筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」
pp.246‐248より抜粋
ISBN-10 : 4480077359
ISBN-13 : 978-4480077356
奥野 「Taking seriously ~を真剣に受け取る」というのは、西洋の認識ではなく、人々にとっての存在の意味を問う、いわゆる存在論人類学の標語のようなものです。インゴルドだと「他者を真剣に受け取る」とか、ウィラースレフだと「アニミズムを真剣に受け取る」というような言い回しでよく使われます。
「Taking seriously」について、私自身のフィールドワークの経験から、少しだけ話してみたいと思います。ボルネオ島(マレーシア・サラワク州)の狩猟採集民プナンの話です。その日は、朝から数人で連れ立って森の中に狩猟に出かけました。舟で川を遡って、やがて川岸に舟を置いて歩き始めると、急斜面を一気に登り切ったところに「絞め殺しイチジク(nonok)」の大木があったんです。
イチジクの果実は、鳥や動物たちに食べられて、糞とともに排出され、発芽して、そこに立っている木の幹を伝って根を伸ばしていくのです。やがて根が分岐し、木の幹を網状に覆うようになると、木は枯れてしまって、幹が中空になります。じっと一心に眺めていると、私には、地表に落とされたイチジクの種子が、まるで意識や思考の原初形態のように、意志や志向性を持って伸びていっているさまが突如目に浮かんだんです。咄嗟に私は、プナンのハンターのひとりに、イチジクには魂(berewen)はあるのかと、問うていました。 「ない」という即答でした。
でも彼もその絞め殺しイチジクの大木を眺めながら、その木は「髪の長い美しい女のカミ(baley)」だと言いました。加えて、昔はシャーマンがいたが、シャーマンには、その女神の姿が見えたとも言った。その時私には直観的に、プナンにとっては、中空の幹は穿たれた孔の奥の深い神秘であり、森を歩く男たちにとっては、それは神々しい女性的な存在であると感じられるのではないかと思えただけでなく、私にもそのことがしっくりと行ったんです。
その日は一日歩き回って獲物がありませんでした。狩猟キャンプに帰るために、懐中電灯の明かりを頼りに、私たちは無言で歩き続けた。アブラヤシ農園の中の道を歩いている時に、50メートルほど先の樹上を誰かが懐中電灯で照らした時、ふたつの目が光った。プナンのハンターは、小走りに至近距離まで近づいて、その目をライフル銃で撃ったんです。 つまり一匹の夜行性の野生動物が獲れたんです。それは、プナン語では、スリヤット(seliyat)と呼ばれる、夜行性のベンガルヤマネコでした。
私たちは、なんとこの2日間ほとんど何も口にしていなかったため、獲物をその場で解体して、食べることになりました。プナンが火を焚き、食事の準備を始めると、疲労困憊し、眠くてしかたがない私は地べたにへたりこんだんです。少しの時間だけでもいいから、寝たい。
枕大の石の上に後頭部を置いて、眠ろうとした時、私の体の上を何かが動き回っているのを感じたんです。懐中電灯で照らすと、2センチほどの体長の無数の大きなアリでした。最初は手で振り払っていたが、それでは眠れないため、レインコートをリュックから引っ張り出して、それで頭からすっぽりと全身を覆いました。そのようにして、アリたちの侵入を遮って、何とか眠りにおちたのだと思う。
それから、どれくらい時間が経過したでしょうか。焚火はまだチョロチョロと燃えていたようでしたが、あたりは深い静寂に包まれていたんですが、夢とうつつのはざまで、シャカシャカシャカシャカというアリの動き回る音が、私の頭の中に大音響で響き渡ったんです。その時、私のまぶたには触角を揺すりながらうごめく巨大なアリたちが映し出されました。アリが人間の大きさになったのか、はたまた私自身がアリの大きさにまで小型化したのかは分かりません。いずれにせよ、その時、私はアリの世界の一員となっていたのではないかと思っています。
無言で獲物の食を準備するプナン。研ぎ澄まされた夜の聴覚。化学繊維の布地を大音響で歩き回る、大写しになって現れたアリたち。それは、ほんの20〜30分ほどの出来事だったのでしょうが、私は、肩のあたりをゆすぶられ、ベンガルヤマネコの肉を食べるように促されました。
こんな体験がフィールドワークをやって、人々とともに暮らしていると、時々起きるのです。絞め殺しイチジクの大木が、髪の長い美しい女のカミであると感じられたのが最初です。ふたつ目は、私が体験したアリの世界の一員への「なりきり」の話です。 プナンは、野生動物の狩猟に出かける時には、動物に「なる」のですが、そのことが直観的に分かった瞬間だと言ってもいいかもしれません。こういった話を『絡まり合う生命』(亜紀書房、2022年)という本に書いたのですが、それを、今福龍太さんが『日経新聞』の書評で取り上げて下さいました。今福さんは、「均質化された『世界』の外部にいると思われる『圧倒的な他者』の生のただ中に『じっくりと漂う』こと。するとそこに、瞬時に現れては消え、ふたたび現れる瑞々しい世界が感じられてくる」と読み解いてくださっています。
一般に、私たちが低いものだと見てきた人々の暮らしは、これまで長らく持続可能だったし、もっとずっと内から湧くような力に満ち充ちていたことに、「他者の経験を真剣に受け取る「taking seriously」という態度によって、人類学はこれまで接近してきているのだと思います。
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