2018年1月31日水曜日

20161004 昨日投稿の記事に関して および書籍からの抜粋引用「理科系の文学誌」【20180131再投稿】

本日のブログ記事は書籍からの抜粋引用を以って充てようと考えていました。
しかし、そのことを記した昨日投稿したブログ記事の閲覧者数が思いのほか増えました・・。
そのことから「本日も自分の文章にてブログ記事を作成するべきか・・?」とも考えてみましたが、ここで敢えて変更するのも如何なものかと考えた結果、本日投稿分の記事は、しばらく自身の文章をもって記したのち、書籍からの抜粋引用にしようと考えるに至りました・・(苦笑)。

さて、昨日投稿のブログ記事の閲覧者数が思いのほか増加したことは、自身としても幾分不思議であり「もの笑いのタネになっているのではなかろうか・・?」などといった不安も多少頭をよぎりましたが、もし、そうであるならば、とうの昔になっていたであろうと思われるため、このこと(昨日投稿ブログ記事閲覧者数の増加)の主要な原因とはイマイチよくわかりません・・(笑)。

いや、あるいは昨日のブログ記事に記したことなどは、案外読んで頂いている方々にとっては既に認識されていることであるのかもしれません・・(笑)。

私はこうしたことの認識に関しては、かねてより相当感度が低いと考えていますので、それもまた十分にあり得るかもしれません・・(苦笑)。

また、唐突であるかもしれませんが、それと同時に不図思ったことは「ブログのプロフィールに自身の顔写真を用いていることが、こうした出来事(考えの先取り、読まれている)と何かしら関係があるのかもしれない。」ということです・・。

これは考えてみますと、科学的な要素が見受けられず、かなり迷信的であるかもしれませんが、それと同時に、かつて西郷南洲翁(隆盛)は、自身の写真撮影を拒んだ(一生涯)というのも、あるいはこうしたことと何かしら関連があるのかもしれません・・。

それに加え、写真撮影ではありませんが、北隣の肥後(熊本)に出自を持つ徳富蘆花(健次郎)は、自身の悪い心が眼に表れているの(?)を見られることを防ぐため、黒メガネをかけ続けたということです・・。

これらの態度の背景には何かしら通底する要素があるのかもしれません・・。

とはいえ、これを検証する具体的な方法として、しばらくの間、自身の似顔絵をブログのプロフィールととして充ててみると、あるいは何かしら変化といったものが生じるのかもしれません・・(これもまた、わかりませんが・・)。

さて、これから先、これまでの内容的とはあまり関係がないかもしれませんが、昨日のブログ記事に記したとおり書籍からの抜粋引用とします。

工作舎刊 荒俣宏著 「理科系の文学誌」PP.284ー287より抜粋引用
『むかしの科学者や哲学者が、真理を教えるにあたって、よくたとえ話を用いたことは、この精神と関係がある。

あるいは、受験英語にこり固まった秀才が、英語の文章をスラスラと訳していたくせに、実際には文章の中身をまるで理解していない場合の(逆理)、これにもよく似ている。

結局のところ、素朴派の根本的な精神はボキャブラリーの問題にかかわってくるのだ。

物から出て、物へ返せない精神というのは、イメージをもたない精神の別名だろう。

「この方程式を使え」という指示が与えられさえすれば、七色の変数をあやつってみせる才人が、今度はたくさんの方程式を何のコメントもなしに渡されたときに当惑してしまう場合、かれには問題を設定するボキャブラリーがないと言っていい。

