在では、4年制大学での課程を卒業された歯科技工士の方々が、大学院修士課程、さらに博士課程へと進学する事例も聞かれます。そうした整備された道を歩まれてきた方々と比べますと、私などはまるで、黎明期の試作機、あるいは不格好な多砲塔戦車のような存在と云えるかもしれません(苦笑)。しかし、そうした時期であったからこそ、特有の創意や自由闊達さもまたあったのではないかと思われます。

 とはいえ、その過程には以前にも述べました通り、さまざまな困難があり、決して順風満帆なものではありませんでした。そうしたなか、2012年、教授(師匠)も准教授の先生もおられない状況で、担当させていただいた鋳造および鑞付けの歯科理工学実習では、研究室の先生方からご許可を頂き、人文的な話題を随所に交えながら実習を進めることができましたが、これは余程、自分の性質に合致していたのか「それまでの人生がこのためにあったのだ!」と感じられるほどの経験であり、それだけに、今なお強く記憶に残っています。

 それでも、学位取得後の道のりもまた、決して平坦なものではなく、まさに紆余曲折を経るものでした。黎明期の人間として、その不完全さなどネガティブな面全てを含めて、まあ自分らしい経路であったのではないかと思われるところですが、今後は、これまで培った経験を活かしつつ、若い世代の医療専門職の方々が、より自然に人文書に興味を持ったり、臨床と研究とを往還出来るような環境の整備に微力ながら関わりたいと考えています。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













2023年5月28日日曜日

20230527 ブログ2000記事到達に際して

当記事の投稿により、総投稿記事が2000に到達します。当ブログをはじめてから約8年ほどで2000記事の投稿と考えてみますと、その期間は、10日間のうち6~7日は1記事投稿してきたことになりますので、私としては思いのほかに継続したのではないかと思われます。とはいえ、現在、当記事を作成していても、感興や感慨のようなものは皆無と云えます。

また、以前、当ブログにて自分にとって転機となった南紀での経験を述べてみたいという考えから作成した【南紀について】は比較的多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、大学関係者の方々で、新たな医療介護リハビリ系の専門職大学あるいは科学技術大学院大学などの設置を検討されていましたら、南方熊楠が後半生を過ごした口熊野とも呼ばれる紀伊田辺は、南紀白浜温泉にもほど近く、風光明媚であり、教育・研究の環境として悪くないと思われますので、類似した環境と云える紀伊半島南部の東側の新宮と併せて是非、ご一考頂ければと思います。

さらにもう一つこじつけますと、紀伊田辺・新宮双方から通じている熊野本宮大社の主祭神は、家都御子神または家都美御子神(けつみ(み)このかみ)ですが、実は、これは出雲系の神である素戔嗚尊のことであり、この神は、木の国だけに樹木の神であると同時に、穀物の神でもあることから食の神とされています。そして実際に紀州・和歌山は、鰹節や醤油などの我が国の食文化には欠かすことの出来ない食材の発祥の地であり、さらに伝統食品である梅干しの生産量もダントツの首位であることから、語義通り、日本の味のルーツが今なお息づいている地域であると考えます。

そして、前段が幾分長くなってしまいましたが、こうした文化的背景を持つ地域に、食材の専門家である管理栄養士を主軸として、それに関連する職種と云える歯科衛生士などの医療介護リハビリ専門職を養成する学費が安価な高等教育機関(専門職大学)を、ある程度の規模の病院など医療機関がある紀伊田辺・新宮双方に設置しますと、西日本・東日本双方の受験生にも対応出来て、とても良いのではないかとも思われます。

そして、それら専門職大学では、各々専攻する専門職の養成課程科目と語学課目とは別に、各学生さんの内発的な興味に即した人文系の自由研究科目を必修として、それを在学期間を通じて学び続けるようなカリキュラムにすることにより、これまでとは少し異なった知的背景を持つ専門職の方々を養成することが出来るようになるのではないかと思われるのです。

以前、当ブログにて自らのことを「私は課程博士を修了した初めての歯科技工士ではないか?」と述べましたが、その路程は兄の死や、指導教授(師匠)の予期せぬ退職などが重なり、それなりに辛いものでしたが、同時に歯科理工学実習にて鋳造や鑞付けを担当させて頂き、2012年からは教授も准教授の先生もいない状況下にて、実習書や教科書に記載の情報以外は、人文系ネタを随所に散りばめつつ実習を進めることが出来たことは、自分の性質に合っていたのか強く記憶に残っています。

