A「どうも年末年始で何か面白い本や映画などは観ましたか?」
B「いえ、映画やテレビなどはあまり観ておりませんでした。
また、書籍に関しては相変わらずで蔵書を読み返しておりました・・。
その中で加藤周一の「日本文学史序説」は相変わらず興味深く読めました。」
A「ああ、Bさんはあの著作からよくブログでの引用抜粋をしていますね。
そういえば加藤周一といえば、私は新書の「羊の歌」をなかなか興味深く読んだ記憶がありますね。」
B「「羊の歌」は私も以前読みましたが、これは今現在であるからこそ面白く読めるのではないかと思います。」
A「なるほど、たしかにそうですね(笑)。
あと最近Bさんのブログで大岡昇平の著作を何度か取上げていましたが、同著者の「ある補充兵の戦い」もなかなか興味深いと思いますよ。
この著作は「俘虜記」での体験とかなり被ると思うのですが、その視点およびその文体が「俘虜記」とは異なるのです。
こういった同一に近い経験に基づき複数の著作を作れるということは著者の才能およびある種の工夫によるのでしょう。」
B「ええ「ある補充兵の戦い」も以前読みましたが、これも興味深かったですね。
この著作は「俘虜記」と比べ体験を割合軽めに淡々と述べているように思います。
つまり「俘虜記」「ある補充兵の戦い」は共に基本的には著者自身の体験に基づいたノンフィクションではあるのですが、同時に体験に対しての思索、評価の程度、姿勢が異なるのではないかということです。
そのようなことから「俘虜記」は一般的な意味での小説であり、著者の思想、考えが色濃く反映されているのではないかと思います。
それに対し「ある補充兵の戦い」とは、前にいいましたとおり、著者の体験をあまり感情を交えずに書いた回想録に近いものではないかと思います。」
A「なるほど・・いわれてみるとそうした傾向はたしかにあるかもしれませんね。
あと、それで私が思い出すのは戦記ものが多い潮書房光人社から刊行されている比留間弘著の「地獄の戦場泣きむし士官物語」です。
この著作と「ある補充兵の戦い」とは、その作風において幾分類似しているのではないかな?」
B「・・またシブい著作を出されましたね・・。
私もその著作も以前読みましたが、おっしゃることわかります。
現在我々が読むことが出来る太平洋戦争の戦記ものは数多くあり、また、私はそこまで多くの戦記ものを読んだわけではありませんが、両著共にたしかにその著述の仕方、文体は特に重いものではないと思います。」
A「ええ、両著者共に筆舌に尽くしがたい戦争体験をされているはずなのに、そうした割合読みやすい文体、つまり自身の体験に対し距離感を保ちながら、その体験を書けることは、ある意味スゴイことであるのかもしれません・・。」
B「たしかにそうですね・・。
それにしても我々日本人にとって太平洋戦争とは、かなり大きな影響をおよぼしているのでしょうね・・。
そしてそうであるがゆえに、現在を生きている我々は、そうした歴史を忘れてしまってはいけないのでしょう。
こうしたことは、これまでに読んだ様々な戦争を経験された著述家の多くが書かれていましたが、一方、現在の我が国の情勢を見ていますと、彼らのその願いとは、私を含め後の世代にあまり通じていないように思えます・・残念ながら。」
A「ええ、現在の我が国の社会にはよくわからないイケイケドンドン的な積極、攻撃的な傾向が多く見受けられますね。
しかし一方において、現在日本を取り巻く状況とは、以前に比べ、きな臭くもなってきていますから、それは生物的には健康な反応であるのもしれません・・。
ただ、そういった情勢の中で私が強く危惧するのは、そうした状況に便乗して国内外の勢力が自身の利己的な欲望を手段を選ばずに満たそうとすることなのです。
まあ、たとえ利己的ではあってもそれが他者を結果的に貶めるものでなく、逆に向上、満足させるものであれば、それはそれで良いのかもしれませんが、そうしたものは決して多いといえないのが現状であると思います・・。」
B「ええ、良くも悪くも我々日本人は社会に生じた流行、傾向などの核に対する凝集性あるいはそれを応用しようとする傾向がありますから・・また、これは古来よりの傾向であるので、変えることは困難であると思います・・。
では、そうした傾向を無理に変えることなく、そうした勢力を抑えるためには、どうすれば良いのでしょうかね?」
A「ううむ、それは言葉でいえば案外簡単で、単純に様々な意味における情報リテラシーを向上させれば良いのではないでしょうか?
そして、それを為すためには、さまざまな書籍を読み、多くの人々とカタチだけでない議論を継続的に行うことではないでしょうか?」
B「ええ、書籍、議論などは、どちらかというと、これまであまりカッコいいものとして扱われてきませんでしたので、これが能動的に行われるような環境になれば、何かしらの効果は出てくるかもしれません。
私はおそらく泥臭いと思われながらも、単純に楽しかったので修士院生時代に両方共割合多く行ってきたと思いますので、その点は理解、肯定できます・・。」
A「うん、福沢諭吉の創設したあの学校には演説館があるけれども、あれは当時の我が国において演説、議論文化の必要性を痛感した結果造られたのでしょう・・。
そしてそれを痛感した原因とは、さきほどBさんが指摘していたことに関連するかもしれないけれども、凝集性が強く、雰囲気、空気に縛られやすい我が国の国民性ではないでしょうか・・?
そして雰囲気、空気に縛られやすい国民性とは、本質的に書籍の深い読解、議論などを不粋、面倒なものとして避ける傾向があるのではないかな・・?。
しかし、そうした傾向とは、結局のところ野狐禅に陥ってしまうのではないでしょうか?」
B「ええ、そうした傾向とは、たしかに我が国社会において伝統的に根強いと思います。
しかし、そうすると話はまたふりだしに戻ってしまうのではないでしょうか?」
A「・・そうですね、少なくとも我が国における自身の悪しき利己的な欲望を満たそうとする勢力とは、古今意識、無意識問わずそういった我が国の国民性から生じる傾向を利用、便乗してきましたからね・・。
そして、それだからこそ能動的な態度に拠って自然に情報リテラシーが向上されることが重要なのでしょう・・(苦笑)。」
0 件のコメント:
コメントを投稿