2026年7月8日水曜日

20260707 株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」 pp.16-20より抜粋

株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」
pp.16-20より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4061498835
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061498839

 前著の『動物化するポストモダン』は、タイトルに示されているように、ポストモダンとオタクの関係を中心とした社会分析の書物である。「ポストモダン」あるいは「ポストモダン化」は、一九七〇年代以降の先進諸国で生じた社会的変化を意味し、「オタク」とは、同時期の日本で成長した、マンガやアニメ、ゲームなどを中核とした趣味の共同体を意味している。
 ポストモダンもオタクも、日本では流行語になってしまったため、いまでは多様な意味を抱えている。そのためにかえって見えにくくなっているが、ポストモダン化の進展とオタクの出現は、時期的にも特徴的にも関係している。したがって、オタクについてポストモダンの概念を使って、また逆にポストモダンについてオタクの経験を参照して考えることには意味がある。そして、その視点からは、いままでの日本社会論ではなかなか語られなかった、戦後日本のある側面が見えてくる。筆者は前著で、このような立場のもとでオタクの歩みに注目し、一九九五年以降、若いオタクが急速に物語に関心を失っているように見えること(「萌え」「データベース消費」の台頭)、そしてその変化が、短期的な流行ではなく、むしろポストモダンの徹底化、すなわち「大きな物語の衰退」の反映として分析できることを指摘した。本書の議論は、まずはそのような状況認識を前提としている。
 私たちはポストモダンと呼ばれる時代に生きている。ポストモダンでは物語の力が社会的にも文化的にも衰える。そして、現在の日本では、オタクたちの作品や市場が、そのようなポストモダンの性格をもっとも克明に反映し、表現や消費のかたちをもっとも根底的に変えている。したがって筆者は、二〇〇〇年代の物語的想像力の行方について考えるために、まずは、その物語の衰退にもっとも近くで接しているはずの、オタクたちの表現に注目するべきだと考える。これが本書の出発点である。

ポストモダンと物語

 つぎに確認しておきたいのは、いままでの文章でもすでに問題となっていた、「ポストモダン」と「物語」の関係である。筆者は本書では、前著との重複を避けるために、ポストモダンの概念についてあらためて説明を行わない。本書の議論では、この言葉については、「大きな物語の衰退」ていどの理解でも文意を追えるようになっている。しかし、誤解を避けるため、あることだけ補足しておきたい。
 ポストモダン化は、社会の構成員が共有する価値観やイデオロギー、すなわち「大きな物語」の衰退で特徴づけられる。一八世紀の末から一九七〇年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統の共有で確保されていた。ひとことで言えば、きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。しかし、一九七〇年代以降の「ポストモダン」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる、別の感性が支配的となる。そして日本でも、一九九〇年代の後半からその流れが明確となった。これが、前著と本書の前提にある時代認識である。
 ところが、このような時代認識を提示すると反論が寄せられることが多い。それは、ポストモダンでは大きな物語は衰退すると言うが、現実には大きな物語はさまざまな局面で復活し、増殖しているのではないか、という反論である。
 二一世紀はポストモダンだという。しかし、実際には世界的には、大きな物語の衰退どころか、文明の衝突や原理主義の復活こそが問題となっている。国内を見ても、ナショナリズムや伝統の復活を願う声はますます高まっている。映画や小説を見ても、緻密な設定と重厚な世界観をもつ長大な物語は、以前と変わらず求められ続けている。話題を『動物化するポストモダン』が対象としたオタクの市場に限定したとしても、そこでも萌えの流行は一段落し、逆に物語が復活しつつあるように見える。そもそも、いまやインターネットは、政治分析からカルトや陰謀論、内部告発まで、世界中の人々が投稿した無数の大きな物語で満ちている。つまりは、マクロな水準でもミクロな水準でも、現在の状況は、大きな物語の衰退というよりも、むしろ物語の過剰や氾濫と捉えたほうが適切なのではないか。
 「大きな物語の衰退」という表現を常識的に理解するならば、このような疑問が生じるのはもっともかもしれない。しかし、その反論は実は誤解に基づいている。というのも、ポストモダン論が提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有するべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである。
 ポストモダンにおいても、近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダンの相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。たとえば、もしかりにあなたが特定の宗教の熱心な信者だったとして、現代社会はその信仰は認めるが、あなたがすべてのひとがあなたの神に帰依するべきだと考え、ほかの神への寛容を侵害することは、たとえそれこそが信仰の表れだったとしても決して許さない。言いかえれば、ポストモダンにおいては、すべての「大きな」物語は、ほかの多様な物語のひとつとして、すなわち「小さな物語」としてのみ流通することが許されている(それを許せないのがいわゆる原理主義である)。ポストモダン論は、このような状況を「大きな物語の衰退」と呼んでいる。
 したがって、現代社会が物語に満たされていることは、「大きな物語の衰退」論への反証にはならない。オタクたちの物語が、たとえ内容的には気宇壮大な奇想に満たされていたとしても、多様な消費者の好みに合わせて調整され、「カスタマイズ」され、それゆえにほかの物語を想像させる寛容さを抱えて作られているかぎりにおいて、それは「データベース消費」のもとにある「小さな物語」として捉えるべきだと筆者は考える。この「ほかの物語を想像させる寛容さ」は、本論でのち論じていくように、現代の文学を考えるうえで鍵となる概念である。

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