2024年5月19日日曜日

20240518 株式会社国書刊行会刊 井上文則著「天を相手にする: 評伝 宮崎市定」pp.125-128より抜粋

株式会社国書刊行会刊 井上文則著「天を相手にする: 評伝 宮崎市定」pp.125-128より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4336062765
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4336062765

昭和七年一月十八日、前年に起こった満州事変を受けて、反日感情が広まる中、上海において日蓮宗の僧侶が中国人に襲われて死傷する事件が起こり、これがきっかけとなり、二十八日には日中両軍は武力衝突に至った。これが第一次上海事変である。現地駐留の日本軍は苦戦したため、二月二日に犬養内閣は、第九師団と混成第二十四旅団を派兵したが、これらの部隊も苦戦した。そのため、犬養内閣はさらに二月二十三日に第十一師団と第十四師団を増派することに決めた。そして、この十四師団こそ宮崎の属する宇都宮師団に他ならなかった。

 増派の決定がなされた翌二十四日に、宮崎には電報で召集がかかった。軍服をはじめ軍装一式の準備がなかった宮崎は、その日のうちに急ぎ調達に京都市内南部の伏見に行った。翌二十五日の早朝には、父市蔵が召集令状をもって京都に来た。宮崎は、同日午後一時には京都を出立。まだ満一歳にならない娘を残しての出征である。東京の上野駅では、飯島忠夫と、その女婿窪田潔夫妻が宮崎を見送った。

 宮崎は、深夜十二時ごろに宇都宮に着いた。雪が降っていた。翌朝、二尺ほど積もった雪の中を輜重大隊の兵営に出勤し、馬廠長に任じられた。馬廠とは、軍馬の管理をするところである。しかし、実際には、時代は既に自動車の時代となっており、物資を輸送する馬はなく、将校用の馬しかなかった。馬廠には六十名の隊員がおり、宮崎はその指揮官になった。六十名の隊員は、「多く群馬、栃木、長野県下の農民が始めて狩り出された者で、素朴で忍耐強い。この部隊を率いてなら、一戦争戦えそうという頼母しさがあった」。なお、輜重大隊は、五個中隊と馬廠からなっており、中隊は人員百二十名で、馬廠の倍であったが、馬廠は中隊と同格に扱われ、馬廠長は幹部会議に中隊長と共に出席することになっていた。三月六日、十四師団は盛大な市民の見送りの中、宇都宮を出立した。

 八日、京都駅を通過、ここで宮崎は、同僚や三高生の見送りを受けた。京大の羽田亨、矢野仁一も来ていた。この時、前章で述べたように羽田は、小川琢治から軍刀を借りて来て宮崎に手渡した。これは市上に軍刀が払底して手に入らなかったためである。小川は、古刀剣の研究でも有名で、宮崎に貸し与えられた軍刀も宗正の銘を持つ備前刀の名刀であった。軍刀には、「従軍行 送宮崎文学士応召従軍」と題する次のような漢詩も添えられていた。

江南飛雪未催春 江南雪を飛して未だ春を催さず

浪雑鼓声圧滬浜 浪は鼓声を雑えて滬浜を圧す

投筆従軍吾老矣 筆を投じて軍に従うには吾老いたり

羨君徇国我忘身 羨む君が国に徇いて身を忘れんと欲するを

なお、小川の次男は中国古代史の貝塚茂樹、三男はあのノーベル賞をとった湯川秀樹である。三高生のひとりとして、この場にいた青山光二は、この時の様子を次のように記録している。「確か昭和七年、私が三年生のとき、宮崎教授に召集令状がきた。第一次上海事変が始まった年てあり、満州事変は前年九月すでに火蓋を切っていた。宮崎教授が現役訓練をうけた陸軍将校であるのを私たちは知らなかった。というより、知って意外に思った。まったくの学者肌で、陸軍軍人といった風格はどこにもなかったからである。
 誰が云いだしたのか、宮崎教授が原隊へ向けて出発される日、生徒一同が京都駅に集まって歓送しようということになった。

 当日、京都駅ホームは、手に手に赤い旗を持った三百人を越える三高生で文字通り埋まった。赤い旗は応援団の備品で、夏の対一高戦のとき全校生による応援団が用いたもの。野球やボートレースの応援に、一高は白、三高は赤の幟や応援旗をそろえて威勢を張った。
「宮崎教授、ばんざい」
の声が、駅のホームをどよもし、下り列車のブリッジに立った軍装の宮崎教授は、挙手の礼を返している。
 宮崎教授、当時三十一歳。陸軍尉官の軍服に革長靴、革のベルトに軍刀を吊った姿はいかにも凛々しいが、平素おとなしすぎて、どことなくジジムサイ感じさえする風貌が、凛々しい軍装で一変するというわけには行かず、むしろ軍装がイタにつかぬおもむきさえ見てとれるのが気の毒、というより、こういう人物が戦場へ引っ張りだす国家というものが、そのとき理不尽に思えてならなかった。
’’紅萌ゆる’’を合唱する声が起こっている。召集されて戦場へおもむく教授の、たしか第一号ということもあったかもしれないが、やはり、学生のあいだで宮崎教授は人気があったのだろう。京都駅に三百人もの生徒が集まって見送るというのは、かなり異常なことだった。レジスタンスというほどの気分はなかったが、集まった学生のあいだに、
ー宮崎さん、むだ死にせずに、生きて帰ってきてください。
という、声にならない声がわだかまっていたのは、たぶん事実だった。そんなことを宮崎教授にじっさいに云った学生もいたような気がする。
発車のベルが鳴り、学生たちは旗を振って、’’紅萌ゆる’’を合唱していた。

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