其の1からのつづきです。
「脱然貫通」という言葉で表現される意識のこの突然の飛躍転換がいかに激烈な実存的体験であったかは、その決定的瞬間の実感を描く朱子の文章に生々と写されている。
「突如、真夜中の静寂(しじま)を劈く烈しい雷鳴(表層意識のかたく閉ざされた闇の厚みを、耳を聾するばかりの凄まじい雷鳴が貫通する)。と、見る間に、数かぎりない扉が一斉に開く(突然、深層意識が発動し、それに呼応して太極の扉が四方八方に向って開かれて、この意識と存在の原点から無数の事物が発生してくる光景を目撃する)」と。そして、この異常な体験を通じて、「無心(未発達の至極における深層意識)そのものの中にあらゆる経験的事物(已発の状態における現象界のすべて)が内含されていることを悟ったなら、その時、その人は、まさに「易」の創始者その人と面々相対して立つ(太極そのものと完全に一化している)と言っていいだろう」と朱子はこの文を結ぶ(「朱子文集」三十八。原文は詩。ここには大意を取る)。
こんな烈しい実存体験にまで人を導くはずの「窮理」の道。経験界に存在する事物について、一つ一つの「理」を探る、というが、果たして文字通りすべての物の「理」を窮め尽さなくてはならないのだろうか。程子の門下でも朱子の門下でも、それは大きな問題だった。竹一つ、椅子一つにしても、その「理」を窮めるにどれほどの時日を要するのか見当もつかない。もし本当に、ありとあらゆる事物の「理」を一つ残らず把握してはじめて「貫通」するものであれば、生命がいくつあっても足りないだろう。
ある人が伊川に問うた、「格物(窮理)を実践するためには、あらゆる物について、それぞれのその理を窮め尽さなくてはならないのでしょうか。それとも、ただ一つの物だけ取り上げて、その理を完全に窮めてしまえば、あとはそのまま万理に貫通することができるのでしょうか」。
伊川は答える、「たった一つの物の理を把握しただけで、どうして一時に万理に貫通することができよう」。だが、と彼は付け加える、そうかといってまた、天下にあるかぎりの一切の理を窮め尽せというわけではない、と。先に引用した一文(「遺書」十八)がこれに続く。曰く、「今日は一物の理を窮め、明日はまた別の一物の理を窮めるというふうに、段々に積習していくべきであって、こうして窮め終った理が多く積ると、突然、自らにして貫通体験が起こるのだ」と。つまり、あらゆる事物のあらゆる「理」を窮めなくとも、習熟の度が或るところまで来ると、突然、次元転換が起こる、というのである。
ということは、しかし、「窮理」の最終的目的からすれば、事物の「理」、すなわち一物一物の「本質」そのものがそれ自体として問題なのではない、いやそれも問題であり重要であるにしても、むしろそれより、こうした修練を通じて、事物をそういう形で、そういう次元で、見ることの出来る意識のあり方を現成させることの方が、はるかに重要なのだということである。そのような意識の次元が拓かれて、全存在世界の原点である「太極」そのものを捉えてしまえば、ひるがえってその立場から、経験的世界の個々の事物に分殊して内在する個別的「太極」を窮め尽すことなど、いともたやすいことなのである。
意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
意識と本質
井筒俊彦
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