学生さんとしては、実習にて30歳過ぎのオッサンの本能と知性が噛み合って駆動している様子を、何やら「おかしなもの」として見ていたのではないかとも思われます・・。実際、私が人文系ネタを話しながら、実習手順や使用材料などについて説明していますと、後ろから小声で「民明書房刊・・」と聞こえたこともありました・・(苦笑)。

しかし他方で、自分としては最も多く人文系ネタを散りばめた実習を行った2012年度の実習後から2013年初旬にかけて、どうしたわけか、休日での市内の散歩や、喫茶店での読書の際に、実習時に担当した学生さんから話し掛けられることが何度かありました。

若い女性が町なかで、数度の面識しかない中年男性に話し掛けることは、あまり一般的な行為ではないと思われますので、ありがたいことであるのか、ともあれ、少なくとも危険視はされていなかったのではないかと思われます・・(笑)。

また、そこでの会話のさなかに、性懲りもなく人文系ネタを話してみても興味深そうに聞いて頂き、また、私としても、その都度のご質問にも、あまり逸らさない返答が出来たのではないかと記憶しています・・。

そして必修である実習以外の場面で、自分が話す人文系ネタを面白そうに聞いて頂けたり、それに対しての質問などの知的な反応を頂いたという経験は、それまで人文系を背景とする歯科技工士の大学院生として、あまり良い目を見たことがなかった私としては、それなりに画期的、いや革命的なことであり、以前にも述べましたが、そうしたいくつかの経験が複合的に作用して、今回の2000記事達成に至るのだと云えます・・。

とはいえ、であるからと云って、私はその学生さん達に恋慕しているわけではありません。おそらく、彼女等の多くは、鹿児島弁でいうところの「よかおごじょ」らしく、比較的早くに結婚されて、現在は子育てをされているのではないかと思われます。しかし、それらの方々が10年前の学生時代の実習時に、変なことを話していて「何だか面白そう・・」といった感じであるのか、町なかで話し掛けた中年男性は、8年近くかけて2000記事のブログを作成程度のことはしたということで、各々の「見る目」のご参考にして頂ければと願うところです・・。

おかげさまで(どうにか)2000記事に到達することが出来ました。そして今後はしばらく記事作成を休もうと考えていますが、また思いのほか案外早い時期に再開してしまうのではないかとも思われます・・。

そして2000記事到達となる今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。



















2023年2月16日木曜日

20230215 青潮社刊 加治木常樹著「薩南血涙史」pp.93‐97より抜粋

青潮社刊 加治木常樹著「薩南血涙史」pp.93‐97より抜粋
ASIN ‏ : ‎ B009752XV8

 二月十五日

頃日天候俄に一変し十二日以来激甚の寒気を加え雪を降らすこと連日此日に至り地上の積雪幾んと六七寸より尺余に及べり古老之を伝えて五六十年来未曾有の大雪なりと云う天已に此の兆を示す前途亦寒心せざるを得ざるものの如し而して此日を以て出陣の初日とす午前六時を期し練兵場に集合し同八時を以て進発するの予定なりしかば四千有余の壮士各結束し払暁白雪を蹴り続々として練兵場に至り各隊標示の下に会し篝火を焚きて其期を俟つ、斯て八時を報ずるや各隊順次繰出し一糸乱れず整々として練兵場を発し東西に分れて征途に上る其状甚だ勇壮なりき。

一番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来湊町(八里)に至り二番大隊は東目街道より進み重富に休憩し加治木(五里)に至りて一泊す又別府晋介の統率せる加治木先鋒の一番二番の大隊は早天加治木を発し溝辺に休憩し横川(五里)に至りて一泊す。

二月十六日

此日雪前日より甚しく三番四番の大隊は予定の時刻を以て練兵場を発し三番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来湊町に至り、四番大隊は東目街道より進み重富に休憩して加治木に至り別府の二大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口(六里)に至り、又二番大隊は加治木を発し溝邊に休憩して横川に至り、一番大隊は市来湊町を発し向田に休憩し阿久根(十里)至りて各一泊す。

