pp.34-49より抜粋
第一部:日本文化について
「日本文化について」ということですが、別にお話しすることを考えていないんです(笑)。・・・ただ、文化ということの定義を仮に申し述べておきますと、文化というのは、文明という言葉との間において成立している言葉でありまして、文明に対して文化は・・・というように・・・。文明というのは、やっぱり普遍的なものでしょうな。・・・たとえば、旅客機が飛んでおりまして、航空機文明というものにわれわれは誰でも簡単に参加することができます。チケットを買って、そして飛び立つときに、指示のとおりベルトを締めれば、それで航空機文明に参加できる。文明というのは便利なもの、そしてそれに参加するのには、ごく簡単な手続だけで済むものです。たとえば自動車文明というのは、街角でタクシーをとめまして、メーター通りに料金をお支払いすれば、目的地に着けてくれます。
それに対して、文化というのは、やや非合理なもの、やや特殊なもの、場合によっては、その民族や社会にのみ限られるものです。
むろん文化も広く行き渡る場合があります。たとえば、ジーンズというようなものがあります。ジーパンがはやっています。ジーパンは、アメリカという多民族国家の中で成立した、若者 ーだけではありませんけれどもー の流行ででき上がってきたものです。日本は島国ですから、アメリカではやっているんだろうというので、はく人もいます。海外のものが珍しいというわけではく。ジーパンは文明なのか、アメリカ文化なのか、ちょっとわかりにくいですが、つまり他の国で受け入れられる文化もずいぶんあります。
…たとえば大相撲をロンドンっ子がずいぶん見ているそうですな。賭けなんかしているそうですな。ですから、大相撲は文化でありますけれども ー珍しがられて受け入れられている場合もありますがー 外国でも受け入れられる。
しかし、大相撲は非常に文化的要素が強いものであります。たとえば、すぐさま相撲を取ればいいのに、いろんな手続をする。いろんなしぐさをします。あれは神事なんでしょうな。日本の古くからの神道の要素が非常に強うございます。また、日本の神様は神々の神様でありますから、西洋や中近東のアラーの神のように絶対者ではないわけで、たくさんいらっしゃいます。そして、共通して神様は退屈なさるそうで、神遊びをなさいます。神様のお喜びになるのは若者であります。若者が大好きであります。日本の神様は、若者の中でも若者らしいーというのは力を競う相撲であります。万葉時代では、元気のいい若者が元気よく振る舞っているというのを醜(しこ)と言いました。お相撲で四股を踏むというのは、あれは当て字であって、本来の日本語としては、つまり醜(しこ)ぶっている。神様の前で醜(しこ)ぶっているという意味でしょうな。
大相撲にはそういうしぐさがいろいろあります。いろいろありますから、これはやっぱり日本の風土から生まれたものであります。・・・こんなお相撲の話をしているのは、これは前置きでありまして、メインの話ではありませんが・・・(笑)。
「日本文化について」ということですが、別にお話しすることを考えていないんです(笑)。・・・ただ、文化ということの定義を仮に申し述べておきますと、文化というのは、文明という言葉との間において成立している言葉でありまして、文明に対して文化は・・・というように・・・。文明というのは、やっぱり普遍的なものでしょうな。・・・たとえば、旅客機が飛んでおりまして、航空機文明というものにわれわれは誰でも簡単に参加することができます。チケットを買って、そして飛び立つときに、指示のとおりベルトを締めれば、それで航空機文明に参加できる。文明というのは便利なもの、そしてそれに参加するのには、ごく簡単な手続だけで済むものです。たとえば自動車文明というのは、街角でタクシーをとめまして、メーター通りに料金をお支払いすれば、目的地に着けてくれます。
それに対して、文化というのは、やや非合理なもの、やや特殊なもの、場合によっては、その民族や社会にのみ限られるものです。
むろん文化も広く行き渡る場合があります。たとえば、ジーンズというようなものがあります。ジーパンがはやっています。ジーパンは、アメリカという多民族国家の中で成立した、若者 ーだけではありませんけれどもー の流行ででき上がってきたものです。日本は島国ですから、アメリカではやっているんだろうというので、はく人もいます。海外のものが珍しいというわけではく。ジーパンは文明なのか、アメリカ文化なのか、ちょっとわかりにくいですが、つまり他の国で受け入れられる文化もずいぶんあります。
…たとえば大相撲をロンドンっ子がずいぶん見ているそうですな。賭けなんかしているそうですな。ですから、大相撲は文化でありますけれども ー珍しがられて受け入れられている場合もありますがー 外国でも受け入れられる。
しかし、大相撲は非常に文化的要素が強いものであります。たとえば、すぐさま相撲を取ればいいのに、いろんな手続をする。いろんなしぐさをします。あれは神事なんでしょうな。日本の古くからの神道の要素が非常に強うございます。また、日本の神様は神々の神様でありますから、西洋や中近東のアラーの神のように絶対者ではないわけで、たくさんいらっしゃいます。そして、共通して神様は退屈なさるそうで、神遊びをなさいます。神様のお喜びになるのは若者であります。若者が大好きであります。日本の神様は、若者の中でも若者らしいーというのは力を競う相撲であります。万葉時代では、元気のいい若者が元気よく振る舞っているというのを醜(しこ)と言いました。お相撲で四股を踏むというのは、あれは当て字であって、本来の日本語としては、つまり醜(しこ)ぶっている。神様の前で醜(しこ)ぶっているという意味でしょうな。
大相撲にはそういうしぐさがいろいろあります。いろいろありますから、これはやっぱり日本の風土から生まれたものであります。・・・こんなお相撲の話をしているのは、これは前置きでありまして、メインの話ではありませんが・・・(笑)。
お相撲は大昔からあったんですけれど、普通、芸能的なもの、スポーツのようなものは王様とか貴族たちが楽しみにして、そういうことでできあがるものでありますが、大相撲は、江戸や大坂その他の木戸銭でできあがっている、というのが興行としての大相撲のおもしろさです。王様ではなく普通の人間の入場料ででき上がっている。そして、お客さんというのは喜ばせなきゃいけませんですから、いろいろそれに沿ってマナーが発達していったり、無様なものはそぎ落とされていったり、ルールもあまり煩雑なものはそぎ落されたりして・・・大相撲というのはよくできたものですね。これは珍しく日本の大衆が生んだスポーツでありますから、そういうものは、やはり海外にも ー海外にも大衆がいますからー 受け入れられるんでしょうな。 だけれども、基本的に大相撲は文化です。
・・・今、教育会館に来ておりますが、教育会館は吉田五十八さんの設計だそうですな。ということは今聞いたばっかりです。吉田さんの建築は、皆さんご存じのように、日本の古い建築をイメージの中心において、それを新しく生かした非常に誇るべき芸術です。吉田五十八さんがいなければ、われわれの伝統はもう中断したかもしれない。
奈良朝と平安朝
・・・その建築の話をいたしますと、日本には奈良朝という時代がありましたな。次に来るのは、京都に都が置かれて平安朝ですが、奈良朝と平安朝の違いを凹凸としてお考えくだされば、非常によくわかります。奈良朝のイメージというのは、堂々たる建物。これは唐様の堂々たる建物。それから仁王様とか、その他彫刻。彫刻と巨大建造物の時代でした。
むろん、奈良朝というのは、中国文明を受け入れた時代であります。これに対して平安朝というのは、ちょっと平べったいでしょう。イメージの中の、「源氏物語」の時代を想像してくださればわかりますが、公家の屋敷、それから御所、その他どれも非常に平面的であります。奈良の都は大仏殿、唐招提寺、あるいはその他の巨大建造物でご存じのような、あのイメージで想像してくださっていいんですが、そびえ立つような、そして柱もずっしりと大地に沈み込んで、見た目にも偉容を感じます。それが平安京、つまり京都に行くと、やわらかくて平面的になる。
奈良朝のことを申し上げつつ、「日本文化について」というテーマに沿った枝葉の話をちょっと申し上げますと、日本というのは島国でありまして、普通よその国の先進国の文化や文明を受け入れるのには、その国の属国になったり、植民地になったりして受け入れるわけでありますが ー近代で言いますと、インドはイギリスの植民地になることによって受け入れたー 島国の日本は違いました。日本だけが世界史の例外であります。自発的に受け入れたわけです。自発的に受け入れただけでなくて、文明も文化もお金を出して買ってきたわけであります。
