このすぐれて町人的な芝居=見世物は、多くの点で、能や狂言と異なり、また十六世紀以来の西洋の近代劇とも根本的に異なる。
その特徴は、人形劇としても役者の芝居としても成功した「仮名手忠臣蔵」(初演一七四八)や「菅原伝授手習鑑」(初演一七四六)や「義経千本桜」(初演一七四七)に、早くもあらわれていた。
全曲が互いにほとんど独立した挿話と場面の連続から成り、その全体を一貫するすじには大きな意味がない。
各幕は大詰へ向って収斂するのではなく、それだけで一種の盛り上がりをみせる。
「仮名手忠臣蔵」の場合には、すでにふれた。敵討ちのすじは、その芝居の前提であって、眼目ではない。「菅原伝授手習鑑」の全体も、菅原道真の失脚を中心としてまとめられてはいない。
「義経千本桜」に到っては、義経伝説と平家の武将を背景とする場面をほとんど何らの脈絡もなくよせ集めただけで、各場面を一貫するすじも、論理も、思想もなきに等しい。
観客がこのような大作の一幕だけを、独立の見世物としてみるのは当然であり、現に人形劇でも芝居でも、部分を全体から切離して上演する独特の習慣が生じた。
また座附作者の側でも、その数人(普通は二、三人、しかし四、五人に及ぶこともある)が、手分けして、それぞれの部分を書く。
かくして出来上がった脚本が、たとえば近松門左衛門の浄瑠璃、殊にその世話物の緊密な劇的構造と著しい対照をなすことはいうまでもないだろう。
科白劇としての歌舞伎は、浄瑠璃の語りの部分を抑えて、各場面を役者の科白で進行させる。
しかしそのことは、浄瑠璃の美文の魅力が、役者の科白に移された、ということではない。
それどころか科白劇の成立は、同時に歌舞伎が「言葉の力」を失うことでもあった。
歌舞伎の科白は、状況の説明か、人物の感情の単純で日常的な表現にすぎず、どういう意味でも雄弁の力を示さない。
また一般化や逆説や抽象的な命題を含まず、その知的な内容の極度に貧しいものである。
たとえば有名な科白として人口に膾炙する文句をみよう。
そのほとんどすべては、特定の状況における特定の人物の特殊な感情に係っていて、人間一般の感情を語らず、人間についての知的考察を加えない。
したがってその大部分が固有名詞を含むものである。(「由良之助はまだか」から「今頃は半七さん」まで)。
これはたとえば英語国民によく知られているシェイクスピアの有名な科白とは、鋭い対照をなすだろう。
「世界はどこでも一種の舞台だ、男や女は誰でも役者にすぎない」(As You Like It, Act Ⅱ, Scene 7)というような一般化を、歌舞伎の役者は決して行わないのである。
なぜ行わないのか。おそらく徳川時代の町人がその日常生活において、特定の人物について語ることが多く、人間一般(「男や女は誰でも」)について語ること稀だったにちがいない。
彼らの関心は特殊な対象に向い、普遍的な洞察には向わなかった。
また小さな所属集団内部での情意伝達に慣れた人々が、長い間「以心伝心」を理想としてきたということもあろう。
言葉による伝達には限界があり、大切なことはすべて言葉によらずに伝達されるという考え方は、日本文化のなかに浸透していた。
伝達の内容の特殊な状況との密接な係り、また伝達の手段としての言葉の相対的な非重要性、一般に日本社会の、殊に徳川時代の社会の、現実の会話を特徴づけていたであろうこの二つの性質は、歌舞伎の舞台の会話にも反映せざるをえなかったはずである。
しかし特殊な状況における特殊な感情の表現に科白を限定することは、芝居から知的興味を奪い、登場人物の人格の大きさを制限する。
赤穂浪士の一団を率いた大星由良之助の性格は、敵討ちの目的そのものを問いなおすほどに複雑ではなかった。
菅原道真や義経には、彼らの置かれた不幸な境遇だけがあって、性格らしい性格はほとんどない。
しばしば登場する忠臣たちは、しばしば彼らの主人に対する忠誠と人情との間に引裂かれていたが、彼らのなかの誰一人として、みずからの感情的経験によって既存の社会的秩序を批判し、再解釈しようとする者はなかった。
外在的な理性的秩序と内在的な恋情的欲求との対立緊張は、決して合理的秩序の内在化と恋情の合理化=外在化へみちびかれず、したがって異なる感情的経験にもとづく異なる法解釈の対立は生じ得ない。
歌舞伎に法廷の場面が少なかったのは、おそらくそのためである。
日本の芝居の悪玉と善玉とは、シャイロックとポーシャのように公的な法廷において対立するのではなく、金や腕力や陰謀だけがものをいう私的な場面において出会っていた。
また歌舞伎の主人公は公衆に向って訴え、彼らを説得しようとはしない。
彼らの正義は、当事者だけのものであり、彼らには第三者を説き伏せる論理がなかったからである。
将軍たちは、ブルータスやマーカス・アントーニアスのように広場の演説で自己の立場を正当化する手続きをとらずに、いきなり戦闘に入る。問答無用。科白は当然貧弱にならざるをえなかった。
「日本文学史序説」下巻
「日本文学史序説」下巻
ISBN-10: 4480084886
ISBN-13: 978-4480084880
加藤周一
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