二月十七日

降雪猶ほ前日の如し五番大隊及び砲隊は予定の時刻を以て練兵場を発し、五番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来に至る篠原国幹、永山弥一郎、池上四郎之と共にす砲隊は東目街道より進み西郷隆盛、桐野利秋、村田新八、淵邊高照之を率い此日西郷隆盛は陸軍大将の略服を着し正帽を戴き刀を帯び草鞋を着け歩して田の浦に至る偶ま西郷の長男寅太郎一僕を従えて来り謁す西郷顧て曰く「来たか」と共に行くこと数丁西郷曰く「もう帰れ」と寅太郎猶ほ従い行こと数十歩僕之を止む寅太郎止むを得ず西郷に一礼して停立し其行を目送す、西郷亦屡途より之を顧み磯天神社の下に至る、西郷、淵邊高照に謂て曰く「旧君の門前に至らば諸兵宜しく一礼して過ぐべしと淵邊乃ち敷根市蔵をして之を伝へしむ、砲隊皆な礼して過ぐ西郷亦恭しく三拝して去る、重富に至りて休憩し加治木に一泊す、別府の二大隊は大口を発し久木野に休憩して佐敷(六里)に至り二番大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口に至り四番大隊は加治木を発し溝邊に休憩し横川に至りて一泊す又一番大隊は阿久根を発し野田に休憩して出水(四里半)に至り、三番大隊は市来湊町を発して向田に休憩し阿久根に至りて一泊す。

二月十八日

別府の二大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久(五里)に至り二番大隊は大口を発し久木野に休憩して佐敷に至り、四番大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口に至り砲隊及び西郷等は加治木を発して溝邊に休憩し横川に至りて一泊す、又一番大隊は出水を発し(休憩所不詳)水俣(四里半)に至り、三番大隊は阿久根を発し野田に休憩して出水に至り、五番大隊は市来を発して向田に休憩し阿久根に至りて一泊す。

二月十九日

別府の二大隊は日奈久を発し八代に休憩して小川(六里)に至り、二番大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久に至り、四番大隊は大口を発して(休憩所不詳)水俣に至り砲隊及び西郷等は横川を発して栗野に休憩し吉田(五里)に至りて一泊す、又一番大隊は水俣を発し湯の浦に休憩して佐敷(四里半)に至り、三番大隊は出水を発して(休憩所不詳)水俣に至り、五番大隊は阿久根を発して野田に休憩し出水に至りて一泊す。

二月二十日

別府の二大隊は小川を発し宇土に休憩し川尻(五里)に達せり、二番大隊は日奈久を発し八代に休憩して小川に至り、四番大隊は水俣を発し湯の浦及び佐敷に休憩して田の浦に至り、西郷及び砲隊は吉田を発し人吉(七里)に至りて一泊す、又一番大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久に至り、三番大隊は水俣を発し(休憩所不詳)佐敷に至る、五番大隊は午前八時出水を発して米の津に至り同九時三十分一隊二十艙の船に分乗し午後四時佐敷に着せしが、三番四番の大隊既に着陣し宿陣すべきの家屋なかりしかば海岸白岩村に至りて宿陣せり、此時熊本城下及び川尻駅焼失の風説あり是に於て三番大隊は午後七時更に佐敷を発し夜を冒して進軍し田の浦に至りて露営せり而して此夜鎮台兵城下を放火し戦備に汲々たるの情報至り続て別府晋介小川に来り川尻衝突の事を以て二番大隊と軍議を為せり。

2022年2月11日金曜日

20220210 株式会社潮書房光人社刊 光人社NF文庫 伊藤正徳著「軍閥興亡史」第一巻 日露戦争に勝つまで pp.21-23より抜粋

株式会社潮書房光人社刊 光人社NF文庫 伊藤正徳著
ISBN-10 ‏ : ‎ 4769829795
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4769829799

 いわゆる神風が、十万の蒙古軍を博多湾頭に沈めてから、ほとんど六世紀におよぶ長い間、日本は幸いにも外国の侵略から無事であった。渺たる遠海の島国が、西欧列強の視界外に遁れていた形である。

 五百八十何年目かに、外国の砲弾が日本の国内で炸裂した。文久三年(1863年)の薩英戦争がそれであった。生麦事件(島津久光の行列前を馬で横切った英国人を斬る)に対する英国の謝罪および賠償の要求を、薩摩藩が嘲って一蹴し、徳川幕府は無力で相手にならないので、英国は支那艦隊を派して直接談判に赴いたのである。ところが、薩摩の方では、むしろ「待っていました」という肚がまえであった。談判には応じるが「屈するなかれ」という前提で発足した。主君行列の道路先を横切るごとき無礼者は、即座に誅するのが藩の法である。謝罪は先ず横切った側が先にせよ、しかる後に、葬式の費用その他が欲しいと言うなら話に乗ろうーという勢いである。これでは話にならない。

