サイマル出版会刊 村上兵衛著「国家なき日本―戦争と平和の検証」pp.217-220より抜粋
ISBN-10 : 4377310712
ISBN-13 : 978-4377310719
日本海軍の中枢は、むろん陸軍のそれも、この十中十死の攻撃方法を、当然のことながら長くためらっていた。
そして航空戦の圧倒的な不利に焦燥を感じた大本営(陸軍省・参謀本部)の作戦中枢にあった人びとが、航空総監部を訪ね、「必殺体当たり戦法」の採用についての最初の諮問を行ったのは昭和十九年の春(三月二十四日)とされている。後宮淳航空総監をはじめ、お偉方は何も発言しなかった。末席にいた内藤進少佐は堪りかねて、戦果が挙がらないのは第一線がだらしないのではなく装備と用兵の問題、と激しく反対論を述べた。つづいて同期の石川泰知少佐が立ち「全然同意」と言った。会議は白け「この会議はなかったことにせよ。他言無用」で流れた、という。
しかし戦局はいっそう悪化し、サイパンが陥落するころ(昭和十九年七月)になると、大本営の中枢では「特攻戦法やむなし」は一般の空気となっていた。それをチェックしていたのは「天皇」であった。むろん天皇じしんの意見というのではなく、大元帥の名による必死必殺の戦法は、天皇の御威徳を汚す、というためらいであった。
しかし、そこが「官僚の智慧」というものだろう。特攻作戦は、天皇の裁可を得た「大陸令」あるいは参謀総長の指示「大陸指」よりも下のランクの「陸亜密」という、日常業務の通達のような形で出ている。「特殊任務人員」(資材)を第一線兵団に増加配属(装備)の件達」が唯一の根拠となった。
あの十中十死の特攻命令が、どこできめられ、いかに編成されたかーそれは特攻の生き残りを含めて、私たちが無限の痛恨を懐きつつ疑問としてきたところだが、つい最近になって私は、陸軍における以上の経緯を最近まとめられた「陸士五七期航空誌」によって知った。
航空士官学校における私たちの同期生は、同校の課程がようやく仕上り、さらに操縦学校や教導隊にいた昭和十九年秋から翌年春にかけて、特攻戦法の説明と志願の意志を問われている。そのアンケートは「①熱烈志願、②志願、③志願せず」の三段階だった、という。
個人的回想の中には「熱烈志願はしたくないが、さりとて志願せずも恥ずかしい。それで②とした」という記述もまじるが、右の記録の編集者の総括では、陸士出身者の場合は、多くが①であったろう、としている。関大尉が、海軍兵学校出身者の名において、上官の「相談」を断り切れなかったように、陸軍航空士官学校の名誉が、重く彼らを捉えたであろうということは、私にも容易に想像できる。そしてこの志願の「熱意」の厚簿と実際の「編成」の間には、まったく関連が見られない、という
一度そのタブーが破られると、日本軍のアメリカ艦隊に対する航空攻撃は、急速にカミカゼを主たるものに変化した。第一線の航空部隊でも、随時、特攻隊を編成、突入を命ずるようになった。そしてそれは沖縄に迫った米艦隊に対するものへと連なっていく。
たしかに日本軍のパイロットの一般的な伎倆はベテランのあいつぐ損耗によって(海軍ではマリアナ海戦における完敗以後)急速に落ちていた。いたずらに海上に撃墜されるより、未熟なパイロットたちに対しても、名誉ある死処を与えるーという「思想」が、大西中将の発想のなかに含まれていたともされる。
そして、たしかに特別攻撃隊の効果も現実にはなかったわけではない。レイテ沖に現れた最初のカミカゼの三機のうち二機は護衛空母サンティおよびスワニーの甲板に命中し(二時間後、火災は鎮火)、つづく五機のうち関大尉の一番機は、同じく護衛空母セント・ローに命中、大爆発とともに空母は二つに折れて沈没した。護衛空母カリニン・ベイにも二機が命中、しかし素早い消火活動によって沈没を免れている。
米軍によるレイテ上陸が行われて間もない十月三十日、大型空母ワスプで健康診断が行われた記録が残っているが、そのほとんど全員がカミカゼ・ノイローゼに陥り、三十名を除いて「過労のため休養を要す」と診断された、という。
明治以後において日本人の創りあげた「文化」として海外、とりわけ西洋社会に広まったものは、何ひとつなかった。禅、茶道、華道、浮世絵、柔道、その他もろもろの武道ーそれらはすべて江戸期以前の日本人が、歴史の中で創りあげてきた文化であった。とりわけ「倫理」に関する文化としては、岡倉天心の「茶の本」、新渡戸稲造の「武士道」を除いて、何があったと世界にむかって言えるだろうか。現代の日本人は、精神世界における「日本人らしさ」として、何を紡ぎ出しただろうか。
幸か不幸か、あの戦争中の日本人が、精神世界の出来事として世界を驚かせ、今日なお合理主義からくる一種の軽蔑と、そして同時に古代からの人間存在としてのある種の畏怖とをもって、彼らに語られているのは、カミカゼしかないのである。それは武士道ーサムライの末裔が、民族の興亡に遭遇し、あるいは遭遇したと信じて発揮した自己犠牲の極致であった(その「精神」が、ベトナム戦争におけるベトナムの人びとに伝わったことは、すでに触れた)。
