pp.166-168より抜粋
ISBN-10 : 4121017420ISBN-13 : 978-4121017420
「 国東から臼杵にかけては石仏が点在している。磨崖仏もあって、誰が彫ったのかわからない。優れた技量の持主がいたのだろう。むかしの工匠たちは、ものものしい署名などしなかった。仕事を終えると、ノミや金槌を袋に入れて風のように立ち去った。
大分県中津市、旧名でいうと豊前国中津藩。福沢諭吉の故郷である。父が廻米方の小役人であった関係で、大阪・堂島の生まれ。数え年三つのときに一家は中津へもどった。福沢家は十三石二人扶持、典型的な下級武士の家柄。その旧宅があるー明日の予定が定まったので、いそいそとお酒のお代わりをした。
中津市留守居町に旧宅が復元されていた。間口二間、奥行十五間で、ウナギの寝床のように細長い。諭吉少年は、もっぱら土蔵の二階で勉強したという。頭がつかえそうな天井に、明りとりの窓が一つ。手製の書見台がポツンと置かれていた。
白状すると、この旅に出るまで、私は有名な「学問のすゝめ」すら、ろくすっぽ読んでいなかった。
「天は人の上に人を造らずと云えりー」そんな書き出しのところだけを、なんとなく知っていた。はじめて実物にあたって知ったのだが、高邁な出だしにくらべ終わりにちかいところは、おそろしく実際的だ。諭吉は三つのことをすすめている。自分のため、ひいては世の中のためにもなるという。
一つ、言葉を学んで、よくおしゃべりをしろ。
二つ、顔色容貌を快くして、人に嫌われないようにしろ。
三つ、仕事や専門のちがう人とまじわれ。
三代にわたり入口に膾炙してきた名著は、ごく日常的な「すゝめ」を力説している。あらためてこのようなことを説いたところに福沢諭吉の面目があるのかもしれない。この筋金入りのリアリストには、君子重かざれば威なしとばかり肩肘はった連中がおかしくてならなかったのだろう。そういえば、こんなふうに述べている。いつも苦虫を噛みつぶしたような顔をして重々しく構えているのは、「戸の口に骸骨をぶら下げて門の前に棺桶を安置するが如し」。仕事や専門のちがう人とまじわってこそ生涯の友ができる。人間、鬼でもなければ蛇でもない。「心事を丸出しにして颯々と応接すべし」。
ついでに記念館で見つけた諭吉の言葉をあげておくと、記憶力中心の教育を批判して文部大臣に忠告したそうだ。それは「半死半生の青瓢箪」をつくるだけ。
この小藩の下級武士の二男坊は、名うての神仏の里を隣にもつ郷里の因習に悩まされたのではあるまいか。前近代的なものが何重にもかさなりあった土地柄を醒めた目で見つめながら、たえずみずからを鍛えていった。ついでながら「学問のすゝめ」のしめくくりは、旅のすすめだ。ひろく世界を歩いて見聞をひろげるべし。さもないと「三・五匹の鮒が井中に日月を消する」の世界に終わってしまう。」
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