2024年9月14日土曜日

20240913 1848年のヨーロッパについて②

 1845年から1848年にかけて、ヨーロッパ全土は深刻な飢饉に見舞われました。当時の主要な食糧であったジャガイモが胴枯れ病の被害を受け、多くの地域で大飢饉が発生しました。特にアイルランドでは被害が甚大で、政府の不十分な対応も重なり、100万人以上が命を落としました。この影響で多くのアイルランド人がアメリカ合衆国へ移住し、その中には第35代大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの先祖も含まれていました。

 飢饉の影響は他のヨーロッパ諸国にも広がり、フランスではジャガイモと小麦の価格が急騰し、市民生活を圧迫しました。南ドイツのバーデン地方でも食糧不足による価格高騰が起こり、ベルギーではチフスなどの疫病が蔓延し、多くの命が失われました。このような飢饉に端を発する社会不安と経済的困窮は、ヨーロッパ全土に深刻な影響を与え、各地で民衆の暴動が頻発するようになりました。

 こうした状況を背景として、1848年にはヨーロッパ各地で大規模な政治変革が発生しました。まず、1月にシチリアのパレルモで暴動が起こり、両シチリア王国からの分離独立と憲法制定を求める革命が勃発。これによりシチリアは自治と憲法を獲得し、革命の波はイタリア全土、さらにはヨーロッパ全体に広がっていきました。

 続いて2月にはフランスで革命が勃発し、オルレアン朝のルイ・フィリップ王が退位して1830年以来続いた七月王政が崩壊、第二共和制が樹立されました。労働者階級と中産階級が協力し、工業化による社会的不平等の是正を求めたこの革命は、フランス社会に大きな変革をもたらしました。しかし、第二共和制は国内外の圧力に直面し、同年6月には労働者による反乱が起こり、「六月事件」として知られる武力鎮圧へと発展して、この反乱により、フランス社会の分断はさらに深まりました。

 混乱の続くフランスでは、1851年にルイ=ナポレオン(後のナポレオン三世)がクーデターを起こし、翌年には自ら皇帝となり第二帝政を樹立しました。ナポレオン三世治世下でのフランスは、内政の安定を図り、また積極的な対外政策を展開しました。1853年にはクリミア戦争に参戦し、黒海沿岸への侵出をはかるロシア帝国に対抗して英仏連合軍の一翼を担いました。この戦争はナポレオン戦争以来最大規模となり、1848年からの社会変革によって崩れかけていたウィーン体制をさらに揺るがしました。

 一方、フランスの2月革命を契機に、オーストリア、ドイツ諸邦、イタリア各地でも民衆蜂起や自由主義運動が相次ぎ、政治的・社会的な変革が求められるようになりました。ドイツでは自由主義と民族主義の高揚により、プロイセンとデンマーク間でシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン公国を巡る対立が激化しました。イタリアではサルディニア王国がイタリア統一を目指し、オーストリア・ハプスブルク帝国に宣戦するなど、民族統一運動が激しさを増しました。こうした一連の動きは、ヨーロッパ全体に緊張をもたらし、その後の戦争の原因となりました。

 19世紀半ばの飢饉による社会不安と、それに続く一連の革命や動乱は、19世紀後半のヨーロッパの状況を大きく変えました。伝統的な社会秩序が崩壊し、新たな国民国家が次々と誕生する中、ヨーロッパ全体が変革と再編の時代を迎えました。この時期に築かれた国際秩序や政治体制は現代の国際社会の基盤となり、その影響は今日に至るまで続いています。

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