かれには、与えられた方程式という単一のボキャブラリーしかなく、そのボキャブラリーはボリュームとしていくら膨大なものでも、しょせん(単一)のものでしかないのだ。

したがって、与えられた方程式の深化と改善は図れても、それを乗り越える批判力までは持ち得ない。

ひとつの方程式を批判するためには、その方程式に用いられている内部の言語のほかに、別次元の方程式に属する言語を必要とするからである。

早い話、SFが旧文学の批判者としてそれを乗り越えようと意気込んでいたとき、SFの武器は何よりもまずこのボキャブラリーであったはずなのだ。

しかし、そのボキャブラリーは、文学的な修辞法の優勢といったケチなものではない。

そんなものの優劣は、要するに五十歩百歩の争いにすぎない。

旧修辞学の範囲内で見る作品の優劣は、相対的なものであって、こちらのほうがいつも絶対的に勝れているという言い方は不可能なのだ。

これを言うためには、旧修辞学を超えた別の美学体系に照らして、それが旧修辞学の極限にあることを証明する必要がある。

つまり超修辞学が必要なのだ。それを持たずに、同じレベルの用語で最高絶対を唱えることが不可能なことは、ゲーデルという人が不完全定理でもって立証している。

そしてここにボキャブラリーと呼ぶものは、この超修辞学を指すものといってよい。

つまりSFは旧文学よりも質的に多数のボキャブラリーを持つこと、あるいは科学の言葉を持つこと、それこそがSFの任務なのだ。

科学の言葉が使われ、さらに物質そのものの肉声までが文学の言葉と同質に使われるとき、SFならSFのボキャブラリーは、旧文学のそれを乗り越えることになる。

SFがジャンルとして成立する上での最も重要な意味は、本来そこにもとめられねばならなかった。

冒頭で出した例にしたがえば、今地球の山脈の出来かたを論じるにあたって、地球だけの発想によらず、ソラマメやカメや大脳の用語をも借りてくること。これがボキャブラリーの拡大である。

物から出て物に返す素朴派の精神もまた、このボキャブラリーをマルチ化する意志と同義だと言ってかまわない。

この場合、科学の素朴派とは、科学の言葉と詩の言葉を、そしてさらに言えば直観の言葉を自由に使える人間、という意味をもつだろう。

そういうわけで、ウェゲナーの「大陸浮動説」の根底にあった思考メカニズムも、やはり直観とひらめきとに無関係ではなかったはずだ。

目に見えるものに思考を返すこと。
つまり別々の大陸間に同じような生物相が存在する事実。
これを生物学とは別レベルのボキャブラリーで言い換えれば、もともとその大陸同士が陸つづきであったということだ。

そしてこの二つのボキャブラリーを貫く定数―それは当然ながら、陸地が割れて漂流したという歴史的事実以外のなにものでもない。

ところで、ウェゲナーの怪しげな説を日本人としてもっとも初期に採りあげた物理学者の一人に、ほかならぬ寺田寅彦がいる。

この懐手をした物理学者が漱石子規門下生「吉村冬彦」という名のもとに別種のボキャブラリーを操っていたことは、おそらく偶然ではない。

それどころか、事物の実体験に即した科学精神として、かれは日本的風土の伝統的な思考をひきずっていたとも考えられる。

東洋における真理の伝達法、たとえば仏教やインド哲学に見られるたとえ話や日常オブジェを介したシンボリズムの使用には、当然ながら、この素朴派の直感的・体験的思考に通じるものがある。事物やたとえ話に思考を返して語ることは、悪い面もあるけれど、ボキャブラリーのマルチ化という点ではきわめて有効だったと言えるだろう。

極言すれば、東洋は観念として自然科学的事実と神秘的承認とを融合させることができたのである。

西洋では、多くの場合、一つのボキャブラリーは一つの人格に独占的に宿っていたが、東洋では一つの人格が複数のボキャブラリーを操ることもできた。

とくに東洋では、このボキャブラリーが生命と物質界を統合するという点で大きな役割を果たしていた。生命も物質もともに空に帰する一元的な世界像は、物質のなかの生物性(アニマ)と生物のなかの物質性という複数の用語を、体験の記述用具として最初から東洋人に与えられており、その状態がつい最近になるまで破れたことはなかったのである。』

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。

また明日新たな台風が北部九州に接近するとのことです。
これによる地域の被害が出来るだけ軽微であることを同様に祈念します。

抜粋引用後に不図思ったのですが、もしかすると、我が国について特徴的である云われるタコツボ文化、ガラパゴス化などは、何かしら上掲文章の意味と関連があるのかもしれません・・が、皆様は如何お考えになるでしょうか?


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