 談判の内容は省略するが、二日間で話がまとまらず、期間が尽きて、実力行使の段階に入った。が、実を言えば、薩摩の法では、初めから戦争になることを予期して、戦備をすまして待ちかまえていたのだ。

 鹿児島湾頭に現れたイギリス艦隊は、旗艦ジューリアスをはじめ、レインボー、アーガス、ハボック、パーサス、ピアール、コクエットの七隻であった。薩摩もつとに海軍を備えてはいた。この藩は国防の先覚者で、四隻の軍艦を持っていたが、(永平、白鳳、青鷹、天祐ー三百トン級)、それらは商船兼用の蒸気船と定義する内容のものであった。文久三年、旗艦永平丸が高風浪のために明石灘で沈没したので、残る三隻だけで英艦隊と対抗する立場にあった。

 「石が流れて木の葉が沈む」という浮世節の俗謡の起こりは「艦が沈んで大砲が浮かぶ」という流行唄であった。そうしてその順逆の皮肉は、薩摩の軍艦が行方不明となり、海上を捜索中に、大砲が漂流しているのを発見して、艦の沈没を確認したという実話から由来したものだ。薩摩の軍艦には、要部に鉄が使ってあったから沈んだが、大砲の方は木製であったから浮いて流れていたというわけだ。

 さすが剛気の島津勢も、弱艦三隻では太刀打ち出来ぬと考えて、もっぱら砲台に拠る作戦であった。天保山を中心に十一個の砲台を連ね、そこにオランダ式山砲八十二門が装備され、それで英艦隊を瞰射する手はずである。もし戦果不充分な場合には、多数の小舟を漕いで敵艦に横着け、乗り移って日本刀を揮い、乗員を皆殺しにして軍艦自体を分捕ろうという作戦計画であった。かつて河野通有らが、蒙古の軍艦に踊り込み、日本刀を揮って敵兵を薙ぎ倒した武勇伝を、五百八十年後の海戦において再演しようというのだ。戦術思想は少しも進歩していなかった。

 児戯笑うべし、とは今日から見た放言に過ぎない。当時の日本の常識はこの程度であり、薩摩のごときは最も進んでいた藩であった(慶応元年に藩費を以て二人の海軍研究生を西欧に派遣したように)。しかしながら鎖国幾百年、西欧の文明と実力についてはほとんど判っていなかったと言っていい。

 くわうるに、薩摩は攘夷の旗頭である。攘夷とは攘夷撃攘、すなわち西洋人の立入禁止の謂である。薩摩はそのリーダーとして三百余藩の中に重きをなしていたのだから、薩英戦争は、実は願ってもない好機会。この一戦において、武力の上で夷敵撃攘の腕前を見せるならば、言行一致満点、全日本は自らこの主義に掃一するであろう。藩士が振い起ったのは当然であった。

 文久三年七月二日、談判は不調に終わった。同時に英艦隊(司令官キューバ中将)は、ただちに薩の三艦を捕獲して錨地に曳航し去った。その前日から台風X号が九州南端を北上中で、湾内は激浪岩を噛み、薩の三艦はすでに行動の自由を失っていたのだ。これを見て、天保山砲台に開戦の火箭が上がり、各砲台一斉に射撃を開始し、英艦ただちに応じて、暴風中の戦闘が始まった。戦記に、「わが勇士中には真っ裸となり、下帯に大刀をさして夷敵撃滅を叫ぶものあり」と書いてあるような不屈の闘魂も、英艦主砲の斉射にたいしては、おそらく、空拳を以て機銃に立ち向かうの類であったろう。

 

2021年7月16日金曜日

20210716 株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」pp.22-25より抜粋

株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」
pp.22-25より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480434828
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480434821

当時、中国大陸を支配していた明朝は海禁政策を布いていた。

明の皇帝は国内の反明勢力と海賊との結びつきを恐れて、自国民に他国との海上貿易を禁じ、外国の朝貢船のみに入港を許可した。いわば条件付きの鎖国である。 しかも朝貢船は好きな時に好きな場所へ行けるわけではなく、国ごとに時期や入港場所の指定があった。たとえば日本は十年に一度、浙江省寧波から入港するようにと定められていた。このように国同士の厳しい取り決めが交わされる一方で、盛んになっていったのが密貿易である。

