「アリアドネからの糸」
中井久夫
当時「本を読む」ということは今とまったく違ったマイナスの意味を帯びていた。
戦前の中学校は五年制であり、卒業生は中等教育を受けた者として、まあ知識人あつかいされた。しかも、多くの中学校は生徒に「小説を読むこと」を禁じていた。漱石、鴎外も例外ではない。映画は父兄同伴である。違反は補導の対象になった。ついでにいうと、男女が連れ立って歩くことは、大人でも、警官が呼び止めて「説諭」する対象であった。実に女性は、夫婦であろうと婚約者であろうと、男性の後を何歩か遅れて歩くものであった。(何だかSF小説を書いている気がしてきた)。むろん、誰も禁断を犯さなかったわけではない。ひそかに行う読書はかえってその楽しみを増した。
小学生には小説は難しすぎようと思われたか、禁止令はなかった。映画は学校が連れてゆく「戦意高揚映画」だけである。大目に見られたのは
「講談社の絵本」や「幼年倶楽部」「少年倶楽部」「少女倶楽部」、そこに載った少年小説、少女小説、それから漫画「のらくろ」であった。これらの少年向きの本は、ずっと早くから軍国主義を美しい言葉と挿絵とで飾り、大陸進出をほめたたえていた。
戦死者の遺族には一流画家による「靖国の絵巻」というものが年一回配られた。その原画が未だに公開されていない大画家たちの戦争画である。「講談社の絵本」もやはり一流画家を起用して細部までほんものらしく描き、子供の眼には「靖国の絵巻」に勝る出来栄えであった。昆虫採集や切手集め、あるいは軍艦写真集に熱中する小学生には、細部までの精密さが何よりの価値である。
しかし太平洋戦争が始まって一年も経つと、少年雑誌や小説の戦争鼓吹の迫力が衰えた。「のらくろ」はそれより前に大尉で退役して「満州」(中国北部)に行ったが、その地にあまり適応できなかったらしく、漫画そのものが終わった。「講談社の絵本」も新刊が間遠になり、ついに開戦一年後の「大東亜戦争」でおしまいになった。美しい本が作れなくなったせいか、戦争に向かって少年を鼓舞する使命を果たしたためか、あるいは本物の戦争の前では戦争のおはなしなど色褪せてみえるゆえか。
では、戦時中の人々は本を読まなくなったか。逆である。「鉄の歴史」といった重厚な科学史が出版されている。科学と科学史の本は検閲を通過したからである。筑摩書房は一九四一年に「ヴァレリー全集」を以って出版した。リルケもよく読まれた。この二人が検閲を通ったのは検閲官の理解を越えていたからであろうが、数少ない正気の文学だった。「ヴァレリー全集」は各巻が万という部数であり、一般に戦時中の本の部数は今よりも一桁多かった。戦争史も、日露戦争だけでは種が尽きてしまい、ついには十七世紀のイギリス・オランダ海戦史まで出版された、こういう本が飛ぶように売れたのだが、書店の棚はそれでも空きが目立った。古書店が繁盛した。古い岩波文庫にびっくりする値段が付いていた。
第一次大戦下のヨーロッパでも洪水のような読書増加があったらしい。戦争の時、人は本に走る。戦いの合間でも、防空壕でも、いつ動くとも知れない停車中の混雑列車の中でも本は読める。」
ちなみにこの著作内の「いじめの政治学」はとても生々しく、その内実に肉迫していると思います。興味のある方は是非読んでみてください。
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