「ところで、士族層の経済的没落に対しては、新政府としても到底無関心ではありえなかった。明治6年に参議木戸孝允は、その建議の中で、「我邦人口三千万と称すると雖も、其実を推して之を算すれば、僅かに二三百万人に過ぎざるべし。何となれば、孝允嘗て西洋諸国を歴覧するに、其人民貴賤を問わず貧富を論ぜず一も国の為に其義務を尽さざるは莫くして、我邦は即ち之に反せり。農は唯穀粟を出すを以て己が務と為し、工は唯什器を製するを以て其業と為し、商は唯有無を通ずるを以て之が職と為し、皆国事に於いて毫も関渉する所無し。国の正気は民心に在て、民既に国事に心無し。何を以て民と為すに足らんや」とし、このような中で、「我邦四民中、猶能く廉恥を知り愛国の念を存し、国の為に其義務を尽さんと欲する者、独り一士族中に多きのみ。是三千万人中其器械たるを免かかる者、僅かに二三百万人に過ぎずと謂うべきなり」として、士族をまことに貴重な存在であるとみなしている。また明治11年に右大臣岩倉具視は上に引用した「華士族授産之儀に付建議」の中で述べて、「士族の情況を考ふるに、鎌倉以来の武士は猶馬を馳せ剣を試みるの戦卒たるに過ぎざりしに、徳川氏の中葉以後儒学世に行はれ、地方に学校あらざるなく、士族たる者文武を兼ぬるを以て常識とし、其子弟学問に就かざる者なく、父兄の訓ゆる所、師友の導く所一に忠孝節義、治国安民に非ざるはなく、脳漿に浸涵して幾んど固有の天性を成すに至り、其中才徳の士彬々輩出し、諸藩の治績々観るべきものあり」とし、「士族は其積世涵養の力を以て、其精神以て百科に進むに足り、其志行以て艱苦に耐るに足り、其気力以て外人と競争するに足る。今の現況を据るに、学問百科凡そ以て国の事業に進むべき者、士族の性の尤も近き所とす。・・今姑らく士族の名称を除き虚心以て之を商量するに、将来果たして国の文明を扶けて独立を維持する者、此の高尚なる種族に非ずして何ぞ乎。此高尚なる種族を除く外、我邦の人民を槩論するに、学問なく士気なく、以て重任を負担するに足らず。蓋し其の能く進修有為の地に進み、外人と競争するに足るの日を待つは、猶ほ二三十年の後に在るべし。故に我政府は此の高尚の種族を失わずして与に共に前路に進むとき、大に将来の進歩を裨益すべし」となしている。また参議伊藤博文は明治十三年十二月のその建議の中で、「今天下の人物、品流を概論するに、其国事を担当して文明を率先たるに堪ふるもの、士族に望まざることを得ず。而して、士族の位置は宜く貴族の一部たるべし」と唱えており、翌十四年に諸参議が連署して提出した立憲政体に関する奏議の中にも、「士族の封建武門の世に於ける、平民の上に位し、教育素より気節有為の人多く其間に出づ。是れ宜く貴族の一部たるべし」となしている。
士族層を高く評価して、これを重要視したのは、しかし、新政府に限らなかった。福沢諭吉の場合のごときも、その一つのよい例である。福沢は「封建の門閥制度」にためにその父が学才を生かしえなかったのを回想して「門閥制度は親の敵」と考えたことは、よく知られている。しかし、そのような彼もまた封建制度の遺産である士族層に対し強い期待を寄せたのであった。彼は「時事小言」(明治十四年)の中で「国民の気力を養ふ」方策として「士族の気力を維持、保護する」ことが必要であるとし、「日本の社会に於て事を為す者は古来必ず士族に限り、乱に戦ふ者も士族なり。治に事を執る者も士族なり。近くは三十年来西洋近時の文明を入れて其主義を世間に分布し、又維新の大業を成して爾後新政を施したる者も士族ならざるはなし。所謂百姓町人の輩は唯これを傍観して、社会の為に衣食を給するのみ。之を人身に譬れば百姓町人は国の胃の腑にして、士族は其脳の如く又腕の如きものなり。事を為すの本源は脳に位して、其働は腕に在り」とし、胃のみが丈夫で脳と腕との力を発揮できないものは「活溌の人」とはいいえない。これを動物にたとえれば豚のごときものである。それ故に、「今我国に士族の気力を消滅するは、恰も国を豚にするものにして、国権維持の一事に付き其影響の大なること論を俟たずして明」かである。士族はひとり政治、学術の面ばかりでなく「殖産の道」においても「全国の魁を為して人民の標準たるべき者」であるとし、また述べて、人の能力は実際に血統に因る天賦である。「この能力遺伝の主義を以て日本全国の人民を通覧したらば、士族の血統を惜しむ可しとの理由は特に喋々の弁を俟たずして明白」であろう。それ故に、士族の「数百年来遺伝の教育血統(武士層の間に行われて来た伝統的な精神教育を指すー著者)」を保全することは、「天下の大計」上から必要であり、士族層をむなしく経済的没落の運命に委ねることは、「百丈の大木鬱々たるものを故さらに発掘して其根を露し之を日に照らして、坐して其枯るるを待つ」ようなもので、「智者の策」とはいえない、と力説したのである。」
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