2024年5月28日火曜日

20240528 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」pp.129‐131より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」pp.129‐131より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

野坂 昔の戦争はえらくロマンチックで、弾丸が飛んでも、敵はだれかわかるわけだけど、今のベトナムのナパーム弾もそうだろうけど、僕ら空襲のとき、雲の上から何か落ちてくる、どこからくるかわからない。どうにもならない。現代の戦争というのは、そういうものでしょう。それに入ってゆくためには、気違いになるための要素がないとだめでしょう。それが今の日本にはないと思う。剣道部のいかに先鋭的な人間だって、雲の上から何発もやられたら、とてもやりけれるものじゃないと思う。自分の恋人、女房、子供を守ろうという気持も、あの人たちにはないんじゃないですか。

三島 僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を仕掛けたんだね。しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、汚れているといって使わない。熊本の鎮台に対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだね。なぜ日本刀だけで負けると解って戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャだったからだと思う。インテリゲンチャというのは、そういうものなんだね。つまり計算して、こうだからやるというのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、インテリゲンチャの考えはいつも違うんだ。あなたがどっちの立場に徹するかということは大問題だと思う。生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという生活者の知恵でみるだろうね。神風連の事件は、生活者にはできないもので、日本の近代インテリゲンチャの思想の源流なんです。あなたが芸術家であるか、生活者であるかという分かれ目にぶつかったときには、必ずその矛盾が出てくる。今のあなたの書いているものを読んで感じるのは、やっぱり片足はまだ生活者に突っ込んで、生活者の知恵と身体で体得したものを基礎にしているから、生活者のバイタリティと新鮮さがあると思う。あなたがもし、もう一つ芸術家の立場を完全にもたなければならないということになったら、生活者の知恵だけでは足りない何かが出てくる。そのときにはバカなことでも、絶対に敗北するとわかってる戦いでもやらなければならなくなってくる。

野坂 敗北すると解ってる戦争をこっちから仕掛けるかどうかわからないけど、雲の上からB29が焼夷弾を落としていたとき、僕はなぜ逃げなければならないかを考えた。僕は鉄砲一挺もってたら、ただ逃げ回るんじゃなくて、雲の上めがけて撃ったと思う。そして相手が三島さんだったら、どんなにこっちが未熟でも、棒きれをもってたち向かうと思う。負けるとわかってもやる。しかし敵は飛行機で、こっちは無一物で、つまり一方的に被害者の立場でしょう。こっちから仕掛けるなら別だけど、あの場合は逃げるしかなかった。ほんとに鉄砲でもあったら、岩かげにひそんで、B29のガソリン・タンクめがけて引金を引いたと思う。それがたとえ、どんなに実際上無意味な行為でもね。

三島 僕もあのときは高座の海軍の工場にいたけど、艦載機が飛んできて機銃掃射をやられて、こっちは何ももっていないしね、あの時代の恐怖感ていうものは、今も残ってる。残ってるから、抵抗したいという気持もある。淋しい話だね。



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