2017年4月12日水曜日

20170411 蓄積した疲労と能動的、創造的行為について・・(温故知新?)

本日の首都圏は終日の降雨であり、また気温も上がらず肌寒い一日でした・・。

そして、こうした日とはあまり活性が上がらず、記事作成を開始しても、イマイチ滑らかに行きません・・(苦笑)。

また、それに加え600記事到達が現実のものとして認識されるようになった現在、これまでの蓄積している疲労もまた、あらわれ易くなっているようです・・。

具体的には、気が抜ける時間が少し続くと、すぐに睡魔が襲ってくるという現象であり、これは昨今に至るまで認められなかった現象です・・(苦笑)。

それ故、今後600記事に到達しましたら、再度ある程度の期間、断筆を行い、これまでにブログ記事作成に充ててきた時間を読書や早寝あるいは応募書類の作成に充てようと思います・・。

そしてまた、ほとぼりが冷めてきましたら、能動的に文章が書きたくなり、再度何かを書き始めるのではないかと思われます・・。

そして、こういったことを考えてみますと、文章作成などを含む能動的、創造的な行為全般とは、熱中し取り組んでいる最中には特に感じることはないのですが、やはり生命、活力を消耗、削りつつ行っているのではないかと思われるのです・・。

また、我々の行うさまざまなこうした(能動的、創造的)行為とは、一面においては概ねそうした性質を持っているのではないでしょうか・・?

しかし、であるからといって何もしない方が良い、生命、活力を保持出来るというわけでもなく、能動的、創造的な行為とは、たしかに一面において生命、活力を消耗するといった性質を有しながららも、他面において、まさにそのこと(生命、活力を消耗する行為)によって、新たな生命、活力を吸収、得ているのではないかと思われるのです・・。

とはいえ、こうしたことを上記のように文章にて著してみますと平凡、陳腐なことのように捉えられがちですが、それでもなお、我々の生きている社会には、そうしたことまで思い至らずか、いたずらに生命、活力の保持のため活動を躊躇していると見られることも少なからず認められるのでないでしょうか・・?

実はそうしたことは、本末転倒であるにも関わらず・・。

また、そうしたこと(能動的、創造的行為)は、さまざまな時代の事物を観察することによっても認識することが出来るのではないでしょうか・・?

具体的なそうした事例として弥生時代につくられた銅鐸、そして古墳時代に造営された巨大古墳などを想起してみても理解することが出来るのではないかと思います・・。

弥生時代につくられた銅鐸とは、現在においても同様の原理にてつくられる鋳造によるものであるのであるのですが、弥生時代の銅鐸の身の金属(青銅)の薄さ(2㎜程度)とは、現在の鋳造技術においても、その身の金属の薄さとは、再現が困難であると云われております・・。

また、古墳時代に造営された巨大古墳も、重機など存在しない古代において、一体如何なる手法によって造営されたものであるかとは、完全には理解されておりません・・。

しかし、それらはいずれも間違いなく、我々の遠い先祖のつくったものであり、また、それを為さしめた要因とは、当時の技術であると共に端的に当時の人々つまり我々の遠い先祖の生命、活力であるのです・・。

こうしたことはあまり考えられることはありませんが、そこには何か大変深いものがあるのではないかと思われるのです・・。

そして、歴史などを知る、考えるうえでの面白さ、興味深さとは、一つに、これら目に見える遺物から、当時の人々の生命、活力つまり心、魂を(内面から)理解しようとすることではないかとも思われるのです・・(温故知新とはまさにそういった意味ではなかろうか?)。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」






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