 十六世紀初頭、東アジアの貿易市場をさらに活気づける事件が起こる。ポルトガルのアジア進出である。1510年、ポルトガルはインドのゴアを占領。その後セイロン島、マラッカ、モルッカ諸島が次々とポルトガルの手に落ちていった。

 ポルトガルの得た果実の中で、ことに重要なのはマラッカだった。マラッカは南シナ海とインド洋を結ぶ海上交通の要所だ。ポルトガルがこの地を押さえたことで、ヨーロッパと東アジアが一つに繋がった。

 ポルトガルはマラッカを拠点に東アジア貿易にも乗り出した。ちなみに東アジアの輸出品のなかで、特にヨーロッパからの需要が高かったのは日本の銀だ。日本の銀は石見銀山の発見と灰吹き法と呼ばれる精錬法の導入により飛躍的に産出量が増大し、日本は新大陸アメリカに次ぐ世界第二の銀産出国となっていた。 

 一連の動きのなかで、海上交通の花形に躍り出たのが琉球だった。

 琉球はもともと東シナ海と南シナ海をを結ぶ役目を果たしてきた。ポルトガルがマラッカを占領したことにより、自国の物産はもちろん、中国、朝鮮、日本など東アジア諸国の商品をマラッカに持込み、反対にインドやジャワ諸島、ヨーロッパの商品を持ち帰ることが可能になった。琉球に世界中の品物が集まるようになったのだ。

 この恩恵にあずかったのが薩摩であり、対琉球貿易の入口の一つが都城島津家所有の内之浦であった。

 従来、日本は明国との窓口を博多に設けており、貿易において薩摩は博多に一歩も二歩も先を越されていた。しかし薩摩は琉球を介することで、明どころか世界中の商品を手に入れることができるようになったのだ。

 慶長14(1609)年、家康の許可を得て薩摩藩は奄美地域から琉球へ出兵した。独自の高度な文明を誇っていた琉球王国であったが、最新鋭の兵器を携えた薩摩武士の猛攻撃の前にはひとたまりもなく、たちまち首里城は陥落、琉球国王・尚寧王は捕らえられ、鹿児島へと連行された。

 翌年、尚寧王は薩摩藩主・島津家久とともに駿府城で大御所・徳川家康と、江戸城で二代将軍・徳川秀忠と面会し、その後再び鹿児島に戻ると島津家の求めに応じて薩摩の琉球統治方針に従う旨の起請文に記し、やっとの思いで琉球へと帰国した。ここから琉球の苦難の歴史が始まる。

 幕府から琉球の仕置きを命じられた薩摩藩は、与論島以北の奄美地方を割譲して薩摩藩領としたものの、琉球全土は植民地化せず、沖縄・先島を琉球王国として残した。

 薩摩藩は琉球をあえて同化せず、従来の王朝体制を温存して、中国との朝貢関係も継続させた。言うまでもないが、このような形式をとったのは薩摩側にとって都合がよいからであり、琉球の独自性を認めていたからではない。

 薩摩藩は琉球に出先機関(琉球仮屋)を設置し、朝貢貿易の運営に関与するとともに、琉球から多額の租税を徴収した。薩摩藩がいろいろな名目をこじつけて琉球から甘い汁を吸い上げる様子は、まさに「骨の髄まで」という表現がぴったりとあてはまる。

 また、琉球は薩摩藩を介して幕府へも服従を強いられた。

 琉球王が即位するたびに謝恩使を、将軍の代替わりのたびに慶賀使をそれぞれ将軍家へ遣わすことになっていた。その際、使節は中国風の衣装を身につけ、異国情緒たっぷりな行列を仕立てたという。 

 使節派遣は幕府からすれば異国を従えていることを天下に示す機会であり、薩摩藩にとってはその異国を事実上従えている自らの存在感を幕府に示す機会でもあった。

 むろん、こうした支配の在り方は琉球にとっては屈辱的なものだった。しかしながら、この時代の琉球支配と、近代になってからの琉球統治とを比べて、どちらのほうがより文明的であったこといえば、その答えは簡単に出ない。なぜならば江戸幕府も、薩摩藩もいわゆる「同化政策」だけは行わなかったからである。つまり、支配はしても、琉球の文化や風俗まで変えようとはしていない。