ISBN-10 : 4377310712
ISBN-13 : 978-4377310719
日本海軍の中枢は、むろん陸軍のそれも、この十中十死の攻撃方法を、当然のことながら長くためらっていた。
そして航空戦の圧倒的な不利に焦燥を感じた大本営(陸軍省・参謀本部)の作戦中枢にあった人びとが、航空総監部を訪ね、「必殺体当たり戦法」の採用についての最初の諮問を行ったのは昭和十九年の春(三月二十四日)とされている。後宮淳航空総監をはじめ、お偉方は何も発言しなかった。末席にいた内藤進少佐は堪りかねて、戦果が挙がらないのは第一線がだらしないのではなく装備と用兵の問題、と激しく反対論を述べた。つづいて同期の石川泰知少佐が立ち「全然同意」と言った。会議は白け「この会議はなかったことにせよ。他言無用」で流れた、という。
しかし戦局はいっそう悪化し、サイパンが陥落するころ(昭和十九年七月)になると、大本営の中枢では「特攻戦法やむなし」は一般の空気となっていた。それをチェックしていたのは「天皇」であった。むろん天皇じしんの意見というのではなく、大元帥の名による必死必殺の戦法は、天皇の御威徳を汚す、というためらいであった。
しかし、そこが「官僚の智慧」というものだろう。特攻作戦は、天皇の裁可を得た「大陸令」あるいは参謀総長の指示「大陸指」よりも下のランクの「陸亜密」という、日常業務の通達のような形で出ている。「特殊任務人員」(資材)を第一線兵団に増加配属(装備)の件達」が唯一の根拠となった。
あの十中十死の特攻命令が、どこできめられ、いかに編成されたかーそれは特攻の生き残りを含めて、私たちが無限の痛恨を懐きつつ疑問としてきたところだが、つい最近になって私は、陸軍における以上の経緯を最近まとめられた「陸士五七期航空誌」によって知った。
航空士官学校における私たちの同期生は、同校の課程がようやく仕上り、さらに操縦学校や教導隊にいた昭和十九年秋から翌年春にかけて、特攻戦法の説明と志願の意志を問われている。そのアンケートは「①熱烈志願、②志願、③志願せず」の三段階だった、という。
個人的回想の中には「熱烈志願はしたくないが、さりとて志願せずも恥ずかしい。それで②とした」という記述もまじるが、右の記録の編集者の総括では、陸士出身者の場合は、多くが①であったろう、としている。関大尉が、海軍兵学校出身者の名において、上官の「相談」を断り切れなかったように、陸軍航空士官学校の名誉が、重く彼らを捉えたであろうということは、私にも容易に想像できる。そしてこの志願の「熱意」の厚簿と実際の「編成」の間には、まったく関連が見られない、という
一度そのタブーが破られると、日本軍のアメリカ艦隊に対する航空攻撃は、急速にカミカゼを主たるものに変化した。第一線の航空部隊でも、随時、特攻隊を編成、突入を命ずるようになった。そしてそれは沖縄に迫った米艦隊に対するものへと連なっていく。
たしかに日本軍のパイロットの一般的な伎倆はベテランのあいつぐ損耗によって(海軍ではマリアナ海戦における完敗以後)急速に落ちていた。いたずらに海上に撃墜されるより、未熟なパイロットたちに対しても、名誉ある死処を与えるーという「思想」が、大西中将の発想のなかに含まれていたともされる。
そして、たしかに特別攻撃隊の効果も現実にはなかったわけではない。レイテ沖に現れた最初のカミカゼの三機のうち二機は護衛空母サンティおよびスワニーの甲板に命中し(二時間後、火災は鎮火)、つづく五機のうち関大尉の一番機は、同じく護衛空母セント・ローに命中、大爆発とともに空母は二つに折れて沈没した。護衛空母カリニン・ベイにも二機が命中、しかし素早い消火活動によって沈没を免れている。
米軍によるレイテ上陸が行われて間もない十月三十日、大型空母ワスプで健康診断が行われた記録が残っているが、そのほとんど全員がカミカゼ・ノイローゼに陥り、三十名を除いて「過労のため休養を要す」と診断された、という。
明治以後において日本人の創りあげた「文化」として海外、とりわけ西洋社会に広まったものは、何ひとつなかった。禅、茶道、華道、浮世絵、柔道、その他もろもろの武道ーそれらはすべて江戸期以前の日本人が、歴史の中で創りあげてきた文化であった。とりわけ「倫理」に関する文化としては、岡倉天心の「茶の本」、新渡戸稲造の「武士道」を除いて、何があったと世界にむかって言えるだろうか。現代の日本人は、精神世界における「日本人らしさ」として、何を紡ぎ出しただろうか。
幸か不幸か、あの戦争中の日本人が、精神世界の出来事として世界を驚かせ、今日なお合理主義からくる一種の軽蔑と、そして同時に古代からの人間存在としてのある種の畏怖とをもって、彼らに語られているのは、カミカゼしかないのである。それは武士道ーサムライの末裔が、民族の興亡に遭遇し、あるいは遭遇したと信じて発揮した自己犠牲の極致であった(その「精神」が、ベトナム戦争におけるベトナムの人びとに伝わったことは、すでに触れた)。
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