遣唐使を送ります。遣唐使については、話はそれなりのおもしろさがありますが、それは省きまして、遣唐使の皆さんはずいぶんたくさん砂金を持っていったわけです。日本は、たまたま大仏殿ができ上がる前後に、ずいぶん砂金がとれる国になりました。ですから、手軽に持っていけるものは砂金でした。遣唐使の中に留学生たちもたくさんいました。留学生もみんな砂金を持っているんです。お上からいただく砂金だけでなく、個人もいろいろ都合しまして、親類縁者を回って、少しずつ砂金をいただいて持っていきました。
たとえば最澄は、今で言えば、国立大学の教授のような資格で行きました。空海は同じ遣唐使船に乗っていましたが、学生として行きました。二十年の予定を空海は二年で帰ってきたんですが、二十年の経費をもらっているわけです。空海は地方の土豪の出身でありますからお金持ちでして、自分自身のお金も持っていきました。それでお経を買うんであります。そして、教えていただいたらお礼をしなければいけません。教えていただく先生にはお弟子がたくさんいらっしゃいますが、あとで宴会をして、ご馳走を差し上げて、お礼を申し上げます。
奈良朝と平安朝
・・・その建築の話をいたしますと、日本には奈良朝という時代がありましたな。次に来るのは、京都に都が置かれて平安朝ですが、奈良朝と平安朝の違いを凹凸としてお考えくだされば、非常によくわかります。奈良朝のイメージというのは、堂々たる建物。これは唐様の堂々たる建物。それから仁王様とか、その他彫刻。彫刻と巨大建造物の時代でした。
むろん、奈良朝というのは、中国文明を受け入れた時代であります。これに対して平安朝というのは、ちょっと平べったいでしょう。イメージの中の、「源氏物語」の時代を想像してくださればわかりますが、公家の屋敷、それから御所、その他どれも非常に平面的であります。奈良の都は大仏殿、唐招提寺、あるいはその他の巨大建造物でご存じのような、あのイメージで想像してくださっていいんですが、そびえ立つような、そして柱もずっしりと大地に沈み込んで、見た目にも偉容を感じます。それが平安京、つまり京都に行くと、やわらかくて平面的になる。
奈良朝のことを申し上げつつ、「日本文化について」というテーマに沿った枝葉の話をちょっと申し上げますと、日本というのは島国でありまして、普通よその国の先進国の文化や文明を受け入れるのには、その国の属国になったり、植民地になったりして受け入れるわけでありますが ー近代で言いますと、インドはイギリスの植民地になることによって受け入れたー 島国の日本は違いました。日本だけが世界史の例外であります。自発的に受け入れたわけです。自発的に受け入れただけでなくて、文明も文化もお金を出して買ってきたわけであります。
遣唐使を送ります。遣唐使については、話はそれなりのおもしろさがありますが、それは省きまして、遣唐使の皆さんはずいぶんたくさん砂金を持っていったわけです。日本は、たまたま大仏殿ができ上がる前後に、ずいぶん砂金がとれる国になりました。ですから、手軽に持っていけるものは砂金でした。遣唐使の中に留学生たちもたくさんいました。留学生もみんな砂金を持っているんです。お上からいただく砂金だけでなく、個人もいろいろ都合しまして、親類縁者を回って、少しずつ砂金をいただいて持っていきました。
たとえば最澄は、今で言えば、国立大学の教授のような資格で行きました。空海は同じ遣唐使船に乗っていましたが、学生として行きました。二十年の予定を空海は二年で帰ってきたんですが、二十年の経費をもらっているわけです。空海は地方の土豪の出身でありますからお金持ちでして、自分自身のお金も持っていきました。それでお経を買うんであります。そして、教えていただいたらお礼をしなければいけません。教えていただく先生にはお弟子がたくさんいらっしゃいますが、あとで宴会をして、ご馳走を差し上げて、お礼を申し上げます。
空海の場合は、真言密教でありますから、お経だけでなく、いろいろ道具が要ります。道具だけでなくて、密教のほとけ様はちょっと普通のほとけ様ではないので、新たに作ってもらわなきゃいけない。密教のほとけ様というのはネックレスをしているでしょう。イヤリングをつけているでしょう。ほかのほとけ様は、たとえば阿弥陀如来は何にもネックレスをつけてないでしょう。密教のほとけ様は、観音様でも何でも、浮世の宝飾店で買ってくるようなものをつけています。これは浮世のままで成仏できるというシンボルであります。
ほとけ様にはいろいろ規則がありまして、その規則に従わなければ、十一面観音はでき上がらないというようなものでありますので、サンプルその他を持って帰らなきゃいけない。これは大変なお金であります。そういうようにして、われわれは文明を買ったわけです。
そして、・・・当時、われわれが奈良の周辺に生きていれば、恐れ入りました、というような大文明がそこに現出したわけです。少しわれわれに謀反げがあってものの大文明を見れば、もうやめた、となるでしょうな。つまり、九州の端にいる人も、関東の端にいる人も、どうも奈良へ行って見たけど驚いた、これにはもう歯向かえないと思う。そういう文化的ショックというのがありまして、それは奈良朝七十年の非常な功績でした。ひょっとすると、まだ竪穴住居に住んでいる人がたくさんいたかもしれません、奈良の周辺でも。そういう人たちがそびえるような建物を見たわけですから、これはもう恐れ入りましたとなるでしょう。
奈良朝は最初の国家であります。それ以前には、予備段階の国家がありましたけれども。奈良朝は統一国家の幕あけと言ってもいいのですが、その幕あけは長安の都の三分の一の規模で、考古学的発掘の結果は必ずしもそんなに大きな凄いものでもなかったという説もありますけれども、しかし、建物はすごかった……。
その奈良の都を七十年でやめたのは、どうも私が想像するのに・・・これは今日のテーマとは関係ありませんが、いや、ありますな。原因は、そのすごい建物にあった。
要するに、国を治めていくのにー仏教というのは、当時としては世界の普遍的な思想の大きなものの一つでありますがーその仏教をこの極東の島国に入れました。そして、大仏さんは毘盧遮那仏と言いますな。あるいは、宇宙の中心におられると言いますな。太陽のシンボルとも言いますな。毘盧遮那仏をでっかくつくって、仏教をベースにして国を治めたいと考えました。それで普遍性を導入したわけであります。
普遍性ですから、これはたとえばヨーロッパにおける昔のカトリックとか、もう崩壊しましたけれどもソ連のマルクス・レーニズム、これもソ連は普遍性だと思っていたのですが、それと同じものです。普遍的思想というのは、よその国も参加できるという思想であります。ですから、日本という田舎の国も、仏教普遍という普遍性を入れることで国をつくろうとしたのです。
聖武天皇は大仏さんをつくった方ですね。その聖武天皇が、私は三宝ー仏教のことでありますーの徒になりたいとおっしゃった。三宝の、つまり仏教の奴隷になりたいと。そしたら、坊さんはその気になったんでしょうな。天皇も奴隷、私の奴隷であると思い込んだばかな坊さんがたくさんいたみたいですな(笑)。つまり、坊さん自身が普遍性で、その下に国家があると・・・。
今、アメリカ大統領は法下、法の下にアメリカ大統領がある。日本憲法の下に天皇さんがいらっしゃる。それから、内閣総理大臣も国会議員もわれわれもいる。平等にいる。法というものが、新しい普遍性でありますが、だから、アメリカ大統領は法に対して宣誓をします。
だからといって、アメリカでは裁判官がいばって、大統領の頭の一つもこづくかというようなことはありませんが、奈良朝の時代は、まだ未開でありましたから、お坊さんはその気になってしまって、非常に宮廷がお坊さんによっていろいろと荒らされたんですね。きっとそういうことがあったでしょう。
それで、もう煩わしくなって、そんな奈良から脱出をして、七十年で奈良の都をやめて、京都に都を置いたんだろうと僕は思います。
そして京都には官立のお寺を置かないという大原則でした。ですから、平安時代から今に至るまでの京都を想像してください。唐招提寺のようなでっかいお寺はありませんでしょう。清水寺なんて大きいですけど、あれは坂上氏という一つの氏族の私立のお寺でした。ですから、京都の市内に官立、国立のお寺を置くと、普遍性だ、普遍性だといって、坊さんが大きな顔をするので、政治の邪魔になるというので置かなかった。
京都で今現在見ることができる建物というものは、やさしいでしょう。平安時代の最初からあった建物は、もうほとんどありませんが、お公家さんの屋敷、御所など実にやさしいものであります。お庭があって、西洋人やアフリカの人から見ればちょっと粗末な素材で、別に金や銀が使われているわけではない。日本風で言えば、わびとかさびとかが、もう既に平安朝の建物にありますな。北京の紫禁城といったようなものではありませんでしょう。ベルサイユ宮殿というものではありませんでしょう。