 このように薩摩藩が琉球固有の文化を残したのは、あくまでも政治上の思惑であり、琉球の文化に高い敬意を払ったからではなかった。琉球からみれば薩摩藩は憎むべき侵略者そのものだ。

 その点を踏まえたうえでなお、薩摩藩には多様な文化が並立して存在することを良しとする、度量の広さがあったーそう言っても差し支えないのではないか。


2020年7月5日日曜日

20200704 この度の南九州での大雨災害から

先ず、このたびの大雨によって甚大な被害を被った南九州地域での行方不明となった方々の早期の生還・救出そして、さまざまな生活インフラの早期の復旧を祈念いたします。また、報道番組などで、当地域の映像が出てきますと、さまざまな記憶が思い起こされてきます。

今回、多くの被害を被った球磨川流域、人吉市は、鹿児島在住時に訪問したことがあります・・。さらに当地ご出身の学生さんがおられたことも思い出されましたが、今回の大雨で被害に遭われていないこと願っています・・。

鹿児島在住時、球磨川流域の人吉市を訪れたのは、2011年の初秋であり、川下りのラフティングのためでした。これを企画して頂いたのは、当ブログにて何度か取り上げさせて頂いている先輩院生の方であり、2009年に兄が亡くなり、さらに、2010年には指導教員が心ならずも退職されることになり、失意のどん底にあった私を、おそらくは見るに見かねて、企画してくださったのではないかと思われます・・。

とはいえ、この先輩は、そうした気配を全く見せることなく「実は中止にしようと思ったんだけれども・・。他の参加者の様子を見に研究室を訪ねてみたら、皆でYouTubeでラフティングの動画を喜々として見ている光景を目にして引くに引けなくなった・・。」と、国道225号沿い、南鹿児島駅近くのリンガーハットで皿うどんを食べながら話してくださったことが思い出されます。ちなみにこの先輩は皿うどんが好物であり、そこに酢を多くかけるのが特徴的でした。

しかし、こうした一種、露悪的とも云える言動は、現在考えてみますと、私に余計な気を使わせないためであったのではないかとも思われるところですが、そうしてみますと、私が学位審査前でおかしくなっている頃も、同様に、そうした行動や言動を取り、またそれは、当時私の周囲におられた多くの研究室関係者においても同様であったのではないかとも思われてきます。

他方、当時の私は、おかしくなっていたものの、そのことに少しは気が付いていたフシもあり、学位審査を終えて結果が出た後、天文館で開かれた祝賀会にて私が「ええと、この度、私がどうにか学位取得に至ることが出来ましたのは、自分の努力以上に、ここにおられる諸先生方の「運」を少しづつ分けて頂いたことによると云えます。」と宣ったところ、しばらくの間、場が固まり、そして、当時、他講座の助教であった指導教員門下の最年長の先生が「ささ!まあ、それは良いとして、とりあえずは乾杯を!」と流れを変え、その場の雰囲気を変えましたが、実のところ、あの場で私が云ったことはまさに図星であったのではないかと思われるのです・・。そして、図星であったが故に、その場におられた先生方は、その話題を深入りされたくなかったのではないかと思われるのです・・。



しかし、現在になって考えてみますと、さきにも述べましたが、兄の死と指導教員の突然の退職が重なり、かなり落ち込んでいた私を、そのまま放置せずに、あまり気が進まない素振りは見せつつも、さまざまな危機的な局面で救って頂き、また、良い方向への進路変更をさり気なく促してくださったのは、こうした周囲の先生方であり、あるいは、あまりこうした事情をご存じでなかった学生さん達であったのではないかと思われるのです。

そして、今現在、学位取得の2013年から既に7年近く経っていますが、そこから自分自身が、有意に変わったとは、どうしても思うことが出来ないのです・・。つまり、2013年から現在までは「本当にどうにか生きてこれた・・。」ような感じがしてなりません・・。

それは、何かしら精神的な傷によるものであるのか、あるいは、そこで芯が疲れ切ってしまったのか、はたまた、それがごく普通の生き方であるのか分かりませんが、私としては、もう少しハリのある、自身を生かし、精神の自転運動を惹起させるような、生き方をしたいと願うところですが、それは、少し高望みし過ぎなのでしょうか・・(苦笑)。

