2026年7月17日金曜日

20260716 大きな物語と社会のゆくえについて…

 おかげさまで、昨日の投稿記事は、投稿翌日としては多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。そうしたこともあり、本日もブログ記事の作成を始めた次第ですが、昨日の投稿記事後半では、出来るだけ、記号接地させた言語を用いて自問自答をすることにより、参照し得る記憶が増大し、それに伴い、新たな記憶の発見とも思えるような出来事が生じると云った意味のことを述べましたが、こうしたことはたしかにあり、そうした当初は、いわば個人的なものであった感覚が、対話や議論を通じて、より明晰なものとなり、そして共有化されることにより、社会全体での知的水準やリテラシーが徐々に向上してゆくのではないかと思われるのですが、近年のインターネットを軸とした情報化社会では、当初の個人的であった感覚から、共有化され、広がっていく過程がある程度可視化されてしまうことからか、逆に、はじめの感覚から広がってゆくことが少なくなり、そこから、共有され得る大きな物語も生じ難くなり、それ(大きな物語の生成)は、他の文化部門の「業務」となっていったのが近年の我が国ではないかと思われるのですが、しかしながら、この実際の出来事や歴史に基づいた大きな物語の生成が、おそらく、情報化社会以前の近代以降の我が国において極めて苦手としてきたことであり、そして、それが一つの要因となり、結果的に政体の変化にまで至ったのではないかとも思われますが、このことは、昨今のさまざまな国内ニュースの報道などを目にしますと、あらためて考えさせられます。また、こうしたことを述べますと「現代社会においては、むしろ大きな物語が氾濫しているではないか?」という批判もあると思われますが、たしかに、インターネット空間では、政治、経済、外交、安全保障、科学技術、歴史など、陰謀論も含め、多くの大きな物語が日々消費されており、また、それらを主張する各々共同体の内部においては、その大きな物語は、しばしば絶対的な権威を持っているかのように見受けられます。しかしながら、こうした状況は、現代においては、どれほど壮大な思想や理念を掲げる物語であったとしても、それが社会全体を統合する唯一の原理として受け入れられることはなく、あくまで無数の選択肢のひとつとして流通していることを示しているのではないかと考えます。それは、換言しますと「大きな物語」の消滅ではなく「大きな物語として名乗ることができなくなった社会」と云えるのかもしれません。しかしながら、こうした状況をインターネットや情報技術の発達だけに帰することは、おそらく適切ではないと考えます。むしろ、この問題の根底には、近代以降の我が国が抱えてきた、ある種の性質があるようにも思われます。太平洋戦争中の1942年、和辻哲郎は、日本社会が「挙国一致」を掲げながらも、実際には各分野が縄張り争いを続け、国家全体の方向性を見失っていることに強い危機感を抱いていました。そして、それに対して長谷川如是閑は、日本とは元来、そのような多様な意見や立場が併存し、互いに妥協しながら進んでいく国なのだ、と応じています。この議論から考えてみますと、そこには、現代にも通じる大きな問題が潜んでいるように思われます。すなわち、我が国は、古くから多様な価値観や共同体を包摂する能力を持っていた一方で、それらを貫く明確な理念や思想を形成することは、必ずしも得意ではなかったのではないか、ということです。戦前社会においては、天皇制という我が国全体を包括する象徴体系が、そのような多様な集団を、いわば千成瓢箪のように、あるいは「ササラ」のように、どうにか束ねていました。しかし、敗戦によって、その象徴的な重心は大きく変質しました。そして、その後の高度経済成長や消費社会の時代を経て、現在では、それぞれの共同体や専門分野が独自の論理によって動きつつも、それらを最終的に接続する原理が弱まりつつあるように見えます。かつては、官庁、陸海軍、大学、財界、地方共同体などが、それぞれ独立した価値論理を持ちながらも、なお全体を参照する意識がありました。しかし、現代の社会では、政治は政治、経済は経済、学術は学術、趣味は趣味、インターネット上の共同体は共同体として、互いに交わることなく、独自の正当性を主張するようになっているようにも見えます。これは単なるセクショナリズムではなく、むしろ「セクショナリズムの絶対主義化」とでも呼ぶべき現象なのかもしれません。もっとも、興味深いことに、多くの人びとは、その絶対性を本気で信じているわけではありません。誰もが、自らの属する共同体や価値観が、数ある選択肢のひとつに過ぎないことを、どこかで理解しています。その意味では、現代社会は、確固たる信念に基づいて対立しているというよりも、互いに相対化された無数の物語が、相争いながらも、曖昧な均衡を保ちながら共存している状態と云えるのかもしれません。そして、そうした状況のなかで、我々は、どのようにして、再び現実の出来事や歴史と向き合い、それを他者と共有し得る言葉を検討することが出来るのでしょうか?冒頭で述べたように、記号接地した言語での自問自答は、意識化されていなかった記憶を呼び覚まし、新たな観念の連合を生じさせます。しかし、それは決して個人の内面だけで収束される営みではありません。本来、それらは、対話や議論を経て、より大きな文脈へと接続され、社会全体の知的基盤を形成するものであると考えます。しかし、現代のインターネットに基づく情報化社会では、その過程そのものが可視化され、断片化され、そして即座に消費されてしまいます…。その結果、個人的な感覚が共同体へ、共同体の経験が歴史へ、そして歴史は社会全体の物語へと包摂される機会を失いつつあるのかもしれません。そして、もしも、そうであるのならば、我が国が直面している問題は、単なる政治・経済の混乱や停滞、人口減少だけではなく、むしろ、我々は今、個々の経験や記憶を、再び社会全体の言葉へと接続すること、そのものを問われているのではないかとも思われるのですが、如何でしょうか?また、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。

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