非常に物静かな住まいの町。東山には青蓮院というようなきれいなお寺がありますが、あれはお寺というよりは、お公家さんの屋敷であります。ですから、今度京都にいらっしゃいましたら、知恩院の横の青蓮院にいって、お公家屋敷はこういうものだったのかというのをごらんになれば、よくわかります。少し座敷があって、お庭が見えて、気持ちのいいものであって、権力をあらわしているというようなものではありません。
知恩院は、江戸初期の建物ですから、これはちょっと別の思想の表現で、これを説明すると、今日のテーマはばらばらになりますが、徳川家康の宗旨は浄土宗であったものですから、知恩院は浄土宗です。江戸城をつくって、増上寺をつくって—増上寺は浄土宗ですね—京都に知恩院をつくって、いざ、京都で反乱が起こったときの、知恩院はお城のつもりだったんです。だから、今でも見られますが石垣を組んで、なかなかお城風です。ですから、知恩院だけはちょっと大きな山門があって偉容を示していますけれども、これは徳川時代のちょっと特別な理由による建物であります。
桂離宮と大坂城
今、権力者の建物ということを、知恩院というようなことで申し上げましたが、知恩院はあまり役に立たないので、二条城を後でつくりました、京都の押さえのために。まあいわば将軍の別邸であります。京都別邸であります。この日本の権力者がつくった京都別邸というのもやさしいものでしょう。そしてあまり金のかかっていないものであります。ベルサイユ宮殿と比べると、全く粗末なものであります。徳川権力というのは日本史で一番強い権力でした。それでさえ二条城を持っただけです。
徳川時代の初めに、京都の親王さんが桂離宮をつくりました。これはいろんな事情があって徳川家がお金を出したわけです。スポンサーになって、どうぞ道楽してくださいというので、桂離宮ができました。いらっしゃればわかりますが、うっかりアフリカの大臣を連れていくと、「これならアフリカにもあるよ」と言われるかもしれません。(笑)
桂離宮は数寄という精神のあらわれであって、偉容を示そうとしているわけではありません。
今ちょっと「数寄」という日本語を申し上げましたが・・・説明しておりますと話がばらばらになっていくように見えて、最後には一つになります・・・「数寄」というのは、数に奇蹟の奇という字を使ったりしますが、要するに、「あなたが好きです」のあのスキであります。室町時代にできた言葉であります。
お茶とか、海外の絵画とか、海外の茶碗とか、そんな高価なものを集めて喜んでいるというのは、金もかかりますが、堺の商人などの場合は、商売の道も忘れてしまうかもしれない。うっかり魂が抜かれて、そのために商売は傾くかもしれない。武将でありますと、政治と軍事を忘れてうつつを抜かすかもしれない。ですから、数寄というものは危険思想とされておりました。
危険はわかっているけれども好きだからというので、数寄屋普請とか、お茶道を数寄の道とか言ったりしたわけですが、江戸時代になると、言葉が少し品下がりまして道楽という言葉になるんです。「あれは道楽もんだよ」という、あの道楽であります。しかし、数寄というときには、ガラスの破片の上を素足で歩いているような緊張がありました。数寄者はそのぐらいの緊張をしてお茶室で何人かを集めてお茶を飲んでいる。お互いに数寄者の集まりであります。
その数寄が桂離宮で野放図に出ました。心の行くまで数寄の心が表現されたわけであって、月と風と、あるいは雪、なぞをこの数寄屋普請の中にいて楽しむ、自然を楽しむ、自然に溶け入っていく、いわば絵画の中の人物になっていくという当時の日本人の理想をあらわした建築です。
しかし、当時、もう鎖国が始まっていてだんだん南蛮人も来なくなっていまして、南蛮人で桂離宮を見た人はありませんが、たとえ見ても驚かなかったと思います。南蛮人は大坂城は見たことがあります。これは驚いたと思いますが、桂離宮には驚かない。
日本の権力者は大建築をつくらなかったということを申し上げましたが、ちょっと秀吉の大坂城だけは例外です。秀吉は日本歴史の中で一番贅沢ということをした人でしょうね。あまりああいう人は、日本人の中にいませんのですが、秀吉は、その贅沢をした人であって、これはその必要があったんでしょう。
秀吉の直轄領でお米がとれるところ、彼自身の財政を賄う直轄領は二百万石ぐらいだったそうであります。徳川家は、いろいろ説がありますが、四百万石といい、八百万石ともいいます。そうすると、質素な徳川幕府がそれだけお米のとれる直轄領を持っているのに、秀吉はたかが二百万石で、なんでそんなに贅沢したのかというと、貿易による収入があったからであります。これはじかに秀吉のふところに入ってきます。博多、堺の貿易による税金はじかに秀吉のもとに入ってくる制度でした。ですから、彼は貿易家としての贅沢をしたわけです。
貿易で、ポルトガル船なり中国船が大坂湾に入ってきますと、あ、すごいものがそびえているな、これは驚くべき富と力を持った国だということを印象づけるために大坂城は必要だったわけで、そのためにタワーのような天守閣をつくったんでしょう。これは大航海時代の終わりごろのことで、秀吉も、そのお師匠さんの信長も大航海時代の人問としてちゃんと意識を働かせていた人ですから、経済意識も、政治意識も、海外意識もあり、大航海時代の世界史の最後の人らしく、やはり巨大建築をつくったんでしょう。
江戸時代になって巨大建築ができるのは、姫路城ぐらいのものですな。これは徳川家にとって、もし島津、毛利が攻めてきたら、大坂へ入る前に姫路城で食い止めるつもりだったそうですな。ですから、国立の、当時の言葉で言うと天下普請、天下の人と富を集めてつくる公立の普請でした。一大名の普請ではないものでありました。ですから、大きかったんですけれども、あとはもうしょぼしょぼしたものにありました。(笑)
日本人は、権力者といえども、贅沢をしなかったために、われわれは目に見える壮麗な文化財を持っていないんです。非常に少なく持っているだけです。ちょっと残念ですけど、これはこれでいいんだと思うんです。日本文化の特徴というのは、大相撲のような大衆がつくりたもの、そしてまれに国立の大坂城とか姫路城があるけれども、それは非常に少ない。そして、桂離宮は、これもまあ国立ですが、あまりにもその時代の文化であり過ぎまして、容易にそこに参加しにくいですな。われわれは相当勉強して、これはいいんだと言われているから、「ああ、いいものですなあ」なんて言っているけれども、にわかに中国の奥地から人が来て、桂離宮を見ても驚かないでしょうな。「こんなの雲南省にあるよ」と言うかもしれない。(笑)
大名は地主ではなかった
ですから、人をこけおどしにかけるようなベルサイユ宮殿とかロシアのクレムリンとか、そういうものはないんですな。これは日本史の特徴ですね。なんといっても・・・京都御所です。明治になって天皇さんは憲法上の位置につかれたわけですけれそも、それまで乱世の中を生きてこられたのに、御所というのは、京都御所をごらんになったらわかりますが、濠といっても溝のようなもので、塀と言っても一重であって、それも高くなくて、僕でも忍び込めますな(笑)。それなのに、だれも忍び込まなかった。戦国時代でも忍び込まなかった。あれはつまり日本史そのものの感じであります。巨大な建築をつくって人を驚かせて、恐れ入らせるというのは奈良朝で終わった。奈良朝は七十年で終わって、そしてその役目は果たした。
日本の歴史というのは……そろそろ建築から話は離れていくとしているんですが、どういうふうに離れていくのかわかりませんが……日本史というのは相当な歴史ですな。第一級の歴史だと思います。決して田舎のローカルな歴史ではないと思うんですが、しかし、国がローカルにあるものですから・・・。
ヨーロッパの中心部とか、中国とかいった国は、文明を起こした場所ですから、世界史で習います。ギリシャの哲学者の名前を知らないと、やっぱり恥ずかしいですね。ソクラテスって何ですかとか、プラトンというのは何ですか、孔子とかいうのはよく知りませんな、・・・これは恥ずかしい。ところが、日本史の中の思想家の名前を、他国の人が知らなくても恥じゃないでしょう。だから、われわれは田舎におるわけで、その意味では、世界中の中学生や高校生の教科書には、親鸞という名前は出てきませんな、道元という名前も出てこない。この人たちは独創的な思想家で、その著作は世界の人類の大いなる遺産だったと思います。ですけれども、メインの中にいる国ではありませんから教科書には出てきません。
しかし、よく日本史を見ると、これは大変精密で、しかも発展の法則通り・・・発展に法則があるのかどうか知りませんが……たとえば、江戸時代の話をしましょう。