ゲーテの「ファウスト」に『心をよみがえらす泉は自分の胸中からわいてこねば、心身をよみがえらすことはできない。』といったコトバがありましたが、今後、私はその泉を自分の中に見出すことが出来るのでしょうか・・そして、それは当ブログと関係があるものなのでしょうか・・イマイチよく分かりません(苦笑)。

ともあれ、上記のような経験の記憶を私に与えてくれた南九州における、この度の大雨災害による被害が出来るだけ軽微であり、また、そこからの復旧が速やかに進むことを願っています。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5

~勉強会の御案内~
歯科材料全般あるいは、いくつかの歯科材料に関する勉強会・講演会の開催を検討されていましたら、ご相談承ります。また、上記以外、他諸分野での研究室・法人・院内等の勉強会・特別講義のご相談も承ります。

~勉強会・特別講義 問合せ 連絡先メールアドレス~
conrad19762013@gmail.com
どうぞよろしくお願いいたします!




2017年1月22日日曜日

20170122 2011年の年始を思い出して・・

2010年年末から2011年年始にかけて鹿児島では記録的な大雪が降りました。

記録によりますと鹿児島市内にて約25㎝程度積もったとのことですので、本格的な積雪が滅多にない鹿児島としては、これは異例、珍事であったといえます。

また、その折も私は帰省せずに実験室に通っておりました。
加えて、たしかこの期間(冬休み)は全館暖房が夕刻までしか機能しないことから、その後の時間は講座研究室の先生の好意によりガス・ストーブを使用させて頂いておりました。

そして年も改まった残雪著しいある日、帰宅しますと昨2010年秋の学会発表(東海地方開催)において優秀発表賞を受賞したとの通知葉書が郵便受けに入っておりました。

この受賞は自身としてまったく予期していないことでしたので大変嬉しかったです。

それとまた同時に、このことはさきに述べた鹿児島での記録的な大雪とは関係がないものと考えます・・(笑)。

とはいえ、この受賞通知を受け取り、そのまま関係各方面の方々にその旨をお知らせするメッセージを作成、送信し、さらに翌日、講座にて周囲の先生方にお伝えしました。

しかし、講座の先輩院生方とは、大抵何らかのカタチでこうした賞を受賞されておりましたので、それは快挙というよりも、どちらかというと「講座での受賞歴の轍を前進させた」といった意味合いの方が強かったように思われます・・。

また、お知らせした先生方の中には「うん、それは良かった。しかし今春の学会は韓国での国際会議と合併開催の予定であるから授賞式は今秋の学会にされるだろうね・・それまで悪いことをしないように気をつけなさい・・。」と親切に忠告してくださる方もいらっしゃいました・・。

ともあれ、その後同月23日には、未だ残雪多い紫尾山に講座の先輩方と登っておりました・・。

この紫尾山とは、ある伝説により内輪にて大変おそれられていたのですが「今回はある程度雪も残っているから大丈夫であろう・・」とのことで登山を試みた次第ですが、その登山路とは想像以上に残雪が多いことから、かえって難儀したことを記憶しております・・(苦笑)。

しかしながら、同時にこれは大変良い経験でした。
何故ならば、はじめての雪山の登山が南国鹿児島であったという方々は、あまり多くないと考えるからです・・(笑)。

このような調子にて2011年はスタートしていた次第ですが、この年は年始から大雪、受賞(の通知)といった平穏ではない滑り出しではありましたが、同時にそれは前年後半から生じていたさまざまな出来事に付随、継続するようなものであったのではないかと思われます・・。

そして、ここまで書いていて不図思い起こされたのが、現在読んでおりますエルヴィン・シュレーディンガー著「生命とは何か」第4章「量子力学によりはじめて明らかにされること」の「遷移」についての記述です。

この著作は「まえがき」が大変面白いと思い購入した次第ですが、正直なところ、中には意味がよく分からない部分もあります・・(苦笑)。

しかし、全体として大変興味深いことが記されているのではないかと思いますので、興味がある方は読まれてみては如何でしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

昨年発生した熊本、山陰東部そして福島周辺における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」








2017年1月19日木曜日

20170119 鹿児島での登山等から思ったこと・・

本日の首都圏もまた大変肌寒く感じる一日でした。

さて、昨日投稿した記事に書いた通り2009年暮れ、および翌2010年はじめは実験(試料作製)にて明け暮れておりました。

そして2009年の仕事おさめの直前に、師匠から「おい、開聞岳に登らんか?」と尋ねられ、二つ返事にて、その年明け早々に開聞岳に登ることになりました。

開聞岳については以前投稿したブログ記事にて記しましたが、思い起こしてみますと鹿児島在住期間を通じ三度登ったのではないかと思われます・・。

そしてこの2010年1月での登山とは昨2009年11月の出来事によりあまり気勢が上がらず、おそらくそうした状態を見かねた師匠が誘ってくださったのではないかと思います・・。

登っている最中「どうや、やっぱり自然はええやろ?実験も楽しいけれど、そればかりではのお・・。」といった感じに時折話しかけてくださいました・・。

このような調子で登頂した開聞岳頂上は他の登山客もあまりおらず、冬の澄んだ空気にて、はるか南の方角に屋久島の宮之浦岳が望むことができました。

そして、この2010年とは、これを皮切りに師匠、講座の方々と登山に行くことが度々ありましたが、おそらく、そのお蔭で春を過ぎた頃になりますと大分元気を取り戻すことが出来ましたのではないかと思います・・。

また、ここまで書いており不図思い起こしたことは同年11月初頭に開催されたインドネシアでの学会の投稿原稿を登山に向かう自動車の中にて師匠に(数人分)添削して頂いたことです・・(笑)。

この時登った山は、たしか大隅半島の高隅山あるいは周辺の横岳、平岳であったと記憶しております。

このように思い起こしてみますと、登山とまではいかないハイキング程度をも含めますと、それなりに数多く行っていたのではないかと思われます。

またその後、師匠、講座の先輩方が周囲からいなくなりますと、週末になると一人で原付にて「脇田」電停まで行き、そこから市電に乗り「天文館通」あるいは「いづろ通」まで出向き、そこから脇田、宇宿まで徒歩にて戻り、登山、ハイキングの代わりとしておりました・・。

こうした街歩きの場合、途中幾つか大型の書店などにも立ち寄ることが出来たため、これはこれで良かったとも思われます・・(笑)。

さて、ここまで書いており、不図、ここ最近の数回にわたる鹿児島での出来事を記したブログ記事、およびつい先日公表された三島由紀夫と外国人翻訳者との対談記録テープ内容に関連するのではないかと思われるゲーテ著「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」からの記述を以下に示そうと思い立ちました。

「小説でも戯曲でも、われわれが見るのは、人間の性質と行為とである。両者の差別は単に外形にあるのではない。
即ち一方では、人物が話をし、他方では、通常その人物について語られるというような点に、差別があるのではない。
だが、情けないかな、多くの戯曲は対話体の小説に過ぎない。これでは、戯曲を書簡体で書くこともできないことはない。小説では特に心情と事件とが現されねばならない。
戯曲では性格と行為とが現されねばならない。小説は徐徐に進行し、主人公の心情が、どんな方法によるにせよ、全体の急速な進展を引き止めるのでなければならない。戯曲は急ぐべきもので、主人公の性格は終局に向かってまっしぐらに進むべきであって、ただそれが食い止められているのでなければならない。小説の主人公は受動的であるべく、少なくとも甚だしく能動的であってはならない。戯曲の主人公には活動と行為とが望ましい。小説では偶然の働きを許すことはできるが、それは常に人物の心情によって導かれねばならない。
これに反し、人間の関与をまたず、独立した外的の事情によって不測の破局へ人間を駆って行く運命は戯曲にのみ存在する。偶然というものは愁嘆場をひき起こしはするが、悲劇的な情態を作り出すことはできない。これに反し、運命は常に恐ろしいものでなければならない。そして、罪のある、あるいは罪のない、互いに独立した行為を、不幸に結びつけるような場合には、運命は最も高い意味で悲劇的となる。こういう考察は再び、あの驚嘆すべきハムレットと、この作品の特性との考察にもどった。みんなは次のように言った。
この主人公は元来心情を持つだけである。また彼に起こって来るものは事件だけである。したがってこの戯曲には小説のように間ののびたところがある。しかし全体の結構は運命の描くところであり、全曲は恐ろしい行為から出発している。
また主人公はたえず恐ろしい行為に向かって駆り立てられている。したがってこの戯曲は最高の意味で悲劇的であり悲劇的結末に終わるほかないのである。」

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
そして、上に示した抜粋引用部と、さきに述べた事柄との関連性については如何お考えになるでしょうか・・(笑)?

さる熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」