江戸時代、毛利さんは、三十六万九千石の石高で、山口県一つ。しかし、山口県一つの地主かというと、そんなことはないんです。地主ではないんです。一坪も土地は持っておりません。一反の水田も持っていません。租税を取って、それを行政に使うという権利と義務を持っているだけです。こんな貴族は世界中にありませんな。
ロシアは、帝政ロシアのころは、伯爵も公爵も、無論皇帝も地主でした。そして、作家のトルストイさんは伯爵で、日本で言えば大名ですな。小規模なる大名。大きな地所を持っていて、地所を持っていると農奴がその上に乗っかっていまして、農奴が何千人いるとか・・・。農奴千人というのは、わりあい売買でいい金になるそうですな。農奴三百人だと、やっぱり三分の一ぐらいの値段だそうです。それは新聞広告で出るそうですな。「自分の領地を売りたい。農奴千人」(笑)というと、これは高いものであります。そういうようにしてロシアは革命にまで至っておるわけであります。ロシアには農民というのも少しはいましたけれども、ほとんどが農奴でありました。
ですから、そういうものと日本の大名は違うのであります。毛利さんは、山口県一つの、今申しましたとおり租税を取って行政をすると、それで終わりであります。明治維新になって、全部領地を置いて、廃藩置県で東京に来て、華族さんになって、お手当がいいので、どの大名もみんな大喜びでした。江戸時代の大名の経済の苦しさというのは大変でした。末期のころはほんとうにほとんどが赤字。ですから、ほっとしたというのが彼ら大名たちの明治維新であります。
今の不動産屋さんの感覚でいうなら、毛利さんならば、江戸に大名屋敷を、自分の屋敷を六つか七つ持っているはずです。上屋敷というのが一つ。これは藩主の家族がいるところである。中屋敷、下屋敷というのは幾らでもあります。大きな大名には六つか七つあります。そのうち上屋敷だけが自分の地所であります。これは将軍から拝領したということで、売買はしません。上屋敷だけが自分の地所であって、これは三千坪から五千坪ぐらいあるでしょう。中屋敷、下屋敷は勤番侍がそこに住んでいたり、その他の江戸定府、ずっと江戸にいる人が住んでいたりしますが、これは江戸の町人から借地をしているわけである。つまり借地であります。大名たるものが、つまり武士たるものが、地所を持っているというのは恥ずかしいことだったんですね。
それから、むろん本国の長州、つまり今の山口県においても、一枚の水田も持っていない。それは当たり前のことであります。ですから、地所はないのであります。萩のお城の地所があるのと、屋敷の地所があるぐらいのものであります。
トルストイ伯爵とはずいぶん違いますな。トルストイ伯爵は自分の邸内に、自分及び家族の履く靴のために靴屋さんがいる。衣服をつくるための洋服屋さん、仕立屋さんがいる。トルストイ家のためのそういう職人、商人、その他が屋敷内に住んでいる。
近代思想を生んだ江戸時代
商品経済というのはロシアになかったようですな。江戸時代と比べてですよ。江戸時代の商売の数の多いことといったらなかった。しまいに、猫のノミを取りますという人まで流して歩いていたそうですな。毛皮か何か持ってまして、猫にそれをワッと被せるわけです。ノミはびっくりして、毛皮の方に移るもんですから、猫のノミを取ります。(笑)そんなわけで、商売の数は何千種類か知りません。
ソ連が崩壊して、ロシアが大変苦しんでおって、今、社会の体をなしていない。市場経済を学べとか、ヨーロッパに行って見学しようとか、あるいはアメリカや日本を参考にしようとか何とか言っているけれども、本来、帝政ロシアに商品経済があったならば、違ったと思うんです。
中国は社会主義をとっても、古代以来商工業がありましたから、それに戻っているだけであって、大崩壊してないわけであります。ノコギリをつくる職人とか、ノコギリの目を鋭くする職人とか。こんな職人や商人も昔の中国にはいました。江戸時代にもまたいっぱいいました。
・・・ロシアがそういう時代になってから、ロシアの小説を、もう一度非常にまじめに読んだことがあります。ドストエフスキーやその辺のものを。手当たりしだいに。小説に出てくる商売の数がどのぐらいあるかというと、五種類ぐらいしかありませんな。しかも、その五種類のうち、パン屋さんはイタリア系かドイツ系ですね。それから靴屋さんは、うろうろするとロシア人ではないですね。葬儀屋というのはあったみたいです。葬儀屋はロシア人です。ご存じのように、ロシアは宗教がカトリックではなくて、オーソドックスというロシア正教ですから、そのお坊さんにしきたりを知っている人間が連絡に行かなきゃいけないので、これはロシア人のようですね。 ですから、いまロシアがあわてているのは、過去にその伝統を持っていなかったからです。江戸時代は、その末期、前期資本主義と言うべき時代です。江戸時代末期、中期から。末期どころか、中期の中頃の赤穂浪士の事件のときに、末期どころか、中期の中頃の赤穂浪士の事件のときに、前もって赤穂浪士が吉良上野介が浅野内匠頭をいじめまして、「畳を全部敷きかえなくていいんですね」と言うと、「いいんだ」と吉良上野介は言う。ところが、途中になって敷きかえろと……。勅使が来るのはもう目前でした。そこで、江戸中の畳屋に頼んで立ちどころにできる。畳屋が、それこそ江戸中に何十軒か、何百軒かもしれませんが、ありまして、それへ職人を持ってきまして、それに頼めば、もう立ちどころにできるわけであります。元禄時代でそうであります。
・・・これは文化と大いに関係なさそうですが、今思想の話をしようと思ってこんな話をしているんです。商品経済が盛んになりますと、人間の考え方が合理的になるんです。 つまり、商品というものは、お金にのみ裏打ちされるべきであります。私のこの時計は、どこの露店の売店で四千円で買ったんですけれども、私の友達で時計屋さんがいまして、「おまえの時計はずいぶん立派だな」と言うんです。 時計の価値は四千円だと言うんです。まあそんなぐらいのものです。これは金色をしていますが、メッキであります。中身は機械が入っていなくてクォーツでありますから、安いもんであります。 このように商品というのは、つまり、お金で裏打ちされるのであります。おまけに、この商品は、これはスイス製ではなくて日本製ですが、もしスイス製だと、どういう経路で来ているかとか……。これは、江戸時代の商品で言うほうがわかりやすいと思いますが、秋田の木材というのは、杉においては上等である。そして、木曾の木材は檜において上等である。他の土地の檜は少し悪いとか、檜は板にしておくと、ちょっと歪(ひず)みが出ていい檜だ、というふうに値段が明快に違っていく。 商品経済というのが、人を合理的にします。頭を合理的にします。そして、そこに思想も合理化される。合理的思想ができてきて、江戸中期では、いろいろの思想が出る。近代思想の前触れそのものです。 相場というのは、今、兜町で立っていますが、あれは江戸時代の中期から。相場というのは、誰が立てているんだかわからないでないですか。ああいうふうな値段は、将軍、大名が命令しているのではなくて、自然とでき上がった。それが人を支配している。海保青陵という人が書いています。 そのほかに、世の中にお化けはないんだという、またいいエッセイがあるんですよ。これを読めば、なるほど世の中にお化け、幽霊のたぐいはないんだと……。これは堂々たる格調の高い論文です。山片蟠桃です。その他、いろいろあります。 いろいろありますが、そういう小さな論文だけでなくて、たとえば日本の古典を、十八世紀ですが、当時として、現代的、近代的な目で見直した本居宣長もいます。このもの価値のみをしたわけですね。これは値打ちがあるのか、値打ちのないものなのか、これは日本の古い神々のことを書いてある。そして神々以後のことも書いてあるが、これは文化として価値がある、というふうに品定めをしております。
そういう精神が近代の精神というものであります。ですから、近代の精神とか合理主義とか人文科学的な思考とかいうのは、難しい大学でやるものではなくて、市民の間ででき上がってくるものであります。
教育は文化ではない
それが日本文化・・・と言いますと、話が商品経済と変わりますけれども、奈良朝のときには、大変立体的な造形でした。東大寺をごらんになってもわかるように、薬師寺の塔をごらんになってもわかるように立体的なものでした。平安朝にいくと、平面的でしょう。お庭が室町時代ぐらいに発達しましたが、日本のお庭は文句なしに世界一ですね。お庭を芸術だとすれば日本が世界一で、二番目はちょっと考えられない……。
龍安寺の庭をご存じの人はたくさんいらっしゃるはずですが、龍安寺の庭も平面的ですな。白い砂があって、海のようであり、島のようなものもある。彫刻で言うとレリーフ、浮き彫りですな。やっと立体といっても、平面の中にちょっと島があるだけ。日本人は平面の発見を文化でしました。
たとえば龍安寺の庭に座っているとしましょう。お座敷があって、畳が敷いてあって、四十畳か五十畳の間であって、襖絵(ふすまえ)があります。これは箱の中にいるようなもんですな。そして、お庭を見通して、襖絵だけが立っておりまして、立体と言えば立体ですが、その襖絵も、何の絵が描いてあったか忘れましたが、要するに、たとえばルーベンスのような絵ではない。立体的な絵画ではない。非常に平面性の強い絵画ですな。空間も平面性が強い。
われわれは、平面性の中で安らぎますな。冒頭に、文化とはなにか非合理なもの特殊なものだと言いましたが、それにもう一つ付け加えますと、文化はそれにくるまれて、安らいで楽しいということをつけ加えなければいけません。長いヨーロッパ旅行をして自分の家に帰ってくると、蚕が繭にくるまれているように楽しくて安らぐ。それが文化ですな。つまり、家に帰ってきて、丹前に着かえて座ってみると、ああ落ちついたというのは、これは文化であります。
どこかのホールでニューヨーク交響楽団を聴く。これはどうなるんだという人がいるかもしれませんが、音楽の好きな人にとっては音楽にくるまれているのは楽しいことで、これも文化なんですな。
今日ここには文部省の偉い人がたくさんいらっしゃいますが、教育は文化ではないんですな。つまり、教育はなすべきことなんですな。私は学校に行くときに、学校が嫌いで、カンニングはしたことはありませんが、横の子がカンニングしているのを見て感心したことがあります。いろいろ上手に小道具をつくって、それにおそらく一週間はかけていたんじゃないかと思いますが、いつも思うのは、あれが文化だったなあ……。(笑)それから、教室を抜け出していく人も、いるかどうか知りませんが、映画に行ったりする。無論停学になります。教育はその子を停学にすべきです。しかし、その子は文化を見にいったわけです。だから、教育と文化とは相反する場合が多い。(笑)
それは別としまして、文化というものが、日本文化というものが、日本史が第一級のものであるように、日本文化が第一級のものでありたいと僕は思っているんですが、ニューヨークに行っても、パリに行っても、ロンドンに行っても、・・・その日本文化がないとわれわれはどうなるか。われわれには第一級の文化がある、というのが救いになる。
たとえば室町時代に世阿弥を出して、すぐれたお能ができ上がったし、江戸時代に歌舞伎があり、それは貴族のつくったものではなくて、大相撲と同じように庶民の木戸銭ででき上がったものですし、それから十世紀のころには『源氏物語』という世界で最初の小説を書いた人がいる、芭蕉という世界的な大詩人も江戸時代に出した、そして西鶴という非常に近代的な小説家を江戸中期以後に出したとか、……むろん、絵画、建築、桂離宮などを含めて、そういうものがなければ打ちひしがれるでしょうな、パリやロンドンみたいなよその国を旅しているときに。
私は一メートル六十四センチしかありませんが、背の高い国の人々の中に入っていると、ああ、おれは小さいなと思うだけで、少し自分をこっけいに思うだけであって、恥じ入ることはないのは、やはり自分の後ろに日本文化があると、どこかで思っているからでしょうな。
明治時代と夏目漱石
ただ、明治のときに、旧日本文化は全部否定されまして、東京にドーンと欧米型の大文明の配電盤ができた。欧米という電源から電流をもらっていて、……これも買って来たんですが。留学して貰ったり、お雇い外国人に高い給料を払ったりして。本郷に東京大学ができて、農学部は各府県の農務課と連絡し、各級の農学校その他の、東京で文明を受け入れた新しい農学が岩手県の農学校に配られていくというような、配電盤の役目をしておりました。ですから、ヨーロッパ、アメリカにはかなわないと・・・。江戸時代に文化があった。柴式部が平安時代に出たとか、そんなことはもうどうでもいいという、まことにこの時代は打ちひしがれている時代でありました。
夏目漱石が明治三十年代にロンドンに留学して、もう二度と行きたくないような呪い方をしていますね。漱石は日本文化なんて思ったことがなかった。時代がそうでした。また漱石はまだ大学生のころに京都に行きました。京都なんていうのは、和辻哲郎が出てきたおかげで、古寺礼讃になって、京都文化というのは大変なものだということ大正時代以後になりましたけれども、明治二十年代の東京の大学生が京都に来て、正岡子規と二人で来ましたが、お寺ばっかりあって陰気なところだと、・・・。それだけの印象です。大学教授をやめて朝日新聞に入社して小説を書こうというときに、最初に朝日新聞の学芸欄に、関西の印象として学生時代に京都に旅したときの印象を書いていますが、それは悪口です。
つまり、日本文化というものは、偉大なる漱石でさえ、時代の子ですから・・・漱石というのは、ほとんど明治元年に生まれた人ですしたかな・・・死ぬときまで明治そのものを信じていた方であります。明治とは何かというのは、欧米のよきところを取り入れるのに忙しかった時代ということですね。漱石は、その先端にいた人である。ですから、日本文化なんて考えたことがなかった。
漱石はロンドンに行っていて、ちょっとあばた面の人ですが、いい顔をしているのに、当人は劣等感がありました。私は一メートル六十四センチありますが、漱石は一メートル六十センチあったかなかったか。向こうから小さなやつがやって来る、イギリスにもこんなやつがいるのかと思ったら、ショーウィンドウに映った自分の姿でした。漱石はほとんど神経衰弱になっておりました。だから、漱石は、世阿弥がいるから、芭蕉がいるから、おれはロンドンを歩いても平気だぞというような時代の人ではなかったんです。それは時代が明治だったからです。
われわれの今は、漱石の時代と違って、たくさんの古いものを新しい目で、つまり奈良朝の彫刻も、奈良朝の建物も、平安朝の何がしも、そして室町時代につくられ始めた日本庭園というものも、われわれは、どなたでもそうです、西洋人のような気持ちで見ていますな、半分。……これは明治を経ていますから……。 だから、日本画も、そして日本の古い江戸時代の小説も、どこか、つまり外国文学になじんだものとしての目で見ている。そして、それで合格しているわけです。みんなの目で、あるいは頭の中で日本文化は合格しているわけであって、だから、大相撲も歌舞伎もお能も、お能はちょっと退屈ですけれども、今なお続いておる。これはまあわれわれの目に合格しているんだから、イギリス人やフランス人、アメリカ人やアフリカ人や中国人の目にも、おそらく彼らがおもしろがって参加してくれれば、彼らも喜ぶものに違いない、彼らも尊敬してくれるものに違いないと・・・。
ですから、おそらく日本文化というのは、自信を持っていればいいんじゃないか。日本史に対する自信と同様にですね。そういうふうに思うのであります、というのがこの話の終わりであります。
そして、・・・当時、われわれが奈良の周辺に生きていれば、恐れ入りました、というような大文明がそこに現出したわけです。少しわれわれに謀反げがあってものの大文明を見れば、もうやめた、となるでしょうな。つまり、九州の端にいる人も、関東の端にいる人も、どうも奈良へ行って見たけど驚いた、これにはもう歯向かえないと思う。そういう文化的ショックというのがありまして、それは奈良朝七十年の非常な功績でした。ひょっとすると、まだ竪穴住居に住んでいる人がたくさんいたかもしれません、奈良の周辺でも。そういう人たちがそびえるような建物を見たわけですから、これはもう恐れ入りましたとなるでしょう。
奈良朝は最初の国家であります。それ以前には、予備段階の国家がありましたけれども。奈良朝は統一国家の幕あけと言ってもいいのですが、その幕あけは長安の都の三分の一の規模で、考古学的発掘の結果は必ずしもそんなに大きな凄いものでもなかったという説もありますけれども、しかし、建物はすごかった……。
その奈良の都を七十年でやめたのは、どうも私が想像するのに・・・これは今日のテーマとは関係ありませんが、いや、ありますな。原因は、そのすごい建物にあった。
要するに、国を治めていくのにー仏教というのは、当時としては世界の普遍的な思想の大きなものの一つでありますがーその仏教をこの極東の島国に入れました。そして、大仏さんは毘盧遮那仏と言いますな。あるいは、宇宙の中心におられると言いますな。太陽のシンボルとも言いますな。毘盧遮那仏をでっかくつくって、仏教をベースにして国を治めたいと考えました。それで普遍性を導入したわけであります。
普遍性ですから、これはたとえばヨーロッパにおける昔のカトリックとか、もう崩壊しましたけれどもソ連のマルクス・レーニズム、これもソ連は普遍性だと思っていたのですが、それと同じものです。普遍的思想というのは、よその国も参加できるという思想であります。ですから、日本という田舎の国も、仏教普遍という普遍性を入れることで国をつくろうとしたのです。
聖武天皇は大仏さんをつくった方ですね。その聖武天皇が、私は三宝ー仏教のことでありますーの徒になりたいとおっしゃった。三宝の、つまり仏教の奴隷になりたいと。そしたら、坊さんはその気になったんでしょうな。天皇も奴隷、私の奴隷であると思い込んだばかな坊さんがたくさんいたみたいですな(笑)。つまり、坊さん自身が普遍性で、その下に国家があると・・・。
今、アメリカ大統領は法下、法の下にアメリカ大統領がある。日本憲法の下に天皇さんがいらっしゃる。それから、内閣総理大臣も国会議員もわれわれもいる。平等にいる。法というものが、新しい普遍性でありますが、だから、アメリカ大統領は法に対して宣誓をします。
だからといって、アメリカでは裁判官がいばって、大統領の頭の一つもこづくかというようなことはありませんが、奈良朝の時代は、まだ未開でありましたから、お坊さんはその気になってしまって、非常に宮廷がお坊さんによっていろいろと荒らされたんですね。きっとそういうことがあったでしょう。
それで、もう煩わしくなって、そんな奈良から脱出をして、七十年で奈良の都をやめて、京都に都を置いたんだろうと僕は思います。
そして京都には官立のお寺を置かないという大原則でした。ですから、平安時代から今に至るまでの京都を想像してください。唐招提寺のようなでっかいお寺はありませんでしょう。清水寺なんて大きいですけど、あれは坂上氏という一つの氏族の私立のお寺でした。ですから、京都の市内に官立、国立のお寺を置くと、普遍性だ、普遍性だといって、坊さんが大きな顔をするので、政治の邪魔になるというので置かなかった。
京都で今現在見ることができる建物というものは、やさしいでしょう。平安時代の最初からあった建物は、もうほとんどありませんが、お公家さんの屋敷、御所など実にやさしいものであります。お庭があって、西洋人やアフリカの人から見ればちょっと粗末な素材で、別に金や銀が使われているわけではない。日本風で言えば、わびとかさびとかが、もう既に平安朝の建物にありますな。北京の紫禁城といったようなものではありませんでしょう。ベルサイユ宮殿というものではありませんでしょう。
非常に物静かな住まいの町。東山には青蓮院というようなきれいなお寺がありますが、あれはお寺というよりは、お公家さんの屋敷であります。ですから、今度京都にいらっしゃいましたら、知恩院の横の青蓮院にいって、お公家屋敷はこういうものだったのかというのをごらんになれば、よくわかります。少し座敷があって、お庭が見えて、気持ちのいいものであって、権力をあらわしているというようなものではありません。
知恩院は、江戸初期の建物ですから、これはちょっと別の思想の表現で、これを説明すると、今日のテーマはばらばらになりますが、徳川家康の宗旨は浄土宗であったものですから、知恩院は浄土宗です。江戸城をつくって、増上寺をつくって—増上寺は浄土宗ですね—京都に知恩院をつくって、いざ、京都で反乱が起こったときの、知恩院はお城のつもりだったんです。だから、今でも見られますが石垣を組んで、なかなかお城風です。ですから、知恩院だけはちょっと大きな山門があって偉容を示していますけれども、これは徳川時代のちょっと特別な理由による建物であります。
桂離宮と大坂城
今、権力者の建物ということを、知恩院というようなことで申し上げましたが、知恩院はあまり役に立たないので、二条城を後でつくりました、京都の押さえのために。まあいわば将軍の別邸であります。京都別邸であります。この日本の権力者がつくった京都別邸というのもやさしいものでしょう。そしてあまり金のかかっていないものであります。ベルサイユ宮殿と比べると、全く粗末なものであります。徳川権力というのは日本史で一番強い権力でした。それでさえ二条城を持っただけです。
徳川時代の初めに、京都の親王さんが桂離宮をつくりました。これはいろんな事情があって徳川家がお金を出したわけです。スポンサーになって、どうぞ道楽してくださいというので、桂離宮ができました。いらっしゃればわかりますが、うっかりアフリカの大臣を連れていくと、「これならアフリカにもあるよ」と言われるかもしれません。(笑)
桂離宮は数寄という精神のあらわれであって、偉容を示そうとしているわけではありません。
今ちょっと「数寄」という日本語を申し上げましたが・・・説明しておりますと話がばらばらになっていくように見えて、最後には一つになります・・・「数寄」というのは、数に奇蹟の奇という字を使ったりしますが、要するに、「あなたが好きです」のあのスキであります。室町時代にできた言葉であります。
お茶とか、海外の絵画とか、海外の茶碗とか、そんな高価なものを集めて喜んでいるというのは、金もかかりますが、堺の商人などの場合は、商売の道も忘れてしまうかもしれない。うっかり魂が抜かれて、そのために商売は傾くかもしれない。武将でありますと、政治と軍事を忘れてうつつを抜かすかもしれない。ですから、数寄というものは危険思想とされておりました。
危険はわかっているけれども好きだからというので、数寄屋普請とか、お茶道を数寄の道とか言ったりしたわけですが、江戸時代になると、言葉が少し品下がりまして道楽という言葉になるんです。「あれは道楽もんだよ」という、あの道楽であります。しかし、数寄というときには、ガラスの破片の上を素足で歩いているような緊張がありました。数寄者はそのぐらいの緊張をしてお茶室で何人かを集めてお茶を飲んでいる。お互いに数寄者の集まりであります。
その数寄が桂離宮で野放図に出ました。心の行くまで数寄の心が表現されたわけであって、月と風と、あるいは雪、なぞをこの数寄屋普請の中にいて楽しむ、自然を楽しむ、自然に溶け入っていく、いわば絵画の中の人物になっていくという当時の日本人の理想をあらわした建築です。
しかし、当時、もう鎖国が始まっていてだんだん南蛮人も来なくなっていまして、南蛮人で桂離宮を見た人はありませんが、たとえ見ても驚かなかったと思います。南蛮人は大坂城は見たことがあります。これは驚いたと思いますが、桂離宮には驚かない。
日本の権力者は大建築をつくらなかったということを申し上げましたが、ちょっと秀吉の大坂城だけは例外です。秀吉は日本歴史の中で一番贅沢ということをした人でしょうね。あまりああいう人は、日本人の中にいませんのですが、秀吉は、その贅沢をした人であって、これはその必要があったんでしょう。
秀吉の直轄領でお米がとれるところ、彼自身の財政を賄う直轄領は二百万石ぐらいだったそうであります。徳川家は、いろいろ説がありますが、四百万石といい、八百万石ともいいます。そうすると、質素な徳川幕府がそれだけお米のとれる直轄領を持っているのに、秀吉はたかが二百万石で、なんでそんなに贅沢したのかというと、貿易による収入があったからであります。これはじかに秀吉のふところに入ってきます。博多、堺の貿易による税金はじかに秀吉のもとに入ってくる制度でした。ですから、彼は貿易家としての贅沢をしたわけです。
貿易で、ポルトガル船なり中国船が大坂湾に入ってきますと、あ、すごいものがそびえているな、これは驚くべき富と力を持った国だということを印象づけるために大坂城は必要だったわけで、そのためにタワーのような天守閣をつくったんでしょう。これは大航海時代の終わりごろのことで、秀吉も、そのお師匠さんの信長も大航海時代の人問としてちゃんと意識を働かせていた人ですから、経済意識も、政治意識も、海外意識もあり、大航海時代の世界史の最後の人らしく、やはり巨大建築をつくったんでしょう。
江戸時代になって巨大建築ができるのは、姫路城ぐらいのものですな。これは徳川家にとって、もし島津、毛利が攻めてきたら、大坂へ入る前に姫路城で食い止めるつもりだったそうですな。ですから、国立の、当時の言葉で言うと天下普請、天下の人と富を集めてつくる公立の普請でした。一大名の普請ではないものでありました。ですから、大きかったんですけれども、あとはもうしょぼしょぼしたものにありました。(笑)
日本人は、権力者といえども、贅沢をしなかったために、われわれは目に見える壮麗な文化財を持っていないんです。非常に少なく持っているだけです。ちょっと残念ですけど、これはこれでいいんだと思うんです。日本文化の特徴というのは、大相撲のような大衆がつくりたもの、そしてまれに国立の大坂城とか姫路城があるけれども、それは非常に少ない。そして、桂離宮は、これもまあ国立ですが、あまりにもその時代の文化であり過ぎまして、容易にそこに参加しにくいですな。われわれは相当勉強して、これはいいんだと言われているから、「ああ、いいものですなあ」なんて言っているけれども、にわかに中国の奥地から人が来て、桂離宮を見ても驚かないでしょうな。「こんなの雲南省にあるよ」と言うかもしれない。(笑)
大名は地主ではなかった
ですから、人をこけおどしにかけるようなベルサイユ宮殿とかロシアのクレムリンとか、そういうものはないんですな。これは日本史の特徴ですね。なんといっても・・・京都御所です。明治になって天皇さんは憲法上の位置につかれたわけですけれそも、それまで乱世の中を生きてこられたのに、御所というのは、京都御所をごらんになったらわかりますが、濠といっても溝のようなもので、塀と言っても一重であって、それも高くなくて、僕でも忍び込めますな(笑)。それなのに、だれも忍び込まなかった。戦国時代でも忍び込まなかった。あれはつまり日本史そのものの感じであります。巨大な建築をつくって人を驚かせて、恐れ入らせるというのは奈良朝で終わった。奈良朝は七十年で終わって、そしてその役目は果たした。
日本の歴史というのは……そろそろ建築から話は離れていくとしているんですが、どういうふうに離れていくのかわかりませんが……日本史というのは相当な歴史ですな。第一級の歴史だと思います。決して田舎のローカルな歴史ではないと思うんですが、しかし、国がローカルにあるものですから・・・。
ヨーロッパの中心部とか、中国とかいった国は、文明を起こした場所ですから、世界史で習います。ギリシャの哲学者の名前を知らないと、やっぱり恥ずかしいですね。ソクラテスって何ですかとか、プラトンというのは何ですか、孔子とかいうのはよく知りませんな、・・・これは恥ずかしい。ところが、日本史の中の思想家の名前を、他国の人が知らなくても恥じゃないでしょう。だから、われわれは田舎におるわけで、その意味では、世界中の中学生や高校生の教科書には、親鸞という名前は出てきませんな、道元という名前も出てこない。この人たちは独創的な思想家で、その著作は世界の人類の大いなる遺産だったと思います。ですけれども、メインの中にいる国ではありませんから教科書には出てきません。
しかし、よく日本史を見ると、これは大変精密で、しかも発展の法則通り・・・発展に法則があるのかどうか知りませんが……たとえば、江戸時代の話をしましょう。
江戸時代、毛利さんは、三十六万九千石の石高で、山口県一つ。しかし、山口県一つの地主かというと、そんなことはないんです。地主ではないんです。一坪も土地は持っておりません。一反の水田も持っていません。租税を取って、それを行政に使うという権利と義務を持っているだけです。こんな貴族は世界中にありませんな。
ロシアは、帝政ロシアのころは、伯爵も公爵も、無論皇帝も地主でした。そして、作家のトルストイさんは伯爵で、日本で言えば大名ですな。小規模なる大名。大きな地所を持っていて、地所を持っていると農奴がその上に乗っかっていまして、農奴が何千人いるとか・・・。農奴千人というのは、わりあい売買でいい金になるそうですな。農奴三百人だと、やっぱり三分の一ぐらいの値段だそうです。それは新聞広告で出るそうですな。「自分の領地を売りたい。農奴千人」(笑)というと、これは高いものであります。そういうようにしてロシアは革命にまで至っておるわけであります。ロシアには農民というのも少しはいましたけれども、ほとんどが農奴でありました。
ですから、そういうものと日本の大名は違うのであります。毛利さんは、山口県一つの、今申しましたとおり租税を取って行政をすると、それで終わりであります。明治維新になって、全部領地を置いて、廃藩置県で東京に来て、華族さんになって、お手当がいいので、どの大名もみんな大喜びでした。江戸時代の大名の経済の苦しさというのは大変でした。末期のころはほんとうにほとんどが赤字。ですから、ほっとしたというのが彼ら大名たちの明治維新であります。
今の不動産屋さんの感覚でいうなら、毛利さんならば、江戸に大名屋敷を、自分の屋敷を六つか七つ持っているはずです。上屋敷というのが一つ。これは藩主の家族がいるところである。中屋敷、下屋敷というのは幾らでもあります。大きな大名には六つか七つあります。そのうち上屋敷だけが自分の地所であります。これは将軍から拝領したということで、売買はしません。上屋敷だけが自分の地所であって、これは三千坪から五千坪ぐらいあるでしょう。中屋敷、下屋敷は勤番侍がそこに住んでいたり、その他の江戸定府、ずっと江戸にいる人が住んでいたりしますが、これは江戸の町人から借地をしているわけである。つまり借地であります。大名たるものが、つまり武士たるものが、地所を持っているというのは恥ずかしいことだったんですね。
それから、むろん本国の長州、つまり今の山口県においても、一枚の水田も持っていない。それは当たり前のことであります。ですから、地所はないのであります。萩のお城の地所があるのと、屋敷の地所があるぐらいのものであります。
トルストイ伯爵とはずいぶん違いますな。トルストイ伯爵は自分の邸内に、自分及び家族の履く靴のために靴屋さんがいる。衣服をつくるための洋服屋さん、仕立屋さんがいる。トルストイ家のためのそういう職人、商人、その他が屋敷内に住んでいる。
近代思想を生んだ江戸時代
商品経済というのはロシアになかったようですな。江戸時代と比べてですよ。江戸時代の商売の数の多いことといったらなかった。しまいに、猫のノミを取りますという人まで流して歩いていたそうですな。毛皮か何か持ってまして、猫にそれをワッと被せるわけです。ノミはびっくりして、毛皮の方に移るもんですから、猫のノミを取ります。(笑)そんなわけで、商売の数は何千種類か知りません。
ソ連が崩壊して、ロシアが大変苦しんでおって、今、社会の体をなしていない。市場経済を学べとか、ヨーロッパに行って見学しようとか、あるいはアメリカや日本を参考にしようとか何とか言っているけれども、本来、帝政ロシアに商品経済があったならば、違ったと思うんです。
中国は社会主義をとっても、古代以来商工業がありましたから、それに戻っているだけであって、大崩壊してないわけであります。ノコギリをつくる職人とか、ノコギリの目を鋭くする職人とか。こんな職人や商人も昔の中国にはいました。江戸時代にもまたいっぱいいました。
・・・ロシアがそういう時代になってから、ロシアの小説を、もう一度非常にまじめに読んだことがあります。ドストエフスキーやその辺のものを。手当たりしだいに。小説に出てくる商売の数がどのぐらいあるかというと、五種類ぐらいしかありませんな。しかも、その五種類のうち、パン屋さんはイタリア系かドイツ系ですね。それから靴屋さんは、うろうろするとロシア人ではないですね。葬儀屋というのはあったみたいです。葬儀屋はロシア人です。ご存じのように、ロシアは宗教がカトリックではなくて、オーソドックスというロシア正教ですから、そのお坊さんにしきたりを知っている人間が連絡に行かなきゃいけないので、これはロシア人のようですね。 ですから、いまロシアがあわてているのは、過去にその伝統を持っていなかったからです。江戸時代は、その末期、前期資本主義と言うべき時代です。江戸時代末期、中期から。末期どころか、中期の中頃の赤穂浪士の事件のときに、末期どころか、中期の中頃の赤穂浪士の事件のときに、前もって赤穂浪士が吉良上野介が浅野内匠頭をいじめまして、「畳を全部敷きかえなくていいんですね」と言うと、「いいんだ」と吉良上野介は言う。ところが、途中になって敷きかえろと……。勅使が来るのはもう目前でした。そこで、江戸中の畳屋に頼んで立ちどころにできる。畳屋が、それこそ江戸中に何十軒か、何百軒かもしれませんが、ありまして、それへ職人を持ってきまして、それに頼めば、もう立ちどころにできるわけであります。元禄時代でそうであります。
・・・これは文化と大いに関係なさそうですが、今思想の話をしようと思ってこんな話をしているんです。商品経済が盛んになりますと、人間の考え方が合理的になるんです。 つまり、商品というものは、お金にのみ裏打ちされるべきであります。私のこの時計は、どこの露店の売店で四千円で買ったんですけれども、私の友達で時計屋さんがいまして、「おまえの時計はずいぶん立派だな」と言うんです。 時計の価値は四千円だと言うんです。まあそんなぐらいのものです。これは金色をしていますが、メッキであります。中身は機械が入っていなくてクォーツでありますから、安いもんであります。 このように商品というのは、つまり、お金で裏打ちされるのであります。おまけに、この商品は、これはスイス製ではなくて日本製ですが、もしスイス製だと、どういう経路で来ているかとか……。これは、江戸時代の商品で言うほうがわかりやすいと思いますが、秋田の木材というのは、杉においては上等である。そして、木曾の木材は檜において上等である。他の土地の檜は少し悪いとか、檜は板にしておくと、ちょっと歪(ひず)みが出ていい檜だ、というふうに値段が明快に違っていく。 商品経済というのが、人を合理的にします。頭を合理的にします。そして、そこに思想も合理化される。合理的思想ができてきて、江戸中期では、いろいろの思想が出る。近代思想の前触れそのものです。 相場というのは、今、兜町で立っていますが、あれは江戸時代の中期から。相場というのは、誰が立てているんだかわからないでないですか。ああいうふうな値段は、将軍、大名が命令しているのではなくて、自然とでき上がった。それが人を支配している。海保青陵という人が書いています。 そのほかに、世の中にお化けはないんだという、またいいエッセイがあるんですよ。これを読めば、なるほど世の中にお化け、幽霊のたぐいはないんだと……。これは堂々たる格調の高い論文です。山片蟠桃です。その他、いろいろあります。 いろいろありますが、そういう小さな論文だけでなくて、たとえば日本の古典を、十八世紀ですが、当時として、現代的、近代的な目で見直した本居宣長もいます。このもの価値のみをしたわけですね。これは値打ちがあるのか、値打ちのないものなのか、これは日本の古い神々のことを書いてある。そして神々以後のことも書いてあるが、これは文化として価値がある、というふうに品定めをしております。
そういう精神が近代の精神というものであります。ですから、近代の精神とか合理主義とか人文科学的な思考とかいうのは、難しい大学でやるものではなくて、市民の間ででき上がってくるものであります。
教育は文化ではない
それが日本文化・・・と言いますと、話が商品経済と変わりますけれども、奈良朝のときには、大変立体的な造形でした。東大寺をごらんになってもわかるように、薬師寺の塔をごらんになってもわかるように立体的なものでした。平安朝にいくと、平面的でしょう。お庭が室町時代ぐらいに発達しましたが、日本のお庭は文句なしに世界一ですね。お庭を芸術だとすれば日本が世界一で、二番目はちょっと考えられない……。
龍安寺の庭をご存じの人はたくさんいらっしゃるはずですが、龍安寺の庭も平面的ですな。白い砂があって、海のようであり、島のようなものもある。彫刻で言うとレリーフ、浮き彫りですな。やっと立体といっても、平面の中にちょっと島があるだけ。日本人は平面の発見を文化でしました。
たとえば龍安寺の庭に座っているとしましょう。お座敷があって、畳が敷いてあって、四十畳か五十畳の間であって、襖絵(ふすまえ)があります。これは箱の中にいるようなもんですな。そして、お庭を見通して、襖絵だけが立っておりまして、立体と言えば立体ですが、その襖絵も、何の絵が描いてあったか忘れましたが、要するに、たとえばルーベンスのような絵ではない。立体的な絵画ではない。非常に平面性の強い絵画ですな。空間も平面性が強い。
われわれは、平面性の中で安らぎますな。冒頭に、文化とはなにか非合理なもの特殊なものだと言いましたが、それにもう一つ付け加えますと、文化はそれにくるまれて、安らいで楽しいということをつけ加えなければいけません。長いヨーロッパ旅行をして自分の家に帰ってくると、蚕が繭にくるまれているように楽しくて安らぐ。それが文化ですな。つまり、家に帰ってきて、丹前に着かえて座ってみると、ああ落ちついたというのは、これは文化であります。
どこかのホールでニューヨーク交響楽団を聴く。これはどうなるんだという人がいるかもしれませんが、音楽の好きな人にとっては音楽にくるまれているのは楽しいことで、これも文化なんですな。
今日ここには文部省の偉い人がたくさんいらっしゃいますが、教育は文化ではないんですな。つまり、教育はなすべきことなんですな。私は学校に行くときに、学校が嫌いで、カンニングはしたことはありませんが、横の子がカンニングしているのを見て感心したことがあります。いろいろ上手に小道具をつくって、それにおそらく一週間はかけていたんじゃないかと思いますが、いつも思うのは、あれが文化だったなあ……。(笑)それから、教室を抜け出していく人も、いるかどうか知りませんが、映画に行ったりする。無論停学になります。教育はその子を停学にすべきです。しかし、その子は文化を見にいったわけです。だから、教育と文化とは相反する場合が多い。(笑)
それは別としまして、文化というものが、日本文化というものが、日本史が第一級のものであるように、日本文化が第一級のものでありたいと僕は思っているんですが、ニューヨークに行っても、パリに行っても、ロンドンに行っても、・・・その日本文化がないとわれわれはどうなるか。われわれには第一級の文化がある、というのが救いになる。
たとえば室町時代に世阿弥を出して、すぐれたお能ができ上がったし、江戸時代に歌舞伎があり、それは貴族のつくったものではなくて、大相撲と同じように庶民の木戸銭ででき上がったものですし、それから十世紀のころには『源氏物語』という世界で最初の小説を書いた人がいる、芭蕉という世界的な大詩人も江戸時代に出した、そして西鶴という非常に近代的な小説家を江戸中期以後に出したとか、……むろん、絵画、建築、桂離宮などを含めて、そういうものがなければ打ちひしがれるでしょうな、パリやロンドンみたいなよその国を旅しているときに。
私は一メートル六十四センチしかありませんが、背の高い国の人々の中に入っていると、ああ、おれは小さいなと思うだけで、少し自分をこっけいに思うだけであって、恥じ入ることはないのは、やはり自分の後ろに日本文化があると、どこかで思っているからでしょうな。
明治時代と夏目漱石
ただ、明治のときに、旧日本文化は全部否定されまして、東京にドーンと欧米型の大文明の配電盤ができた。欧米という電源から電流をもらっていて、……これも買って来たんですが。留学して貰ったり、お雇い外国人に高い給料を払ったりして。本郷に東京大学ができて、農学部は各府県の農務課と連絡し、各級の農学校その他の、東京で文明を受け入れた新しい農学が岩手県の農学校に配られていくというような、配電盤の役目をしておりました。ですから、ヨーロッパ、アメリカにはかなわないと・・・。江戸時代に文化があった。柴式部が平安時代に出たとか、そんなことはもうどうでもいいという、まことにこの時代は打ちひしがれている時代でありました。
夏目漱石が明治三十年代にロンドンに留学して、もう二度と行きたくないような呪い方をしていますね。漱石は日本文化なんて思ったことがなかった。時代がそうでした。また漱石はまだ大学生のころに京都に行きました。京都なんていうのは、和辻哲郎が出てきたおかげで、古寺礼讃になって、京都文化というのは大変なものだということ大正時代以後になりましたけれども、明治二十年代の東京の大学生が京都に来て、正岡子規と二人で来ましたが、お寺ばっかりあって陰気なところだと、・・・。それだけの印象です。大学教授をやめて朝日新聞に入社して小説を書こうというときに、最初に朝日新聞の学芸欄に、関西の印象として学生時代に京都に旅したときの印象を書いていますが、それは悪口です。
つまり、日本文化というものは、偉大なる漱石でさえ、時代の子ですから・・・漱石というのは、ほとんど明治元年に生まれた人ですしたかな・・・死ぬときまで明治そのものを信じていた方であります。明治とは何かというのは、欧米のよきところを取り入れるのに忙しかった時代ということですね。漱石は、その先端にいた人である。ですから、日本文化なんて考えたことがなかった。
漱石はロンドンに行っていて、ちょっとあばた面の人ですが、いい顔をしているのに、当人は劣等感がありました。私は一メートル六十四センチありますが、漱石は一メートル六十センチあったかなかったか。向こうから小さなやつがやって来る、イギリスにもこんなやつがいるのかと思ったら、ショーウィンドウに映った自分の姿でした。漱石はほとんど神経衰弱になっておりました。だから、漱石は、世阿弥がいるから、芭蕉がいるから、おれはロンドンを歩いても平気だぞというような時代の人ではなかったんです。それは時代が明治だったからです。
われわれの今は、漱石の時代と違って、たくさんの古いものを新しい目で、つまり奈良朝の彫刻も、奈良朝の建物も、平安朝の何がしも、そして室町時代につくられ始めた日本庭園というものも、われわれは、どなたでもそうです、西洋人のような気持ちで見ていますな、半分。……これは明治を経ていますから……。 だから、日本画も、そして日本の古い江戸時代の小説も、どこか、つまり外国文学になじんだものとしての目で見ている。そして、それで合格しているわけです。みんなの目で、あるいは頭の中で日本文化は合格しているわけであって、だから、大相撲も歌舞伎もお能も、お能はちょっと退屈ですけれども、今なお続いておる。これはまあわれわれの目に合格しているんだから、イギリス人やフランス人、アメリカ人やアフリカ人や中国人の目にも、おそらく彼らがおもしろがって参加してくれれば、彼らも喜ぶものに違いない、彼らも尊敬してくれるものに違いないと・・・。
ですから、おそらく日本文化というのは、自信を持っていればいいんじゃないか。日本史に対する自信と同様にですね。そういうふうに思うのであります、というのがこの話の終わりであります。
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